『1. 狼王 』




その日、緋咲の機嫌は良かった。
逆に土屋は不機嫌だった。
土屋は眉根に力が込められているのを意識しながら、そっと緋咲を見た。
機嫌が良いと言っても緋咲の事だから、ものすごく浮かれるなんてことは無い。
寧ろそれはかなり分り難い。
ものの言い方の僅かな差だとか、眼差しの微々たる柔らかさだとかそんなものだ。
だから、どちらかと言えば
上機嫌よりも不機嫌な様子の方が思い浮かべ易い。
別に、緋咲がいつも不機嫌だというわけではないけれど。
容易く不機嫌にさせるものが多いのも事実だ。
普通、自分の隣にいる人間が不機嫌である事を喜ぶ奴はあまりいないだろう。
相手が緋咲なら尚更だ。
だから麓沙亜鵺の人間ならば、彼には出来るだけ機嫌良くいてもらいたいと考えている。
けれど、土屋はどうしても腑に落ちないものを感じていた。
今、緋咲は麓沙亜鵺の集会の先頭を走っている。
このままなら直に横浜へ入るだろう。
傍らを走る土屋はまたそっと緋咲を眺めた。
切れ長の双眸は真っ直ぐに前を向き、何を考えているのか窺い知れない。
ただ、やはり有るか無いかの機嫌良さが浮かんでいるような気がした。
その理由を考え、土屋は昼間の事に思いを巡らせる。
あの原チャの化粧ヤローと緋咲の話に出てきたソイツは、二人と同じ中学だったらしい。
緋咲はあまり自分の話をする人間でないから、中坊時代の話にはそれなりに興味があった。
ソイツと緋咲は仲が良かったらしい。
ソイツの名前を口にした緋咲は楽しそうだった。
別に緋咲が誰と知り合いだろうが構わない。
たとえソイツが獏羅天で、しかも風神雷神のツレだとしても、確かに驚く事だがこの際問題じゃない。
土屋がどうしても引っ掛かっているのは、
あの緋咲が、タイマンなら誰もソイツに勝てないと評したことだ。
それはつまり、自分よりソイツが強いと認めているのだろうか。
緋咲の上機嫌な顔を思い出した時、土屋の胸を小さく刺したものは、苛立ちに良く似ていた。
不意に緋咲が土屋を見た。
その眼差しに土屋はどきりとしてしまう。
こんな時、冷たい色の瞳は心の奥まで見透かすようで、真っ直ぐ見返すには勇気がいる。
胸が落ち着かなくなるのは既に反射だ。
それでも視線を合わせると、緋咲は束の間顔を眺め、また前を向き直った。
知らず、口から安堵の吐息が洩れる。
その時傍で声がした。
「おまえ全然人の話聞いてねぇだろ」
しかし、土屋がその声に気付くには数秒掛かった。
「……相賀、おまえ今何か言ったか」
思い出したようにようやく相賀の方を見ると、
相賀は丸っこい目を更に大きくして呆れた顔をした。
「何か言ったかじゃねーよ。さっきからずっと話し掛けてんのに全然聞いてねーのかよ?」
「悪い。ちっとも聞こえなかった」
「何だよー、おまえ単車乗りながら寝れんだな?土屋は器用だなー」
「うるせぇ バカ」
前を行く緋咲がからかうように笑った。
「ぼーっとして転けんじゃねーぞ」
そう言う緋咲の左手は厚く包帯が巻かれ、殆ど使い物にならない筈で。
その言葉を俺はあんたに返したい、と土屋は思った。
すると、口に出したわけではないのに緋咲が言い返す
「バーカ、俺は別にいいんだよ?こんなもんは」
緋咲は時々厄介なほど勘が良い。
「……まだ何も言ってないでしょうが」
「顔に出てんだよ」
碌に顔も見ていないくせに、緋咲は土屋の憮然とした表情を言い当てた。
相賀が興味津々で覗きこんでくるのを
「やんなよ」
土屋は単車を寄せて邪険に蹴った。
相賀は笑いながら距離を取り、小さく肩を竦めた。
「なんだよ、機嫌悪ぃな?土屋ってば」
その理由を、土屋は答える気になれなかった。
代わりに相賀が先程、何を話そうとしていたのか問うと、相賀はちらりと緋咲の方を見た。
「土屋には言ってなかったけど、今日の集会は……」
言い掛けて相賀は口を噤んだ。
同時に土屋も前を向き直った。
夜気を震わせて近付いてくるものがある。
独特の排気音と、群重なる光は数十程だろうか。
それが何なのか、直に気付いた相賀の顔に剣呑な喜悦が浮かぶ。
「緋咲さん、丁度良かったみたいですね」
肩越しに緋咲がほんの少し振り返る。
酷薄な唇の端は吊り上がっていた。
土屋は はっとした。
しかし次の瞬間、緋咲はFXを光の真ん中に突っ込ませている。
緋咲の向こう側に、獏羅天の旗が見えた。

湧き上がる怒号や罵声。
幾重にも重なる排気音と合わさり、それは一つの大きなうねりのようだ。
全車線を塞いで単車が止められる。
ずらりと並んだ獏羅天に囲まれて、緋咲はそれでも悠々と立っていた。
何も言わぬまま、殺気立った顔を一つ一つ眺めていく。
土屋は素早く状況を見回した。
獏羅天は明らかに戸惑っている。
こちらが麓沙亜鵺だと気付いたんだろう。
麓沙亜鵺と獏羅天は前の代までそれなりに交流があった。
OB連中の面子を考えれば、あまり事を荒立てたくないのが本音だろう。
それは麓沙亜鵺も同じだ。
土屋は、自分の背後に控えている仲間達が、獏羅天を前にして少し動揺しているのに気付いていた。
どうすればいいのか分らないんだろう。
緋咲は、何も言わない。
しかし土屋はその凍えた湖のような瞳を見、緋咲が何をしようとしているのか知った。
今の麓沙亜鵺には大きな決まり事がある。
横浜は敵だ、ということだ。
「ふぅん……」
気怠そうに緋咲は呟く。
短い一言に、その場にいる獏羅天全員を更に殺気立たせる程の悪意が込められていた。
緋咲は傍らの相賀に顔を向け、柳眉を顰めてみせた。
「相賀、おまえ間違えたな」
「えっ?でも緋咲さん、獏羅天ってコイツラでしょ。じゃあ……」
「俺が言ったのは特隊の方だ。コイツ等は違う、本隊だ。しかも切れ端だな?」
相賀はもう泣きそうな顔になっていた。
二人の遣り取りで土屋は、今日獏羅天とかち合ったのは相賀が仕組んだことであり、
指図したのが緋咲だと確信した。
そして、自分がそこから外されていたことも。
鳩尾がじわりと締め付けられ、冷たい針を刺されたようだ。
その感覚を堪えながら、じっと緋咲を見る。
緋咲は、どこか物憂げだった。
「……あいつがいねぇなら、つまんねぇだけだな。雑魚しかいねぇ」
雑魚と言い捨てられ、一人が緋咲に掴みかかりそうな勢いで怒鳴る。
「てめぇッ!麓沙亜鵺だろうが関係ねぇからな!今ここでやってやるよッ」
緋咲は唇を吊り上げた。
「獏羅天ってのは皆頭悪ぃな?こっちはとっくに横浜上等なんだよ……」
ぞくりと背筋を粟立たせるような冷笑。
沸き立つような熱を孕んでいた空気が凍り付いていく。
畏縮しかけた獏羅天の連中を眺め、緋咲は面白くもなさそうに言った。
「てめぇらじゃつまんねぇから、あいつ……天羽、呼べ」
土屋は、やっぱり、と思った。
緋咲はソイツに会うためにわざわざこんな事をしてるんだろう。
天羽と聞いて獏羅天の様子が変わる。
畏縮していた筈の目に火のような敵愾心が燃える。
「てめぇ!あの天羽を知ってんだなッ?!」
一番前にいたガタイの良い奴が、無防備に佇んでいる緋咲の胸倉を掴もうとする。
緋咲の左手は動かない。
瞬間、土屋は動いた。
殆ど無意識に右手が伸びる。
「ふざけんなッ」
吼えたのは相賀だ。
土屋は自分と同時にそいつを殴り飛ばした相賀を見て、嫌な顔をした。
「相賀、おまえ俺に言わなかったな」
「んな事言っても、土屋全然俺の話聞いてなかっただろ」
「もっと前に言えって、俺は言ってんだよ」
「だって機嫌悪そうだったし……」
ばつが悪そうに相賀は小さく謝る。
しかし、相賀が騒然としている獏羅天の方を振り返った時、その顔には悪意が滲んでいた。
「てめぇら、グダグダうるせぇぞ?そっちから人に突っ込んできたくせに」
そういう事にしておきたいんだろう。
それでもいい、と土屋は思った。
どうせこっちが勝ってしまえば何もかも曖昧になる。
身体の奥に生まれた冷たく鋭い針は、熱でどろどろに溶けていた。
血の中に混じりこんだそれが血管を巡り、こめかみをズキリとさせる。
煩わしいことは何も考えたくなかった。
ただ胸を突き上げる狂暴なものを目の前に敵にぶちまけたかった。
「土屋」
さして大きくもない声だった。
それが土屋の首を後に捻じ曲げさせる。
振り向いた視線の先、緋咲は一度小首を傾げるような仕草をした。
いつのまにか、その右手にバールが握られている。
引き摺るように歩くせいでアスファルトが削れ、耳障りな音を立てた。
乱闘になりかけていた麓沙亜鵺、獏羅天の両方が思わず動きを止める。
緋咲は真っ直ぐに、一番最初に殴り倒された奴の所へ歩いていった。
切れ長の双眸に宿る冷光は燐の炎のようだ。
誰もが、獏羅天すら道を譲る。
口から血を吐いて倒れていたそいつが怯えた声を上げた。
アスファルトの削れる音が止まる。
緋咲の右手が動く。
次の瞬間、バールの先端は震える顎を下から叩き割る寸前だった。
「てめぇ」
緋咲は抑えた声で言う。
「頭が悪そうだからもう一度だけ聞いてやる……あいつは、てめぇの敵か?」
相手は、恥も外聞もなくガクガク震えていた。
緋咲の眼差しに射貫かれる、その臓腑が握り潰されるような感覚を
土屋は良く知っていた。
けれど同情する気持ちは欠片も浮かばなかった。
血の気が引いて何も言えない顔を、大きく見開かれた目を、緋咲は無表情に眺める。
周りの誰もが息を飲んで、その審判を見守った。
やがて、緋咲は口を開く。
「そうか」
右手が閃いた。


全く、緋咲の右腕は機械的だ。
目に映る全ての人間の額を正確に割っていく。
だから麓沙亜鵺だろうが緋咲には近寄れない。
その必要も無かった。
顔色一つ変えないままバールを振るう緋咲を、土屋はどこかぼんやり眺めていた。
ふと視線を巡らせる。
相賀は酷く嬉しそうに相手の鼻を蹴り潰していた。
相賀だけじゃない。
麓沙亜鵺の他の連中も、剣呑な享楽に浸るように暴力をばらまいていく。
緋咲のそれは伝染するのかもしれない。
脳の片隅でそんな事を考えながら、横から殴り掛かってきた奴の腕を捉え
関節と逆向きに力を加えた。
嫌な音がした。






随分と静かな夜だった。
気付くのが少し遅かったけれど。
土屋は歩道の脇に単車を止め、エンジンを切った。
物静かな夜は口を閉ざし、単車の声も、サイレンが鳴らされる気配も無い。
警察は意外と迅速に乱闘現場へ駆け付けることが出来た。
しかし麓沙亜鵺はいつも通り素早く散って、
後に残されたのはアスファルトを赤黒く汚して転がっている獏羅天だけだった。
警察は享楽な道化師達の影すら捉えることが出来ず、澄ました夜にただ嘲笑されるだけ。
土屋は散らされた後、一人でいた。
そしてやはり一人でいたらしい緋咲を見つけた。
ガードレールに腰掛けて煙草を銜えていた緋咲は、土屋の顔を見た途端
ちょっと嫌な顔をした。
「何すか、それ」
「……おまえ今日、なんか機嫌悪いし」
相賀みたいな事を言う。
土屋は自分の機嫌悪さを否定しなかった。
「緋咲さん、あんた結局何がしたかったんですか」
「何って……そんなのいつもと変わんねぇよ」
傍に立っている自販機は、青白い光を緋咲に投げかけて
紫煙の漂う様を茫と眺めている瞳に、硬く反射をする。
「獏羅天の天羽って奴と喧嘩したかったんですか」
「まぁ、な」
「でもそいつ、中学ん時あんたのツレだったんでしょ」
硬質の瞳は一つゆっくり瞬きした。
「……けど、一回もあいつと殴り合ったこと無ぇんだよ。会った時から今までずっと。
だからまあ、あいつが獏羅天なら、偶にはこんな遊びもいいかなって思ったんだけどな……」
遊びらしい。
緋咲にとって、自分のチームを動かしてこんな事をするのは。
顔を顰めた土屋に目をやらないまま、緋咲は続ける。
「でも良く考えたら、あいつはあんまりこういう遊びに乗ってくる奴じゃねぇし。
……だから、こんな事もうしねぇ」
煙草が踏み消された。
緋咲はほんの小さく溜息をついて、顔を上げた。
土屋は、柳眉を僅かに顰めて見上げてくるその表情を眺め、
どうも緋咲が、ばつが悪そうにしているらしい、と気付いた。
土屋は思わず聞き返そうとした。
緋咲のそんな表情なんか今まで見たことがない。
「……俺はただ、そういう事すんならその前に話してもらいたかっただけで……」
言いながら、胸を内側から小さく刺していたものが薄まっていく。
たぶん、緋咲の表情にあんまり驚いて、機嫌の悪さすら忘れてしまったんだろう。
「だから、まあ、もういいです、別に」
どうしてか、上手く自分の口が回らないような気がした。
けれど緋咲は小さく頷く。
睫毛の影が揺れた。
「けど」
ふと、土屋は昼間の事を思い出した。
「緋咲さん、そいつのことタイマン最強って言ってましたよね。
それ、あんたが勝てないってことですか」
「バーカ、俺が負けるか」
緋咲は真顔で言い捨てた。
その表情はいつも気負いや虚勢から縁遠い。
それでいい、と土屋は思った。
「ああ、でも……」
新しく煙草を銜えようとした緋咲の手が止まる。
「もしかしたら喧嘩にならねぇかもな」
「喧嘩にならないって……どういう意味です」
「笑っちまって殴れねぇよ、多分」
きゅうと細められた双眸は楽しげに煌いていた。
自販機の薄く冷たい明かりが、ガードレールに腰掛けた一人きりの影を青白く染めていく。
土屋は黙って、緋咲が銜えた煙草に火を付けた。
緩く流れた紫煙が静かな夜を彷徨い始める。
暗い空には雲間に星が一つあるだけだった。


























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麓沙亜鵺の三人は仲良しでいいんじゃないかと思っています。

13巻で平蔵から、時貞が獏羅天の龍神だと聞いた緋咲さんは
なんだかとってもやる気に見えるのは僕だけでしょうか。
ヒロシとキヨシが横須賀まで来て揉めた直後ですからね……

ところで、バールは人を殴るのに適さないと思うんですが。


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