病院の匂いがする。
目蓋に刺さる陽光の強さに緋咲はぼんやり目を開けた。
白い壁。
白い天井。
白いシーツ。
ようやく自分が病院にいたことを思い出す。
茫としたまま身体を起こした。
窓の向こうは明るくて、たぶんもう昼近い。
正確な時間が知りたくて携帯を探す。
電源切ったままの携帯は枕元に据え付けられた小さな卓の上にあった。
14:25
もう昼過ぎだった。
携帯の傍に灰皿がある。
煙草が吸いたかった。
妙に頭がぼんやりしていて、たぶんまだ眠いみたいで。
もう一度寝転がって目を閉じる。
瞬間、狙ったようなタイミングで携帯が鳴った。
眠いから、しばらく放っておく。
なかなか切れない。
指を動かすのも億劫なのに。
まだ切れない。
仕方なく携帯を取った。
「……何なんだよ」
それは土屋からだった。
『緋咲さん!?今ドコにいるんですかッ』
何だか切羽詰った声。何してんだコイツ。
「ドコ…って病院」
何故か、土屋が黙ってしまった。
重い空気みたいなのが伝わってくる気がする。
『…………緋咲さん、ドコの病院いるんですか』
土屋の声があんまり妙だったので、緋咲は小首を傾げてみる。
丁度そこに看護婦が入ってきたから聞いてみた。
答えは、横浜×××救急センター。
軽く、眩暈がした。
そして昨日のことを思い出す。
何だかとにかくむかついて、横須賀の病院抜け出して、そして……
それで?
その後俺は何をした?
頭のどこかが妙なくらい茫としていた。
夜闇に食われたみたいに記憶がはっきりしない。
とりあえず土屋に今ドコにいるのか伝えると、
『あんた馬鹿ですかッ!?』
滅茶苦茶キレた。
「…土屋てめー…」
一気に不機嫌になった緋咲の声に構わず、土屋は続ける
『とにかく!俺が行くまでそこ動かないでくださいね?!いいですねッ』
言うだけ言って向こうが切ってしまった。
「…俺は迷子かよ……」
土屋の言い方は気に食わなかったが、どうもそんなコト言える立場じゃなさそうだった。
白い壁。
白い天井。
白いシーツ。
病院はどこも同じように見えるのに。
どうして俺は横浜の病院なんかにいるんだよ。
静かな、小さな息をついて
緋咲はぼんやりした頭から昨日のことを引き出そうとして目を閉じる。
そしてそのまま眠ってしまった。
二度目に目を覚ました時、病室の白い壁は茜色になっていた。
「起きたんですか」
低い声が響く。
壁に寄りかかるように土屋が立っていた。
緋咲は寝たままその渋面を見上げ
「…おまえいつ来た」
まだどことなく眠そうな声で聞く。
「来たんなら起こせよ…」
「よく寝てたんで、悪いと思って」
緩慢に身体を起こす緋咲は案外元気そうで、土屋はほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「具合はいいみたいですけど、大丈夫ですか?」
「ん、寝たら全然治った。煙草くれ」
土屋はしばらく黙って緋咲の顔色を眺めていたが、やがて自分の煙草を渡した。
柔らかな光線の中に漂う紫煙を、緋咲はぼんやり眺めていた。
その表情は穏やかといえるもので、昨日の憑かれたような熱は片鱗も無い。
土屋はそれを確かめて口を開いた。
「…で、結局昨日はどうしたんですか」
冷たい色の瞳は視線を上げ土屋を射貫く。
茜色の空気が僅かに緊張した。
肌でそれを感じながら土屋は続ける。
言わない訳にはいかないから。
「緋咲さんが余計なコトすんなって言ったから、俺と相賀以外誰も昨日の事知りませんよ。
けどッ…本当にすげぇ心配したんですから!相賀はキレて飛び出そうとするしッ、俺は…
…俺だって…」
思い出すのは、昨日の寒気がするような不安。
それは二度と味わいたくないものだ。
冷たい色の瞳はそんな土屋をただ眺めていたが、
銜えた煙草を指に挟むと、緋咲はいきなり土屋の首の後ろを掴んで頭突きした。
軽くやったにしろ、充分重い衝撃が脳を揺らす。
目を丸くした土屋に緋咲は言い放った。
「ガタガタうるせーな?てめーは余計な心配ばっかしてんじゃねーよッ。
昨日はただ、ちぃっと走り回り過ぎて血が足りなくなって、こんなトコ入っただけ。
そんだけの話だ。
別に大した事は無ぇだろ?」
じゃあ、どうしてそんな事をしなければいけなかったのか。
土屋が一番聞きたい事を、凍てついた双眸が拒絶する。
その眼差しに、息をすることすら忘れて土屋は緋咲を見詰めた。
「昨日のは、別にどーってコトねぇ話だ……
そうだな?土屋」
囁きの一言一言が胸の奥に重く冷たいものを突き刺していく。
土屋は、頷くしかなかった。
瞬間、空気の緊張が解ける。
柔らかな夕刻の光の中で緋咲は煙草を銜えなおした。
「それに俺が昨日てめーらに、余計なコトすんなって言ったのは
これは俺がケリつけなきゃならねー話だったからだ。
俺だけの問題なのに麓沙亜鵺が動くのは、違うだろ?」
「…そう言われると、そーなんですけど…」
納得してないにしろ渋々そう言う土屋を眺めながら、
緋咲は小さな声で言った。
「もうしねーよ、こんなコト」
「………だと、いいですね」
思わず呟いた土屋を蹴ろうとして、緋咲は止めておいた。
ベッドから降り、窓の向こう側を覗く。
その背中が土屋に、この話はもう打ち切りだと言ってるみたいで、
土屋は帰ることにした。
緋咲がこうなってる以上、いくつかやらなければいけない仕事がある。
「俺一回帰りますから。緋咲さんの事は相賀とかにも伝えておきますよ」
緋咲はぼんやりした返事をする。
病室から出る直前、土屋は思い出したように振り返って言った。
「ケリ、ついたんですよね」
だるそうに窓辺にもたれていた緋咲は、ほんの一瞬複雑な表情を浮かべる。
それはすぐに消えたが、微かな不安に形を変えて土屋の中に棲みついた。
「……ケリつけてくださいね」
緋咲は何も言わなかった。
ケリつけたかどうかなんて俺が聞きてーよ。
土屋の単車の音が遠くなっていくのを、緋咲はぼんやり聞いていた。
そして考える、昨日の夜を。
昨日の自分を。
ケリはついてない。
何も終わっていない。
緋咲は紫煙を深く吸い込んで、暫くの間だけでもその考えを忘れようとした。
土屋にもらった煙草は普段吸ってるのと違うから、なんとなく違和感がある。
灰皿があったことを思いだしてベッドまで戻った時
緋咲はふと柳眉をひそめた。
灰皿には既に吸殻があった。
誰かここで、“マルボロ”吸った奴がいる。
緋咲は自分が吸っているのが何か確かめた。
土屋は“ラーク”しか吸わない。
突然脳味噌を滅茶苦茶に殴られたような錯覚がした。
そして思い出す。
昨日誰に会ったのか。
ここに誰がいたのか。
煙草を消して、緋咲はベッドに腰を下ろした。
そのまま倒れこむように横になる。
「……ふざけんなクソ野郎……」
窓の向こうから聞き覚えがあるような単車の音が響いてる気がする。
緋咲は当分起きあがる気力も無かった。
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単行本の25、26巻あたりで捏造してみました。
最終巻の、秀人クンと緋咲さんのかなり微妙な仲良さそうっぷりが気になります。
あくまで、仲良さそう?、です。?を忘れてはいけません。
灰色の亡霊の件は、小説の3巻にありました。
とりあえず帰る!