『 solid spiral  1  』




壊れて役立たずの鍵を開けて、封鎖された屋上に出れば
視界全てが秋の空。
緋咲はきゅうと目を細めて暖かな日差しを見上げる。
薄ら白い雲、空を柔らかく青に透かして。
頭の遥か上で風が鳴く。
ぼんやり吐き出した紫煙は風に乗り、もう見えなくなった。
白い指が唇から煙草を摘んで落とす。
コンクリートの上で燻るそれを踏み消して、緋咲はフェンスに手をついた。
転落防止用のフェンスは低く、青空は果てなく頭上に展開。
その下、中庭を挟んだ向こうに灰色の校舎がある。
緋咲のクラスは丁度、赤く色付いた木々の影になってここからでは見えなかった。
そして今は授業中の筈。
下から吹き上げてくる風は静かで、授業の音も街の音も伝えてこない。
緋咲の足の下でも特別棟はひっそりとしていた。
ちらりと時計を見る。まだ昼休みまで30分近くあった。
もう少しここにいると時貞あたりが来るかもしれない。
封鎖されている筈の屋上が、去年から緋咲達二年のたまり場になっていることに教師は誰も気づいていなかった。
とことん朝に起きれない緋咲は大抵遅刻して来、ここで時間を潰すことにしている。
フェンスに肘をつき見下ろしていると、赤い葉が風に散らされ、きらきら舞い落ちた。
背中に陽があたってじんわりと暖かい。
雲の絶え間から覗く太陽はここら一帯にだけ強い光を投げかけていた。
灰色にそびえ立つ校舎の影はだんだんと濃くなっていくのに
その向こう、街の輪郭は微かに揺らいで空気に溶け。
建物のごちゃごちゃと混み合った影も、たぶんその下で動き回っている人間も
まるで薄らぼんやりで、余計に埃っぽく見える。
そういえば、こういう天気を何ていうんだっけ。
前にあいつが何か言っていた気がする。
緋咲は校舎の方をじっと見据えてみた。
彼の目は決して悪くは無かったけれど、それでも特徴ある銀髪の姿を並んだ窓の中から見つけられなかった。
すぐに興味を失って新しい煙草を取り出す。
頭の遥か上、風が鳴った。
顔を上げれば、夏とは違う空の顔。
地表で生まれた風は空に渦を描き、雲の絶え間に吸い込まれていく。
目を閉じれば、目蓋を透かす赤い熱と光。
誰か来るまで日向ぼっこでもしようか。
空を駆け昇る、透き通った螺旋の下。



頭の中で鈍い音がした。



目を開ける。
空が大きく震えている。
次の瞬間目の前にあったのは滑らかなコンクリート。
どうして下を向いているんだろう。
衝撃がまた脳味噌を揺さぶった。
もう一度、もう一度、またもう一度。
自分が膝をついている事にようやく気付いた。
後で笑う誰かの悪意。
音が、さっきから煩い音が脳味噌を揺らしている。
それが、自分の頭が殴られている音なのか、それとも頭の悪そうな誰かの笑い声なのか、よく分からない。
うるさい。
見開いた視界
頭から伝い落ちた血がコンクリート目指して落下していく。
赤の液体は正確な球形を保ったまま酷くゆっくりと回転していた。
鏡そのもののような表面に映る、自分の瞳が見えた。
風の音はもう聞こえない。












その階段は薄く雲のかかった空へと螺旋状に伸びていく。
時貞は特別棟に据え付けられた非常階段をゆっくりと昇り始めた。
昼近くになってからようやく学校に来た時貞は勿論授業に出る気は無くなっていた。
こんな日は、緋咲ならきっと屋上でさぼっている筈。
もしかしたら学校にすら来ていないかもしれないけれど。
視線を上げると、屋上まで昇りゆく螺旋の真中に秋の空が見えた。
雲間から顔を覗かせ始めた太陽が階段に濃い影を落す。
黒い鉄に絡みついた蔦が強く赤い光を反射した。
秋の草葉よりも緋い瞳で時貞は上を見据えながら螺旋を昇った。
次第に高く、そして開けていく視界。
錆の浮いた手摺、枯れていく蔦。
自分の足音が鼓膜を震わせる。
それは螺旋の上と下に響きあい、まるで自分一人だけではないようで。
急に空気の塊が喉を詰まらせた感触に時貞は小さく呻いた。
そして舌打ちする。
緋い双眸は自分の立つ場所を睥睨した。
色褪せた空の下、そこに広がる埃っぽい街。
風の匂いは違う筈なのに、それが遠い記憶を思い出させる。
もう壊れてしまったくせに、遠い遠いあの街は。
隙間を見つけては脳味噌の中へと溢れ出し、鮮やかな映像を目の前に付きつける、何度でも。

あの街の、
寄り添うように密集したアパート。
古ぼけた壁には落書きと、錆びた螺旋階段。
青空へと伸びるそれは日の光を浴びると鈍く、ひやりと輝いた。
それを駆け上がる自分はまだ小さくて。
螺旋はあんまり長く、高くて。
みんなで競って、息を切らせながら屋上を目指した。
どたばたと靴音がうるさいと、その度に四階に住んでいたおばさんに怒られた。


けれどあの人も死んでしまった。
みんな死んだ。

殺したのは

殺したのは


喉に詰まった空気の塊が窒息させようとしてくる。
苦しさに視界が歪む。
螺旋が揺れる。その下の街が壊れる。
どうしてだろう。
もうとっくに壊れてしまったくせに、遠い遠いあの街の残影は。
いつまで俺を、瓦礫と死体の中に一人立たせるんだろう。
脳味噌の中に割り込んでくる小さな記憶に怯えて、たやすく震える心。
こんなものが欲しかったわけじゃない。





階段を降りてくる足音に気付き、時貞はようやく顔を少しだけ上げた。
赤く汚れた靴。
血の匂いがする。
瞬間、そいつと擦れ違う。
「緋咲?」
時貞の声に緋咲はぼんやり振り返った。
冷たい色の瞳がその時確かに時貞を見た。
そうして、硬質の眼球に緋い瞳を映しこんだままその身体は仰向けに螺旋を落ちていった。

完全な中空で、それでも緋咲は眠たそうに目を閉じる。




「……すげぇびびった……」
冷たい色の瞳が大きく瞬きする。
時貞が伸ばした腕を掴んだまま緋咲は茫然と呟いた。
片足はまだぶらぶらと宙に浮かんだままだった。
「緋咲、おまえ寝ながら歩いてんじゃねーよ。何コケてんだよ」
「うるせぇッちっとボーっとしてたんだ」
不貞腐れたように言うと緋咲は時貞の手を放し、今度はしっかりと階段に立つ。
「あー、びびった」
言葉のわりに緋咲はもう平然としていた。
その眼差しにはいつも通りの透き通る冷たさが。
足許はまだ少し覚束ないものがあったけれど。
誰にやられたのか、耳の後から項にかけて血の滴り落ちた跡がまだ乾いてもいなく
赤く染まっていない部分を探すほうが苦労する。
そのせいでいつもより血の気が無いように見えた。
「何やってんだよ…」
そう言いながら時貞は自分の腕を見下ろした。
緋咲を掴んだ方の手が細かく震えている。
それを押さえつけようとする腕にも震えが伝わる。
鳥肌が立っていた。
喉にまた、あの嫌な感覚が迫ってきそうになる。
「…なんでそんな顔してんの」
目の前で緋咲が小首を傾げている。
「なにが」
「すげぇ変な顔してる」
緋咲は真っ直ぐに時貞を見据える。
冬の湖に似たその瞳を見返し、時貞は黙って首を横に振った。
腕の震えは緩やかに収まっていく。
「別に、何でもない」
「…ふぅん…」
緋咲はきゅうと目を細めたけれど、それ以上は聞かなかった。

コイツは妙に勘がいい。
だからコイツには言わない。
ほんの一瞬でも、あんな胸糞悪い恐怖を感じたなんて。
コイツには絶対に言わない。
本当にコイツが死ぬかと思ったなんて。

緋咲は自分の足許が赤く汚れているのに気付くと、ひょいと靴裏を覗いた。
それは血でぬるぬると滑っていた。
「げ、きったねぇ…だからコケたんだ」
「手も汚れてる」
時貞がそう言うと緋咲は自分の手を前に掲げて顔をしかめた。
その手は乾いてない血でべとべとになっている。
「緋咲…おまえ何したんだ」
緋咲は血塗れの手に嫌悪を剥き出しにする。
白い肌の上を掠れながらのたくる蛇のような赤。
「屋上でいきなり後からバットで殴られた。あぁクソ、汚ぇな…すげぇムカツク」
「誰に」
時貞の緋い瞳はすでに螺旋階段の先、屋上を見据えていた。
「ん…なんつったっけ、あの3年の……やっぱ名前知らねーや。誰だアイツ等」
早く手を洗ってしまいたいようで、緋咲はさっさと階段を降りていく。
「まぁ、いいや。そんなもん」
「ふぅん?」
逆に時貞は螺旋を昇っていった。
緋い瞳は上を見据えたまま。
「…おい、時貞」
緋咲は面倒臭そうな声を上げた。
「行こうぜ?」
「…ちっと待ってて。俺もそいつらに挨拶してくるから」
時貞は微笑んでみせた。
爪の間に入りこんだ血を眺めながら緋咲が言う。
「いーんだよ。俺がきっちり話つけたから。おまえが挨拶したらあっちが死んじまうっつーの」
「軽くやるよ」
「……いーんだ。あいつら多分もう学校来ねーし」
小さな笑いが時貞の耳朶をうつ。
振り返ると緋咲はどこか冷ややかに微笑んで、自分の血塗れの拳を見せた。
手首まで絡みついた赤が緋咲自身の血である筈も無くて。
「な?」
時貞は喉の奥で笑った。
螺旋階段を緋咲が待つところまで降りていく。
白い頬に血をつけたまま笑う緋咲は煙草を銜えた。
時貞も欲しがると軽く手を振ってもう無いと言う。
だからこれからどうするかはすぐに決まった。
午後の授業は全部さぼり確定。
螺旋階段を二人で降りて歩き出す。


見上げれば
秋晴れと、薄い白雲と、螺旋の風。
どうかこの先、空が崩れないように。

どうか












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当初の予定だと、前に書いた大珠の『liquidsoul』に対応させる予定でしたが今回ちっとも彼は出てきませんね、あっはっは。
いや、次、次こそは!…たぶん。


なんだか、野田秀樹と萩尾望都を思い出しました。

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