『犬と学ラン』






その学校には、足を踏み入れるのを誰もが躊躇するクラスが、一つある。
ある教師の曰く、暗くて深い濁流がある。
またある教師曰く、軍事境界線。
教科担任は皆一様に、そう評す。
教室のドアを開けるのが恐ろしい。
びくびくしながらドアを開け、顔を上げ、一番後ろの席を確かめるのが恐ろしい。
廊下側と窓側。
二つある席のうち、もしもどちらかが欠席ならば、まあ安堵してもいい。
けれど、もしも二人とも揃っていたならば、自分の不運を嘆かねばならない。
ドアを閉めて引き返すことができないのなら、
何事も起こらぬうちに心の中で、安らかな時間に別れを告げるべきだ。
そして息を凝らして、己の職務を遂行すればいい。
後は何が起きたとしても、知ったことじゃねぇ。



俺の知ったことじゃねぇ!
教卓に立つ数学教師は、本当はそう、叫びたかった。
しかし魂がそう叫んでいたとしても、彼自身は一見至極冷静だった。
左の手にはテキスト。
右の指にはチョーク。
語るは、今期の範囲内で一番、説明していて気持ちの良い箇所。
だから弁舌も爽やかにいきたいところだが。
無理だ。
このクラスでそれはあまりに無理な話というものだ。
板書しつつ生徒に説明しようと振り返れば、その二人が嫌でも視界に入る。
廊下側の秀人は、一応教科書を机の上に置いているが、
頬杖をついて、まったく違うことを考えているのだろう。
窓側の緋咲はそれすらしていない。
窓の下に背を凭れ、腰掛けた椅子の足をゆらゆらとさせている。
まあ、いい。
俺の話を聞けとは言わない。
ただ、お願いだから俺の授業のときに問題を起こしてくれるな。
彼の悲痛な魂の祈りは、もっともだ。
この二人、凄まじく反りが合わない。
顔を突き合わせると、それはもう驚く速度で殴り合いになる。
学校は、君たちが喧嘩するために存在しているわけじゃありません。
それは職員の誰もが切実に思っていることだった。
最近は、ようやく少しは落ち着きを見せているようだが、
それでもこのクラスを受け持つ教科担任は、拭いきれない緊張感を抱く。
何気なしの些細なことが、大災害に繋がることもありうるのだ。
だから、この二人が揃っている教室に、気安く入ってくる人間はいない。
一人を除いて。
「緋咲ー」
その一人がいきなりドアを開けたので、数学教師は驚愕した。
そんな様子に時貞はまったくお構いなしで、緋咲を見つけ にっと笑う。
「ごはん」
すっとぼけた台詞に、緋咲は
「俺はごはんじゃねぇ」
至極真面目な顔で答えた。
数学教師は愕然としていた。
とりあえず口をパクパクさせながら、時貞に自分の教室へさっさと帰れと念を送る。
すると、時貞の後ろから長い顔がにょっきり出てくる。
人間ではない。
犬だ。
すこぶる大きな犬が二匹も教室に入ってくる。
「おい、バカ犬兄弟が何でここにいんだよ」
緋咲の呆れた声に、時貞は何故か、照れたように笑った。
「来ちまった……」
それはまるで、まだ幼い弟たちが寂しさに学校までやって来てしまい、
愛しいやら照れるやらで困ってしまった兄のような表情だ。
実際のところ、そのとおりなのだが。
ちなみに時貞の家から学校までは、人間だったら歩くのはまず躊躇する距離だ。
「結構歩いたから、腹が空いたらしい。だから何か食わせたい」
緋咲は仕方なさそうに立ち上がる。
その実、暇だから丁度良いと思っていたが。
数学教師は制止しようとしたが、二匹が迫ってきそうなので黒板に貼りついた。
「腹減ってんなら」
緋咲は秀人の机に腰を下ろし、
「こいつ食わせちまえ」
眉根を寄せた秀人に微笑みかける。
間近に見下ろす瞳には悪意が煌いている。
「元が肉食の生き物だから、食べられるとは思うけど。あんまり妙な癖がついても困る」
時貞も秀人を覗きこんだ。
「おまえらな……」
秀人はうんざりして言った。
「喧嘩なら買ってやるから、おまえら二人うざ過ぎるのをどうにかしろ」
時貞は、そんな秀人の学ランの襟から見えるあたりを指差し、
「なんか秀人クンてば、ここだけちょっと色が違う」
「ああ、それ前に俺がやった」
「……ホントおまえら人の話聞かねえ奴だな。もう帰れ」
「なんだよ? 随分つれねぇな。もっと馴れ合おうよ、秀人クン?」
言葉に反して、ただ悪意だけがある緋咲の微笑を、
「おまえが言うな」
秀人は悠々と切り捨てる。
「こないだの続きがしてぇんだろ? いいんだぜ、俺は。また手首外してほしいんだよな?」
「……ホントにむかつく奴だな、秀人クンは」
緋咲の双眸が苛烈な光を放つ。
「今度はきっちり首の骨へし折ってやるよ……」
二人の周囲に一瞬にして極寒の風が唸りを上げた。
黒板に貼りついたままの数学教師は、軽く泣きが入る。
出来ることならあの窓の向こうに広がる美しい青空に向かって「お母さん !!」と叫びたかった。
そんな彼を救ったのは、彼を窮地に追いこむ切っ掛けを作った本人だった。
「あ、唸ってる」
時貞は、二匹のボルゾイが彼に機嫌悪く唸っているのに気付くと、
「早く行こう」
空気を読まずに緋咲の腕を掴んで引っ張っていった。
「あ、バカ。まだ話が終わってねぇよ!」
「後で」
そうして二人の騒ぎはだんだんと遠ざかっていく。
秀人は呆れたように小さく笑った。
それから何事もなかったようにドアを閉め、また頬杖をつく。
数学教師は、こいつ怖ぇ、と思った。





青空の下、悲鳴が響いている。
それを聞きながら、緋咲は芝生の上に横になっていた。
「元気いーなー、あいつら。帰りに犬缶買ってやるか」
別に犬肉を買ってやろうという話ではない。
おそらく犬用缶詰のことを言いたいのだと思われる。
学校の購買にそんなものはなかったので、ノンオイルのツナ缶を与えてみたところ、
二匹は食いつきもよろしく、今まさに元気に駆け回っている。
学校内を。
連鎖的に聞こえてくる悲鳴を、心地好い風が運んできてくれる。
時貞は目を細め、なにか不可思議な微笑みを浮かべていた。
隣で寝転がっている緋咲は、その顔をぼんやりと見上げた。
二人のいる木陰は涼しく、木漏れ日は優しい。
緋咲が小さく欠伸をする。
「……ちっと寝る」
「いいけど、いたずらするよ」
「すんな」
言いながら、その目蓋はもう閉じられている。
時貞は緋咲の煙草を一本もらうと、ゆっくり紫煙を燻らせた。
いつか二匹も戻ってきて、木陰に長々と横になった。
空の青く、静かな午後だった。













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すみません、アホな話で。

もう裏に帰りたい。