『真夜の呪い』


ひっそりと静まりかえった夜の底で、緋咲は小さく息をついた。
FXにもたれるように立つ足許に、赤いものが少しずつ広がっていく。
左手で強く押さえつけた腹はさっきからじくじくと血を吐き出し続けていた。
来栖に空けられた穴が一日で塞がるわけもなく。
血は指の間から飽きもせず零れ落ちていく。
どうも役に立ってない左手を外すとその指で緋咲は最後の一本になった煙草を咥えた。
あとで新しいの買わねーとな。
そう思いながら緋咲はもうずいぶんと長くそこに立ったままでいた。
いや、そんな気がするだけかもしれない。
足許に転がっている、赤いものが滲んだ煙草はまだ2本くらいしかないから。
キヨシと別れたのもたぶんほんのさっきのこと。
結局“灰色の亡霊”の影すら見つけられないまま。


どこにそいつはいるのか。
どこにそいつはいたのか。


吐き気がするような苛立ちだけがここにある。
緋咲は顔をしかめて紫煙を深く吸い込んだ。
ちっとも味が分からなかった。
分からないことにも気づかなかった。


“灰色の亡霊”は存在してはいけない。
それはもういないから。


足許に少しずつ広がっていく赤は真夜中のくせに妙に鮮やか。
視界が気持ち悪い。
緋咲は伏せていた顔を上げた。
青黒い闇の中、漂う月が溺れている。
夜空を見上げているというよりは、まるで深い暗い沼を覗き込んでいるようで
三半規管に眩暈がする。
少しだけ、血を流し過ぎたかもしれない。
さっきからまともな考えが浮かんでこない。
同じようなことばかり脳味噌の中をぐるぐるしてる。
喉の奥で苛立ちがひりつく。
なのに。
ぶち壊したいほど静かな夜。
見つからない亡霊の影。
何もかも自分の思い通りにならない。何も治まらない。
だから。
逆に思い出すのは、“灰色の亡霊”と呼ばれたそいつのこと。
緋い瞳が脳味噌の中に無理やり入り込んできて嘲笑う。
意識がそっちに引っ張られる。


いい加減にしろ。
勝手に死んだくせに。
思い出させるな。
俺は今弱ってるんだから。
てめーのことなんか思い出したくもない。
やめろ。
弱るから。
もしかしたら泣いてしまうかもしれないから。
嫌だ。
てめーなんかのために、俺がそんな風になるなんて
マジむかつくから。
死んじまえ。


あぁ、もう死んでるんだった。


一瞬、身体中の血から熱が引く。
そう思ったのは錯覚で、次の瞬間には腹に空けられた穴が激痛とともに自己主張を始める。
そこに火が生まれたように熱かった。
「痛ぇ……」
緋咲がそう小さく呟いた瞬間、その唇から赤いものが筆で描いたように一筋零れた。
それを緩慢に手の甲で拭う。
気づくと掌が真っ赤になっていた。


むかつく。てめーのせいだろ


その痛みは一種の抗議だ。
弔いよりも必要なのは怨嗟。
思い出したくもないのは死んだ奴の顔。
認めたくないのは、それを悲しんでいる自分。
悲しむのは酷く恐ろしいコト。
それは魂まで弱らせる。
小さなところから侵食して散々に食い散らかされる。
だから、認めてはいけない。


音がした。
闇を震わせ轟くそれに緋咲は顔を上げた。
それが何なのか気づいた瞬間、ソレは緋咲の横を駆け抜けている。
秀人のFX。
緋咲は口の中だけで悪態をつき、最後の煙草を自分の血溜まりに落とした。
FXにもたれていた身体をおこしソレの行き先を睨む。
その音がすぐそこでターンしてここに戻ってくるのを知っていた。
緋咲が思ったとおり、そいつはまた戻ってきて緋咲のすぐそばまで来る。
「…緋咲てめー何やってんだ」
特攻服姿の秀人は呆れたような声を上げた。
その顔に冷ややかな一瞥だけくれて、緋咲はすぐに視線を外す。
「うるせぇ……さっさとどっか行け」
吐き捨てる声は硬い。
こんな時に秀人の顔なんか見たくも無かった。
声も聞きたくない。
こいつはどうしたって俺をむかつかせて、
あんまりむかつき過ぎて、余裕が無くて
今日の俺は言いたくないことまで言ってしまいそうだから。
緋咲は小さく息をつき、
胸の奥で渦巻いて眩暈すら起こさせていたものを
冷たい表情の中に閉じ込めた。
仄白い月光に緋咲は人形じみた横顔をさらす。
秀人はそんな緋咲を眺め、
だらりと下がった両手の赤を眺め
足許に大きく広がった赤に顔をしかめた。
「てめー昨日自分で病院行くって言ってただろ。
それが何でこんなトコにいて昨日より死にかけてんだよ」
「……てめーに関係無ぇだろ」
冷ややかな応えに秀人は不機嫌な声で返した。
「馬鹿か、てめーは」
「うるせぇっつっただろッ」
押さえ込んでいたものが一気に込み上げそうになる。
だから嫌だ、こいつは。
こいつといると酷く俺は不安定にされる。
神経が剥き出しになったみたいに眩暈がした。
「てめぇには全然関係無ぇ……早く消えろ!てめぇの顔なんざ見たくも無ぇ」
吐き捨てるようにそう言った瞬間、
緋咲は襟首を掴まれ引き寄せられた。
間近にあるのは、喧嘩してる時のこいつの目。
眩暈が止まった。
「死にそうな顔して何エラソーな事言ってんだ?てめーは」
秀人の声がほんの少し低くなる。
微かな怒気は静かに闇夜を張り詰めさせた。
「腹に穴空けたままこんなとこに突っ立ってんじゃねーよ。
さっさと病院にでも行けッ死にてーのかてめーは」
そう言いながら、自分が殺しそうな目。
どうしてそんなに秀人の方が苛立ってるのか、よく分からない。
ただ、自分と死が明瞭につながってることは、頭の中を一瞬だけ鮮明にさせる。
そう思うとなんだか妙で。
死んだ奴のためにこっちが死にそうになってるなんて
ほんと馬鹿みたいで
笑えてくる。
射貫くような眼差しを見返し、緋咲は唇を微かに吊り上げて
嘲笑おうとしてうまくいかなかった。
自分が今どんな顔をしてるのかなんて想像もしたくない。
「……馬鹿じゃねーか…」
襟首を掴む腕を邪険に払った瞬間、緋咲の視界は急速に闇へと食われた。






















眠いと思いながら目を開けた。
ぼんやりと青白い部屋。
窓の向こうで暗い雲が月を食っている。
まだ夜だ。
随分と疲れる夢を見た気がする。
けれど、どんな夢なのかどうしても思い出せなかった。
今日は何故か妙に脳味噌が疲れていて、じきに思い出そうとする気も無くなり
眠気だけが残った。
頭の中に何も浮かばないままぼんやりと、薄明るく照らされる天井を眺める。
煙草の匂いがした。
視線を横に動かす。
壁に寄りかかって誰か立っていた。
「………煙草くれ」
そいつはしばらく黙ったまま立っていたが、もう一度声をかけるとようやく傍まで来た。
夜目で見上げても誰なのかよく分からない。
顔とか結構見えるのに、それが記憶と上手く結びつかない。
たぶん知らない奴じゃないんだろーけど。
やっぱり今日は疲れてる。
そいつが何にも言わないからまた眠りそうになる。
目を閉じかけた時、煙草を銜えさせられた。
舌に感じたそれはいつもの味じゃなくて、
この煙草が何なのかぼんやり考えてるうちに、そいつの顔がすぐ傍にあった。
微かな夜光の中でもそいつがどんな目をしているのかはっきり分かった。
「緋咲…てめー、そのうち死ぬぞ」
その意味はよく分からなくて、なのに空っぽの脳味噌が何か言いたそうで、
めんどくさくて目を閉じた。











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