たいとる : 『梅が枝に春告げ鳥』
ながさ :ほどほど。
だいたいどのあたり :ジェイソンがロビンをやってた頃。 つまり昔々のお話で。
どんなおはなし :『箸にも棒にも』の続き。 リングを取り返しにゴッサムに行くと、そこは雪国だった。
そしてやっぱりおハルさんは怒られる。 Mr.フリーズは名前も出ないのに道化王子はいます。
ふんいき :ちょっと真面目に。
ちゅうい :一部だけ腐女子向けだよ。
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エイプリルフールも過ぎた頃、だったはずだ、今は。
『――積雪により、市内の交通機関は依然として麻痺しており――』
『――凍結した路面でスリップした乗用車に後続車が次々と――』
『――区域で発生中の停電は、送電線の異常と見られ――』
ゴッサムシティの中心地区。
街頭ビジョンを見上げる人だかりの中に、ハルもいた。
ニュースによれば、夕方の時点で積雪量は110cmを越え、日没の現在、気温は氷点下。
街のいたる所で起きている渋滞は、遅々として解かれる気配がなく、
腰の辺りまで埋める雪に立ち往生し、乗り捨てた車の数々に しんしんと細雪は降る。
雪の欠片が睫毛に落ちて、ハルは瞬きした。
そういえば、ゴッサムに来ると大抵、天候に恵まれない。
それでも、一時は歩く先も見えないほどだったというから、随分ましになったのだろう。
「これで昼過ぎまでは晴れていたんだ。 暖かくて、うちの沈丁花が綺麗に咲いた」
「へえ。 そりゃすごい」
「そのすぐ後に雲が出てきて、雪がやまなくなってね」
突如ゴッサムを襲った異常気象に、今の情報を求めて街頭ビジョンを見上げる人は多い。
ハルの隣に立つ男性は、もう退職したのだろう、髪に白いものが混じっている。
自分の差す黒い傘の他に、もう一本赤い傘を持っているのは、
学校にいる孫を歩いて迎えに行く途中らしい。
「兄さんは? これからどうするんだい?」
「ちょっと人に会いに。 けれど、ゴッサムがこんなに冷える街とは思わなかった」
「あんた、運がないよ」
人の良さそうな笑顔の、ぐるぐるに巻いたマフラーから覗く鼻が赤い。
『――アーカム精神病院へ向かう予定の護送車が、悪路によって転倒しました』
『入所者数名の行方が未だ確認されておりません』
『市民の皆様は、充分に注意してください』
『不要な外出はなるべく控えてください』
『行方不明の入所者は――』
「……あんた、本当についてないね。 私はもう行くよ」
「はは。 おじさんも気をつけて」
笑った吐息が白く漂い、ポケットから手を出すのが寒かった。
見上げれば、分厚い雪雲のせいか、奇妙に明るい、薄墨の空。
その下か、あるいはビルとビルの谷間か。
黒い羽の蝙蝠を、ハルは探している。
グリーンランタンのリングは、この宇宙で最も強力な武器の一つと言われている。
リングを任された者の "意志 "によって、ほぼあらゆることを可能にする。
制約となるのは、装備者の意志そのものである。
故に、誰もがグリーンランタンになれるのではなく、
リングと、リングの持ち主と、その強固な意志が揃わねばならない。
ハルのは今、このゴッサムのどこかにある。
グリーンランタンではない ただのハルは、早くバットマンを見つけなければ、
街と一緒に凍り付いてしまいそうだ。
雪の気配が鼻先を掠め、くしゃみが出た。
もう何度目かは忘れた。
ケイブやウェイン邸に向かうことは考えなかった。
あの時のブルースは急いでいて、ゴッサムで "何か "が起きたのは確かだった。
この街が、バットマンにとって特別な存在であることは知っている。
だから、直接街で探していれば、向こうの方からハルを見つけるだろう。
この闇に棲息している蝙蝠は、異物に対して特に敏感な生き物で、
己の世界に侵入者があれば、すぐに察する。
そう、思ったのだが。
曇天の灰色から。
凍えた大気が街を覆っている。
白い息を吐くたびに、舌先まで冷え始めたと気づく。
この状況は何なのか、と考えながら。
あの時の唇と温度をほんの少し思い出す。
もう少し、触れていたかったとも思う。
本人にもしっかり伝えたとおり、したいと思わないならキスしない。
そういう心が重要で、だから、相手が嫌がるなら、その気にならないのなら、しない。
のだが。
悪いと思って反省しているが、あの時は止まらなかった。
あれは、そんなつもりありません、みたいな澄ました顔してるくせに、
キスしてみれば無防備で、耳に残る声で人の名前を囁いて。
その差に、ちょっとクる。
まあ、決して無防備ではなかったけれど。
何をしていても寒いので、とりあえず歩き出す。
立ち尽くしていた靴の爪先が芯までじんと冷えて、そろそろ痛くなってきた。
その視界の端で、黒い傘が揺れた。
雪が途切れたので、先程のおじさんが傘を畳もうとしている。
たしか、孫が。
と、考えながらハルはそちらに足を向けた。
彼に用事があるわけではない。
だが、ちょうど彼とハルの直線上に、"何か" がいた。
それを目にした瞬間は、でたらめなフラッシュバックのように脈絡がなく、
いつから "それ" がそこに立っていたのか分からない。
視界に割り込んだその "違和感 "は、コートを着ている。
ハルは歩く。
急ぎはしない。
しかし、視線も逸らさない。
"それ"は帽子を被っている。
未だ見えないその下の顔を、ハルは知っている。
それが誰かはまだ分からない。 だが、知っている。
コートの肩の向こう、あのおじさんが雪道に苦労している。 ハルは足を止めない。
あと五歩。 しかし、"それ" がハルに気づく方が早い。
雪でなく、死んだ魚の腹のような、真っ白い顔。
赤く裂けた口が、さらに吊り上がる。
ハルは目を逸らさない。 何も言わない。 足も止めない。
ツイてないだろ?
赤い裂け目が、声にせず嘲笑った。
その手がコートの下に。 耳障りな笑いが機嫌良くピエロの顔を歪ませ。
ハルが足を止めたのは、"ジョーカー "の真正面。
コートから取り出された銃口は、ぴたりとハルの心臓を狙っている。
『あれのことは、誰も理解できないだろう』
前にブルースがそんなことを話していた。
あのダークナイトが、分からないと言った。
しかし今、ハルはジョーカーを目の前にし、
その銃口が、いつものオモチャでなく、実弾を発射するのだと察した。
指は既に引金にかかっている。
その腕を捕らえようとハルが動けば、簡単に撃ち抜くだろう。
「これが俺達の運命って奴さ、兄弟」
正気の水平を踏み越えた道化師が笑う。
誰かが悲鳴を上げ、気づいた周囲がざわめき始める。
ハルは答えなかった。
顔色一つ変えてやるつもりもなかった。
その時、ふっと影が差したような気がした。
「鬼さんだ!」
軋んだ声が歌い、ジョーカーは上を向く。 つられてハルの視線も。
そして、見た。
分厚い雲の、奇妙に明るい薄墨の空を、裂いて現れたような、暗黒の。
その 純粋な黒。
禍々しい両翼を広げ、闇が降りてくる。
「まーだだよ♪」
待ち兼ねていたように狂人は銃口を空に向ける。
ハルがバットマンの出現に驚いた一瞬、そしてジョーカーの行動に気づくまでの僅かな間に、
確実に照準を狙い定め、弾丸は発射された。
彼が正気でないことと、愚鈍であることは同義でない。
ハルは間近で、その銃声を、聞いた。
空気を裂いた弾丸は二発。
三発目が銃口から炸裂する前に、ハルの拳がジョーカーを殴り倒していた。
赤く引き攣った口からまだ漏れる嬉しげな奇声を黙らせる以外、もう何も頭になかった。
その視界を、突然暗黒が遮った。
闇の一薙は、何が起きたのか知る間も与えず、ハルを後方へ吹っ飛ばした。
気づいて、ハルが雪から背中を起こすと。
バットマンは、既にぐったりしたジョーカーの手足を拘束し終えた後だった。
「そこで暫く大人しくしていろ」
低く断じ、夜闇の騎士は道化師の背中を踏み越える。
ハルは跳ね起きると彼に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「余計なことをするなッ」
押し殺した嚇怒が空気を冷たく打った。
たしかに今日のハルは怒鳴られてばかりだが、その声は。
「さっさとこの街を出ろ」
銃撃とジョーカーの存在は、巻き込まれるのを恐れた人々を周囲から遠ざけていた。
それでも、人々の騒然とする空気を感じ、ハルはブルースの腕を取ると声を低くした。
「協力した方が早く解決するだろ」
「この異常気象の原因なら排除した。 おまえのような奴は必要ない」
「聞けよ! さっきのは悪かった。 おまえが撃たれたのは俺の責任だ。 だから、」
「黙れ」
冷たい声が、一切を拒絶した。
憎悪にも等しい憤怒がそこに滲んでいた。
漆黒の闇がざわりと翻り、己を留めおこうとする手を鋭く弾く。
「おい!」
声を荒げたハルの視界を、小さな、澄んだエメラルド色が軌跡を描いた。
掴み取ったそれはハルのリングで、気づいた時にはバットマンの姿はどこにも無い。
「……あの野郎……」
口の中で憤っても遅い。
腹が立つのは、訳が分からないからだ。
何がそんなに気に食わないのか、ブルースが教えようとしないからだ。
あんなブルースは、初めて見た。
「あーあ、怒らせた」
笑いを含んだ声が後ろから聞こえ、ハルは振り返った。
「……ロビン」
相棒とは対照的に色鮮やかな少年は、つっと視線を上げ、ハルを眺める。
ディックの後の、たしか名前は。
「忠告だよ。 あんたさっさと帰った方がいい。 でないと、うちのボスが怖いよ?」
「そういう訳にもいかないんでね」
「ふぅん?」
少年は片眉を持ち上げ、それからにんまりと笑った。
「俺、なんであの人が怒ったのか分かった」
「何なんだ」
「あんたには教えない」
ハルは、ぐっと堪えた。
本当に今日は腹の立つことが多い日で、
生意気なクソ餓鬼の言葉ぐらい、どうということもない。
「あんた早死するタイプだから、この街にいる時ぐらい大人してれば?」
「生憎、充分大人しくしていたつもりなんだ」
「ま、せいぜい気をつけて。 今夜は頭がビョーキの奴等がまだうろついてる。
今度は、ココに穴が空かなきゃいいね?」
指で軽く叩いて見せたのは、自分の額の真ん中。
どこからか、ようやくパトカーのサイレンが近づいてくる。
少年はするりとハルの横をすり抜け、
「あの人の街で、余計な死体増やすなよ」
言葉だけ残し、グラップルガンで軽やかに宙を舞った。
その放物線もすぐにビルの彼方に消えた。
雲は、いつのまに薄くなったのか。
本来の暗さを取り戻した夜空に、痩せた月が滲む。
しんと冷えた空気の底、ハルの手は凍りついたようで、握ったリングの形も分からない。
ただ、痛む。
ジョーカーを殴り飛ばした時の方が、まだ自分の手のような気がした。
死にたがったつもりはない。
無謀だとも思ってない。
あの時は、そう動くしかなかっただけだ。
風に散る雪が夜闇の奥に消えていく。
やがて、ハルは歩き出した。
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結びのお話はこちら→。
ちょっと長くなったのでページ変えました。 後半はさっくりです。
春になっても油断できないゴッサム。 でもきっとペンギンのとこなら梅も鶯も揃いそう。
あ、蝙蝠様は多分撃たれてません。 元気です。
でも撃たれてもわりと元気なことも多い気がします。
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