・BATMAN #35-50を未読の方は状況がわかりづらいかもしれません。


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8.


印刷された文字列が、まるで意味をなしてない。
何かの間違いか、でなければ性質の悪い冗談だ。
よりによって“あの”蝙蝠が、こんな形で死んでいるはずがない。
死ぬはずがない、と思っているわけでない。
不死でないのだからいつかそのうち死ぬだろう。
しかし、“いつか”、は、鋼鉄の男だろうが宇宙最強の武器を持っていようが同じだ。
宇宙に掃いて捨てるほどいる“神”も万能ではなく、精々なかなか死なないという程度。
まして地球人など、二足歩行を選択した動物の中で取り立てて高等な進化をしたわけでもなければ、
恒星間航行が可能な文明を持つにすら至ってない。
が、“生き延びる”ことに関しては、あの蝙蝠ほど殺しにくい生き物を、ハルは他に知らない。
自分の命に屑ほどの価値も置かないくせに、どんな状況に追い込まれてもペテンみたいな手際の良さで生還する。
毒でも謀略でも“神”でも、そんなもので殺せるなら、あいつはもう百万回死んでいる。
いつだって猫みたいにちゃんと足から着地して、嫌味の一つも言うに決まってる。

(あるいは、そう信じたかっただけなのだろうか。)









前触れもなくウォッチタワーに現れたハルに、スーパーマンは軽い挨拶をしつつ首を傾げた。
その視線をたどり、ハルは自分がグリーンランタンの姿をしておらず、
平服のままクリーニングの大袋を片手に掴んでいるのに気付く。
どうでもいい。
ミーティングで使う椅子にどかりと腰を下ろし、手から袋を投げ出す。

「あいつ、死んだって?」

冗談のつもりが、吐き捨てた唇の端が歪む。
いつもの人好きのする笑顔のキュートなハンサムでいたいが、今日は少し、気分でない。
しかし、クラークが気にした様子はなかった。

「ちょっと待ってて。 コーヒーを淹れるところだったんだ」

以前と変わらない、聴く者を自然と落ち着かせる声は、答えを待たずにいなくなる。
残されたハルは背凭れに沈み、頬杖をついた。
砂を詰められたように身体が重い。
クラークは、“あいつ”が誰を指すのか問い返さなかった。
その両目に宿るのは、清明な理解の光だった。
ハルは、へらりと嗤おうとして。
もてあます。

「……ブルースは元気だよ」

程なく戻ってきたクラークは、温かなマグをテーブルに置いた。
ハルは鈍く礼を言い、目を上げない。

「どこも怪我をしていない。 健康で、健常。
 今もゴッサムにいる。
 レクリエーションセンターのボランティアをしてるんだ。
 安心できる居場所のない子供達が少なくなかった地域で、この前の“事件”でも大きな被害が出た」

“事件”。
ゴッサムで“何か”が起きた。
新聞の記事からはその程度しか分からず、事実を知るためにウォッチタワーに来たのだが。
(バリーのところに行く気はせず、誰に会うつもりもなかった。)

「ただそこにいるというだけで、立場の弱い人達は、自分を守ることも出来ずに苦しむことになる。
 バットマンは元々そういう人達を助けるために生まれたんだ。
 だから、あの街で暮らす彼等と同じ場所に立ち、寄り添って力になろうとするのは、自然なことなんだと思う。
 たとえ彼がもう、バットマンじゃないとしても」

ハルの洩らした悪態は、意味をなしていなかった。

「あの事件で……ブルースは一度完全に、死んでいるんだ。
 最後の通信が途絶えた時、バットマンは既に重傷を負っていたらしい。 直後、彼のいた地下洞窟が崩落した。
 彼の行方は事件が収束した後もずっと分からなかった。
 けれど、彼はその場所で蘇生していたんだ。
 三週間後に発見された時、彼の傷は全て癒えていた。
 骨も臓器も新しい細胞で再生された。
 損傷を受けた彼の脳も。
 だから、シナプスの結合が、元のブルースと今の彼は違う。
 変わってしまった。
 記憶がないんだ。
 過去15年に遡る、つまり彼がバットマンになるために捧げた時間、そしてバットマンとして戦った時間、
 その過程で彼が手に入れた知識、身体的経験が、彼から失われた。
 これは回復する記憶喪失じゃないんだ。
 記憶を忘れたのでなく、記憶がもうそこに存在しない。
 ……“ブルース”も、元の自分を取り戻すことを望んでない」

その声に、感情の波濤はない。
かつての親友はもういないと、諦観したのか、それともあえて抑えているのか。
ハルはただ、奥歯をきつく噛み締める。
喉の奥に、渦。

「……ブルースは、もしも御両親が亡くならなかったら、きっと全く違う道を選んでいたんだ。
 本当はヴィジランテになる必要なんてなかったはずだ。
 けれど、彼はそうせざる得なかった。
 彼自身を精神的に駆り立て、追い詰めるものを、彼はずっと心の底に抱えていたから。
 でも今のブルースは、それが消失した。
 だから、彼はもう、バットマンじゃない。
 その重荷を自らに負わせなくてもいい。 それを求めなくていい。
 解放、されたんだ」

自分がその時どんな顔をしたのか、ハルは知らない。
しかし、溜め息をついたのはクラークの方だった。

「そう、わかってるつもりなんだけどね……」

呟いて、小さな笑みがこぼれる。
揺蕩う眼差しは窓の向こう、綺羅星が無限に彩なす遥かな世界。

「今のほうが前よりずっと彼には良いなんて、そんなの当然だ。
 彼は何も覚えてない、何も知らない。 今なら新しい、穏やかな人生を、一から歩むことが出来る。
 彼はもう、幸せになっていいんだ。
 それを僕は願っているし、そのためなら何でもする。
 ……そう思っているのにね、僕はやっぱり、ここにブルースがいてほしい」

慈しむような寂しさを、その眼差しに深く湛え、優しい愛惜は無窮の茫漠すら包み込むのだろう。
けれど、ハルは濁った渦の底で呟いた。

「あいつが死んだとき、おまえ何してた」

星の海は静かに凪いだまま。
ふと気付いて彼は首を横に振る。

「あんたを悪く言ってるんじゃない。
 ……俺は、自分がどこの銀河にいたかも分からない。
 あっちの星からこっちの星へ飛んで、地球なんか思い出すこともなかった」

呻くように吐き出した言葉は、最後を除いて真実だった。
そして、それ以上を思い知りたくなかった。
胸を、ありもしない痛みが穿つ。
抉られて血を噴き出すほど上等の何があったはずもないくせに、
喉を軋ませ迫り上がってくる濁流の中でどこかの間抜けが溺れながら叫んでいる。

少しだけ、遠くにいた。
すぐに帰れるつもりでいた。
ちょっとぐらい遅くなっても、何も変わらないと、思っていた。

まるで愚図犬の悲嘆。
憤怒に臓腑を炙られながら、彼は冷たい渦の底から自分を睨み続けている。
その肩に、ぽんと何かが置かれた。
クラークの手だ。

「会いに行くんでしょ?」

その時にっこり笑ったクラークは、カンザスの青空が確かに天頂に輝いていた。
あまりの眩さにハルは難しい顔をしなければならない。

「行きません」
「センターの住所書くね、僕はまだやることがあるから行けないけど」
「絶対ェ行かねえ」

断じて。













9.

地球をベンチプレス出来るヒーローとは、どちらかといえば喧嘩したくない。














10.

"LUCIUS FOX CENTER for GOTHAM YOUTH"
ブルースのおじさんか誰かだったと思うが、その名前のついた施設はゴッサムのリトルキューバにあった。
100年前で時間が止まったような町並みは、景観の保存を意図したものでなく、開発の波から取り残されたのだろう。
古ぼけた小さなビルが肩を寄せ合って並んでいるかと思えば、その隣からは空き地が広がっている。
朽ちて壊れた建築物の跡に新しいものが造られなかったせいだ。
侘しさと奇妙な懐かしさが、光と影に重なる町。
盛夏の空に、都心部の超高層ビル群が陽炎のように浮かんでいる。
その、最も天に近く聳える壮麗の主だった男は、つい先日、一度死に、そして甦り、
今は日給10ドルに満たない世帯が多く暮らす地区に住んでいるというのだから、地球という惑星もよくわからない。

目を転じると、通りをはさんで向こう側がレクリエーションセンターの敷地になっている。
おおらかに波打つ黄色い屋根が目印で、ゴッサムの地理に明るくなくても上空からすぐにわかる。
建物の後ろ側の空間はグラウンドだったのだろう。 元は子供達が野球でもしていたはずだが、
今はそこに、雨除けのシートをかぶせられた資材か(それとも廃材か)が置かれていて、如何にも邪魔に見えた。

しかし、子供の頃も大人になってからもこういう場所とはあまり縁がないが、思ったより利用されるものらしい。
暫く眺める間に、3才ぐらいの子供を連れて来た母親はこれから仕事なのだろう。
車寄せに停めた老人の80年式フォードに向かって、ロボットを手にした少年が走っていく。
センターの入口にいる小さな女の子はまだ迎えが来ない。
その様子に、14、5だろうか学校帰りにしては早い二人組が声をかけ、中に入っていく。
スタッフらしき人物の姿も見かけたが。

近接望遠X線透視、優れた視覚を持つクリプトニアンなら、あの規模の建造物の内部に特定の個人がいるかぐらい
瞬時に分かるだろうが、今ここでクソ甘いカフェ・コン・レチェを楽しんでいるのは、ただの通行人Aだ。
通りすがりにキューバコーヒのスタンドに足を止めただけであって、右手のリングなど使う気はない。
という断固たる意志の、ハルはけれども嗜好からすれば甘すぎるカフェオレが、
まるで苦いものであるように眉を顰め。

自覚した瞬間、彼はぶらりと歩き出す。
通りを渡り、センターの方に向かってずんずん進む。
コーヒーショップの店員は、あの客やっといなくなったと横目で見送り。

考えてみれば、拘る理由がない。
ブルースが生きていようが、死んでいようが、記憶が在ろうが無かろうが。
星を揺るがす違いになるほど、消えた男と何があっただろう。
やっていたことと言えばファックだけ。
全く分かりやすく、簡潔で、普遍的。
感傷の付け入る隙もない。
都合の良い相手が偶々そこにいた、というのはたぶん真実だ。

空は快晴。 風は東南東、風力1。 上々の航空日和。
太陽からの黄金の微粒子が舞い乱れ、光の底、面白くもなさそうに彼は歩いていく。
その足取りに平生と違うところがあったとして、他人が目を留めるものでなく、
片羽を裂かれ平衡を失った機体だろうと、ハルのそれは雲上を駆ける。
(エンジンが死なない限りは。)
死んだはずの男は、案の定死んだままでなく、生き返るぐらいに元気で、
しかも、幸せ? とかいうものになるらしい。
どうも想像がつかないので一目その顔を見てやろうと思い、それで、もういい。
成層圏の遥か彼方、星々の散華する宇宙へ還り、ハルは二度と戻らない。

彼の前方、建物の入口まであと7、8mほど。
脳で漫然と処理されていた視覚情報が、ようやく意識へと浮上する。
ドアの傍に立っていた、小さな女の子。 まだ小学校に上がる前の。
人待ち顔をしていたあどけない横顔が、ハルの方を向いたかと思うと、不意に表情がぱっと明るくなる。
そしてにっこり笑って駆け出した。
勿論、彼に対してではない。
脇を通り過ぎ、弾むような声で、

「ブルース!」

ハルの両足が止まる。
緩慢な逡巡と、鋭敏な反射神経の相克。
しかし、彼の身体は空白のまま既に後ろを振り向いていた。
そこに、少女を片手に軽く抱き上げた男が立っているのを見たとき、ハルは確かに、宇宙が揺れるのを感じた。
世界は元来平坦でなく、重力は巨大な質量による空間の歪みだ。
が、その時彼を貫いた漣は、

「……このセンターの者ですが、何か御用ですか」

不思議そうにハルを見返す瞳は、星の降る宵空の藍。

















11.'Liv, isn't it a small world.


その腕の中は、オリヴィアのお気に入り。
優しい声も好き。 瞳を覗き込むとまるで宝石みたい。
いつ頃からかボランティアとして現れた男の、どんな過去も彼女には無い。
オリヴィアには、今がある。

「……そいつ、ここにいるって聞いたんだけど、どうやら違ったみたいだ」
「私が分からないだけかもしれません、まだ日が浅いので。
 中で尋ねてみますか? 他の者ならその人を知っているかもしれない」
「いや、必要ないよ。 きっと俺の勘違いだ」

抱き上げられた青空が高い。
蝶が風に飛んでいく。
南はまだ遠いの。
“南”ってどこ?

「……まあ、だいたいガラじゃないし、こういうところは。
 それに、借りてた金を返しに来たんだから、会えない方がラッキーだろ?」

そう言って、小さな笑みをこぼしたもう一人の男を、四歳の彼女は聡い目で観る。
さっきまで怒った顔をしていたのに、意外とハンサム。






















12.make a wish


日は落ちた。
木立は漆黒。
薄明の残滓の僅かに残る湖藍灰。
岸辺に灯りがともり、ベンチに空気男が座っている。

彼に名前はない。
あなたのものだと授けられた名前はあるが、それが自分のものなのか彼はまだ分からない。
鏡を覗いてみても、さて、そこに映っている男はいったい誰なのか。
戯れに髭など生やしているが、いつまでたっても慣れないのは。

数か月前のある日、ここから程近くで彼は保護された。
それ以前の記憶はほとんどが失われ、事件のせいだと人は慰めたが、
彼の中身はがらんどう、手渡される“過去”などどれも風が運び去る。
凡そ空気しかつまっていないようで、そのうちに、そんな思いも手放した。
彼には今、いるべき場所と、帰るべき人がいる。
彼女のおかげでどうにか人間として生きている。

けれど、日の暮れ果てて。
あとは寂しくなるばかりの湖藍灰。
岸辺の灯りが靄に流れ、空気男はベンチに座っている。

(昼間センターに来たあの男は、でたらめな名前を言っていた。)
(子供に危害を加える人間には見えなかったので、通報しなかった。)
(何を、あんなに驚いていたのだろう。)

彼は自分の右手に視線を落とす。
手の平、甲、五本の指、爪。
どこにも何も書き残されてはいない。
が、幽かに。
空っぽになったはずの胸のどこか、消えてしまった傷痕のように。


目を瞑れば、彼を押し包む果てのない心象の夜闇。
ふわり、蛍が燃え出ずる。

























13.大聖歓喜天の輪の中で


合体したマカロニ・アンド・チーズだ。
同僚の作ってくれた心温まる手料理を前にし、ハルはそう思おうとしている。
故郷の惑星の国民食と比べるとマカロニに節があり、それがいくつも連結している。
ついでに両脇に細い小さな足がびっしり生えている。

太陽系からざっと47億光年ほど宇宙の中心方向へ。
その天体はちょうど地球の月と同等の大きさを持つ。
永遠の暗夜に散りばめられた星々の無数の煌めきを背景に、なお輝かしく浮かぶグリーンランタンの紋章。
そこは彼らの本拠地であり、司令部であり、故郷を遥か遠く後にした隊員達の家でもある“オア”。
マカロニは持ち込まなければ無い。

一生命体の生得の感覚からすれば想像すら及ばない無辺無窮である宇宙。
それを3600に分割し、各セクターに二人ずつ配置されたグリーンランタンがその秩序維持の役割を担っている。
しかし、時として集中的な動員を必要とする事態が発生し、疑問の余地なくそれは宇宙にとって大きな災厄を意味する。
ハルは昨日、異宇宙との次元断層からようやくオアに帰還した。
仲間の何割しか生きて戻れなかったのか、既に把握している。

合体したマカロニは、地球のそれより中身がつまっている分むちむちしている。
クリーム状のソースは白濁、いや、灰色。
硬化する前のセメントに良く似ている。
こういう時、GL史上最悪の比喩が飛び出すのがガイ・ガードナーという男で、
ハルが拳で殴ったとしてそれは己の食欲を守るための正義の戦いなのだ。
けれども、ガイは今オアにいない。
だけでなく、食堂には他の隊員が誰一人いない。
このキロウォグが、リングに選ばれてオアにやって来る新米達に生き残るための訓練をつける鬼教官が、
多くの犠牲を伴った長征から生還した仲間達を労わろうと、鍋を持って現れた途端、
それまで食堂でたむろしていた連中はハルを除いて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
グリーンランタンに求められるのは恐怖と対峙する勇気だが、食という精神的支柱への暴力はそれすら砕くのか。
ハルは、フォークで突き刺した異星のマカロニを口に運ぶ。
相対的に言って、地球人の味覚は自分達が思うほど繊細ではないらしい。
毒でなく、体内で消化吸収が可能なら、口に入れられないものでない限り、食い物は食い物だ。
ジョンなら異論を唱えるだろうが、海軍は舌の肥えた兵士を育ててくれる場所だったらしく、羨ましい。
咀嚼し、飲み込むマカロニ。
喉越しは実に悪い。
が、食える。

「それで、おまえはいつ帰る」

ハルはマカロニから地球のカバにも似たボロヴァクス人の戦友に目を向けた。

「帰る?」
「おまえ達は自分のセクターを長々と空にしてオアでぶらつけるほど暇で能無しか?
 俺に尻を蹴飛ばされた連中はぼちぼち持ち場に戻り始めたぞ」

別に、キロウォグは同僚達を追い出したくて追い出したのでないとハルは知っている。

「……さぁなー、やっと“我が家”に帰ってきたばかりだし」

彼は元々は地球を含むセクター2814の担当だった。
今でも厳密に言えばそのとおりだが、状況は少し、複雑になっている。
そして、過去には(文化的・生態的)一辺境惑星という扱いだった地球は、彼がグリーンランタンになった頃から
突然宇宙規模の事件が多発するようになり、今では強大な“力”を持つ存在を引きつける惑星として認識されている。
そんな特殊性から常時最低一人のグリーンランタンがセクター内でも特に地球周辺に駐在することになっているが、
その役割は今、ハルでない。
主だった彼の任務は、3600あるセクターの、それぞれのグリーンランタンだけでは対応しきれない事態が起きた場合、
それが宇宙の果てだろうが遊軍として真っ先に駆けつけることだ。
グリーンランタンの中枢であり全ての情報の集合点であるオアは、文字どおり宇宙を端から端まで縦横に飛び巡る彼の、
その軌跡が最も交差する場所、つまり家というものに一番近い存在と言える。
とすれば、これがおふくろの味かと謎の手作りマカロニ・アンド・チーズをまた一口。
マカロニだと思って食べているとだんだんグルテンの食感に……思えない。
このむちむちは決定的に違う何かだ。

「勿論、必要になれば即召還する。 それまでは帰っていいぞ、“繁殖地”に」
「……繁殖地?」

予想外の角度からカーブボールを投げられ、ハルは同僚のつぶらな瞳をしげしげと眺める。

「……地球人、繁殖地とかないぞ」
「無いのか?」
「というか決まった場所じゃなきゃセックスできないわけじゃない。 わりとどこでもいい。
 まあ好きな場所ってのはあるかもしれないけど、……待て、もしかして“母星”って言ったのか?」
「何だと思ったんだ」

ハル達のリングは、宇宙に存在する(あるいは過去に存在した)ほぼあらゆる言語を同時翻訳し、
聴覚情報として脳に伝える。 彼の場合、リングを使っている限り誰もが英語で話しているように聞こえ、
とても便利なのだが、時として誤訳はある。
言葉はたった一つの単語でさえ二重三重に意味の広がりを持つ。
表現と表現の細かな陰影を取り違えても不思議でないが。

「“つがい”の待つ場所に帰るならそれは“繁殖地”だろう」
「……ツガイ?」
「繁殖相手のことだ」

ハルは唸った。
話がボール半個分ずれている。
地球人とボロヴァクス人の言語の間には、不自然な交換しか出来ないような意味上の断裂があるのかもしれない。
でなければ、キロウォグは何か勘違いをしている。

「俺、そういうのいないから」
「いる」
「いない、子供とか作らない」
「まだという意味だな」
「違う!」

すると、地球の水陸両棲大型哺乳類(アフリカで最も危険な動物)に良く似た友人は、
艶々とした黒い瞳に思慮の深い光を湛え、

「帰る星があるうちだ、Poozer」




かつてボロヴァクス ヴィクは、宇宙で最も美しい星と称えられていた。















* * * *


162時間後、セクター2814の一角に存在する水の惑星をハルが見下ろしていたのは、
妙な誤訳(誤解)の混ざる友人の言葉に従ったのでない。
隣の隣の隣のセクターで既に予定されていた任務があり、それを終えての帰り道だ。
眼下には北米大陸。
その西部に夜と昼の境が迫る。
真空の視界は光を拡散させるものがなく、明瞭なその境界線からカリフォルニア半島が姿を現した時、彼は降下した。
帰るときは朝方、と決めているわけでないが。

路地裏でグリーンランタンの姿を解き、コーヒーと焼きたてのベーグルを調達。
ぶらぶら歩いてアパートに着く前に、四個のうち二個が消えた。
鍵はジーンズの後ろのポケットに入れっぱなし。
久し振りの自分の部屋は、もちろん何があるでなく、誰がいるでなし。
六十年前はもしかしたらまだ古くも安くもなかったかもしれないアパートは、
バスルームとキッチンが使えれば狭くて全く困らない、という彼に良く馴染む物質的侘しさ。
どさり、とカウチに身体を落とす。
一瞬ハルは瞠目した。
見開いた鳶色の瞳は、視覚として処理される以上の何かを感じ取り、
やがて伏せられ、そのまま彼は動かない。
小さな部屋の外は懐かしい、ありきたりの地球の朝。
その気配を聞くでもなく聞きながら、カウチに沈むハルの中、誰かが落ち着かなげに立ち上がり、
ドアに向かって歩こうとするのを、待つのが下手なもんだと自嘲する。
その意志一つで六百億光年を駆け抜ける、根無し草の不器用。



ドアの呼び鈴がジリリと鳴った。
ハルはたぶん、少し眠っていた。
合鍵のないドアの、錠の開く音がした。


「なんだ、生きていたのか」

















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(了)

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お疲れ様でした。
最後のはブルース様です。
生きてたって死んでたって記憶がなくたって、犬も歩けば棒にあたるように二人は出会えばいいよ。

この期間まともに読んでたのBATMAN誌ぐらいで、キロウォグさんのキャラもオアの様子もグリーンランタン系が何してたかも知らぬ。
Bolovax Vikをどう読むか知ってる方は御一報。
スチュワートが海軍だったか海兵隊だったか微妙。
ちなみに、記憶喪失前後のぼっさまに会ってないJLメンバーは本当におハルさん一人だけ。
DETECTIVE COMICS #45でフルメンバーが出てくるのに一人だけいないのは、そんだけ活動範囲が離れてたってことなんですが。

↑小話の、ウォッチタワーのところ。
クラークが話していることは真実の全てではないし、クラークはそのことを知ってますたぶん。
おハルに会いに行けって言ったのは別におハルさんを思ってのことでなく、それによってぼっさまの記憶が撹拌されればと考えてるモンペ。
外見からわかりにくいけど親友に対してはほんと依存というか執着してて、蝙蝠を傷付ける輩は太陽に放り込みます、とか思ってるけど実行するとクリプトナイト殴打されるし、実際放り込もうとしても相手から止めてください!って頼まれると仕方ないなあって止めるので外見からはわかりにくい。

ルーシャス・フォックスはおじさんじゃないです。
でもそういう、ブルース様の周りのことってほんとにおハルさんは何にも知らないといい。
そして、クラークのことはぼっさまの彼ぴっぴという認識。 セックスしたかどうかに関わらずあっちが旦那だと思ってる。
自分? ただの通りすがりです。
クラークはおハルとぼっさまが通りすがりでない関係なの勿論知ってる。
知ってるけど、知っているということを明らかにすると何故知っているのかの問題になり、それはちょっと親友に言えない。
親友の心音を聞き分けることによる一日最低一回の生死確認が習慣になってるといいですね。


セックスしか、って言い方は観念的、情念的で、実際のところセックスするために生まれてきちゃうもんなんで、
だったら、ある日突然出会えばいいんです、トラックが正面衝突するみたいに、運命に。