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帝というのは、やはり下賎の者からは計り知れないものなのかもしれません。
朝廷で権勢を誇っていた五人の貴族が、尽く破滅してしまったことよりも、
そうさせたかぐや姫の遣り方のほうが、帝的に大ウケだったようです。
そんな性悪な姫ならば、試しに傍に置いてみようと思われたようで、
ある日、おじいさんのもとに帝からの使いがやってきました。
誰の使いであったとしても、かぐや姫の答えは変わらないことを、おじいさんは知っていましたが、
相手が帝ならば無下に断るわけにもいかず、のらくらとその場を流し、
帝からの使いには取敢えず帰っていただきました。
しかし、いつまでも誤魔化せるとは思えません。
おじいさんは、かぐや姫に話をすることにしました。
あの五人の時のように、きっと機嫌を損ねるだろうとは思いましたが、
仕方ありませんでした。


月の大きな夜でした。
かぐや姫がいる筈の、奥の間に行くと明りがついていません。
不思議に思っていると、外から声を掛けられました。
見ればかぐや姫は中庭に立ち、おじいさんの方を見て笑っていました。
「何してんですか」
そう聞いても、答えません。
冴々とした月光が、青白い微笑を淡く浮かび上がらせていました。
おじいさんは、ふと奇妙な感じがしました。
それは、天の真中にある大きな月の、覚束なく欠けた姿のせいなのか。
池に沈んだ水鏡の月が、あんまり冷たく凝って見えるせいなのか。
けれど、かぐや姫が縁に腰を下ろしておじいさんを見上げたので、
その漠とした何かのことは忘れてしまいました。
おじいさんは、帝の使いが来たことを告げました。
かぐや姫は柳眉を顰め、やはり機嫌悪そうに話を聞いていましたが、
どうすべきかを問われると、物思わしげに黙り込んでしまいました。
その沈黙に、おじいさんは何かどきりとしました。
かぐや姫の様子が、五人の貴族が求婚してきた時とは違うようでした。
水鏡の月を眺める眼差しが、何を浮かべているのか、窺うことは出来ません。
もしかしたら、帝のところに行くことを考えているのかもしれません。
そんなまさか、とは思います。
けれど今度の話は帝ですから、前と同じように無理難題を突き付けるわけにはいかないかもしれません。
かぐや姫がいなくなってしまう。
そう考えると、喉に氷塊を詰め込まれたように感じました。
それだけはどうしても耐えられない、考えたくもない事でした。
おじいさんは何も声をかけられませんでした。
その強張った表情に、ふと気付いたかぐや姫はいつも通り、
酷薄な、けれど艶かしい微笑みを浮かべました。
白い指が夜空をさします。
つられて月を見上げたおじいさんに、かぐや姫は言いました。
「この国の人間でなく、あの月の都の住人が片時の間として下った身だから、
いつか帰らねばならないので、とても帝の相手なんかしてられません、て言ってやれ」
「……なんすか、それ」
「面白ぇ話だろ?」
二人は顔を見合わせ、屈託無く笑いました。
かぐや姫は五人を退けた時と同じように、今度も適当に流してしまうつもりなんでしょう。
おじいさんはすっかり落ち着いていました。
「面白いですけど、流石に怒るんじゃないですか? 話が前よりとんでもない方向に行きますよ」
「いいんだよ、別に」
かぐや姫はおじいさんを見上げ、また笑いました。
その瞳で青い月がぼんやりと揺れていました。


翌日、再び訪れた帝の使いに、おじいさんはかぐや姫の言ったことを伝えました。
するとその晩には帝の返答を持って、またやって来ました。
帝は面白がっているのか、その返答は、
月に帰ってしまうのは残念だから、その前に一度くらい顔を見せろというものでした。
かぐや姫は面倒そうに、
「この月の十五日には迎えが来るから、ガタガタ言ってねぇで大人しくしてろって伝えろ」
そう言うと、また月を見ながら、傍らにいるおばあさんの相手をしてやっていました。
おじいさんは夜空を見上げました。
月はだんだんと膨れてきていました。


十五日、帝から二千人の軍勢が送られてきました。
かぐや姫を月に帰すのは惜しいから、月からの迎えを討ち取るための軍だそうです。
おじいさんの家は急に物々しい空気に包まれました。
けれど、かぐや姫は平然として「勝手にさせておけ」と言います。
おじいさんは元よりそのつもりでした。
かぐや姫が月の住人であるというのは、方便でしたから。
明日になれば、帝の威光に月の使者も恐れをなしたとか適当なことを言って、
軍を帰してしまえばいいのです。
それよりも明日からのことを考えねばなりませんでした。
帝がまだ何か言ってくるようなら、今度はどうすればいいでしょうか。
おじいさんは、いっそこの国を出てもいいと思っていました。
そんな事をかぐや姫に話すと、西の大陸に行ってみたいと答えました。
それもいいと思いました。
三人で、気ままに彷徨うのも悪くないと思いました。
おじいさんが笑ったので、かぐや姫も笑いました。


そして、夜が来ました。
大きな真円の月が静かに空へと昇っていきます。
家を取り囲む二千の兵は青く凝った影のように見えました。
ぎらりぎらりと、しきりに月光を照り返すのは抜き身の刃なのでしょう。
天刺す槍が幾重に連なって夜気を揺るがしていました。
ぼんやりと、おじいさんはその様子を眺めています。
ふと思い出すのは、あの日のことです。
竹林の中で会ったかぐや姫を連れて、家に帰ろうとしたあの時も
何の気無しに振り向いた先には、空を覆おうとするような月がありました。
結局、かぐや姫は何なのか、人なのか化生なのか、おじいさんは知りません。
今更聞いてみようとも思いません。
ただ傍にいてくれるなら、それでいいと思うのです。
おじいさんは夜空を見上げました。
月は、遠いと思いました。






いつか時は過ぎ、月が中天にかかりました。
誰に言われたわけでもなく一人二人と口を噤み、息を凝らして空を見上げていました。
何か、もの凄いような月でした。
おじいさんは思わずかぐや姫の姿を探し、庭先にその姿を見つけました。
月を仰ぐ青白い顔は、怖いような表情でした。
その瞬間、いつかの漠とした感覚に襲われました。
喉から迫り上がってくるそれが、不安だと気付いた時、いったい何をこうも不安になっているのかと戸惑いました。
おじいさんはかぐや姫に声をかけようとしました。
喚声が上がったのはその時でした。
月が真昼のように輝いたかと思うと、茫と明るい雲が湧きました。
それは緩やかに形を変えながら月から別れ、地上へと降りてきます。
雲のように見えたものが、無数の人影だと分かるほど傍近くになった時、
喚声は怒号と怯え、刃を打ち鳴らす音に様変わりして、轟々と唸る大きなうねりになりました。
おじいさんは呆然と、月から降りてくる者達を眺めていました。
自分の目に映るものを信じられませんでした。
到底真実とは思えませんでした。
真実でないのに、どうしてこんなものを見なければならないのか、自問しました。
こんな事がある筈が、ないのです。
帝への、ただの作り話だった筈です。
それなのに。
おじいさんは今度こそかぐや姫に問おうとして、異変に気付きました。
あの悲鳴のような凄まじいうねりが、どうしてかまったく聞こえないのです。
それどころか微かな息遣い一つしません。
まるで、あれだけの軍勢が全て死に絶えてしまったような、静けさでした。
怖気がして、辺りを見回そうとしました。
出来ませんでした。
首も、目も、動きません。瞬き一つ出来ません。
まるで、知らぬ間に自分の身体が人形のそれへと、すり替えられたようでした。
口は息を吸うことを忘れ、心の臓ですら凍りついていました。
世界の全ては、動くことを止めていました。

けれどたった一人、かぐや姫だけは何も変わりませんでした。
冬の湖に似た双眸で辺りを見回し、ほんの少し嘆息すると、月光の底を歩き出しました。
頭上を覆う空は既に、異形の人々で埋め尽くされていました。
かぐや姫はおじいさんの前に立ち、唇を開きました。
そして確かに何かを言った筈なのです。
けれど、その声を聞いた人間は誰もいませんでした。























死体のようだと、思うのです。
指一つ動かせず、息もせず、心の臓も動かないのなら、それは死体と言うのでしょう。
事実、そう思いもしました。
死んだのなら、それでもいいと思ったのに、それなのにまた全ては元に戻りました。
おじいさんは、ふらつく足で外に出ました。
見上げれば月の位置は殆ど変わっていませんから、僅かな時間しか経っていないのでしょう。
兵士は皆、恐ろしいものでも見るように互いの顔を見比べ、
天高い真円と、辺りを照らす月光に怯え続けました。
やがて、ぼやけた朝が来ました。
倦み疲れた兵士達は京へと帰り、おじいさんの家はまた静かになりました。
けれど、かぐや姫はもうどこにもいませんでした。
おばあさんは月が出る度に、泣くようになりました。
おじいさんは、泣くことはありませんでした。
ただ、死んだように生きていきました。























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