今になって思い返すと、あの時彼は、私を殺すことが出来た。



その頃の私は時折、大統領を辞職することを考えていた。
ソビエト連邦は既に充分過ぎるほど大きく、豊かな国になった。
舵を取るのが私でなくても、この国は進んで行くだろう。
私はただ、困っている人々に、手を差し伸べたかった。
それだけだった。

そして、人の中で静かに暮らしたかった。


"バットマン "はそんな頃に現れた。
国家の法と秩序よりも混沌を望む、テロリスト。
その正体も来歴も深い闇で覆い隠す、漆黒の翼。
紅く天を焦がす爆炎で、静謐の夜を脅かす叛逆者。

だが、彼は生身の人間だった。
ピョートルは彼の逮捕に拘っていた。
というより、処刑しようとしていた。
ピョートルは、血と恐怖は社会秩序に不可欠なものだと信じていた。
私は、そうは思わない。
この国の大統領に就任することを受け入れたのは、
過去の政治が犯した過ちを繰り返さないためだ。
人が人を処刑する音など、二度と聞きたくない。


バットマンの正体は、私にも分からなかった。
ほとんど動きを察知させない。
亡霊とも称されるとおり、闇から現れ闇に消える。
人格矯正施設や官庁、軍警察の基地など次々と爆破させていたが、
死者は出していなかった。
狙いを絞る、手際の良さを物語っていた。
彼がテロリストでなく、もっと有意義な生き方をしてくれたら、と思った。
彼に言わせれば、私は侮っていたのだろう。




初めて、彼と会った。

生誕式典の最中、シベリアに誘い出された。
そこで私を待っていたものは、亡霊でなかった。

あの時、彼は私を殺すことも出来た。

あの、狂気の夜。
何もかも赤く塗り潰された世界。
彼に拳で殴り倒された。
鼻から、口から、血が溢れ出た。
血の色が見えないほど世界は赤く染まっていた。
その中央で、たった一つの影が、炎のように私を罵倒し、憎悪していた。
この世の何よりも、誰よりも、バットマンは私を憎んでいた。
彼の声が、拳が、
偏光ガラスの奥、彼の真実の双眸が。
私という存在が世界から消え去ることを、望んでいた。
彼を突き動かす憎悪から、目を逸らすことが出来なかった。
彼はそれを決して許さなかった。

私は抗う力もなく、
ただ聞き分けのない子供のように、叫んで
どんな時でも私のことを許してしまう彼女に、請うた。

私は 恐ろしかった のだろう。
彼女が私のために何を犠牲にしたのか、その時は分からなかった。











赤い太陽光が遠くに消え去ると、雪夜に音はなく。
人の灯りもなく、凍えた荒野は青褪めて眠る。

彼は切り札を使い切った。
もう何も残されていなかった。

「そろそろ病院に行こうか、バットマン」

私は、精神のどこか、赤色の霧が残っているようで。
これから病院で切除される彼の狂気は、真夜の雪のようだった。

「スーパーマン」

冷たい雷鳴のような、声は。

「おまえは、何も分かっていない」

黒いマスクが彼の表情を隠す。 鉛が視線を拒む。
唯一露わな口許の、吐息は白く凍えて。

「理解していない。 おまえの思い通りにさせる気など、無い。 初めからな」

その身体の内側に潜ませた、小さな爆弾。
人一人殺す程度の、ささやかな凶器。
私はその存在を知っていた。
だから、スイッチを入れようとする彼の、その手を止めることも出来たはずだ。
だが、

「ああ、言ってなかったが、 おまえを裏切ったのはピョートルだ」


身体が動かなかった。
眼前で光が破裂した。
爆音と、白く塗り潰される視界で、ぴしゃりと頬に弾けた。
瞬きの後、
雪の上が、赤く散らばっていた。














ピョートルとは古い付き合いだった。
大統領になる前からお互いの考えを分かっていた。
自殺まで考えた彼の苦い過去を知っていた。
だから、信頼していた。
全く同じ理想を目指すことは出来なくても、彼は協力してくれると思っていた。

モスクワに舞い戻り、ピョートルと会った。
訳を聞かせてほしかった。
何か、理由が。
こんな、取り返しのつかない惨事を引き起こすほどの、事情があったのなら。
けれど、ピョートルは何も答えてくれなかった。
口がきけないほど、ひたすら怯えていた。
大きく見開いた目と口が、暗い穴に見えた。
彼はただ、目の前にいる異星人に、恐怖していた。

私は、どんな言葉を、期待していたのだろう。


「……これからの話をしよう、ピョートル」





















どうやって、その後 "事件" を処理したのか。
あまり覚えていない。
気がつくと、自分の執務室に戻っていた。
私は独りだった。
見知らぬ冷たい暗夜の底、独りだった。

彼女は、病院にいる。
医療機関の手に負える問題でないと、分かり始めている。
ピョートルは、彼女とは違う "病院 "に行った。

どうして、こんなことに なったのか。
そんなことを先程から繰り返し繰り返し考えているような気がする。
繰り返し繰り返し同じ文句を鈍い頭で唱えているだけのような気もする。
こんなに目の前が暗いのは灯りをつけないせいか自分の臓腑を見ているのか。

はっきりと分かるのは、

取り返しのつかないものを、失ってしまった、ことだ。


涙も出てこない。
そういえば一度も泣いたことがない。
いつまでも、いつまでも、痛みばかりが溢れ続ける。
抉り取られて埋めようのない虚ろな胸の底。
黒い濁流が全てを飲み込み押し流す。


暗夜は、いつまでも明けなかった。
























朦朧とした時間が、どれほど経ったのか。
ふと気づくと、窓の外は夜闇が薄くなっていた。
湖の底にも似た、未だ人を知らぬ青色が、世界を包み込んでいる。
音もなく、動く影もない。

時が 流れを止め
その時 初めて気づいた。

執務机の上、先刻まで夜闇に沈んでいた、もの。
仄かな未明に、浮かび上がる。

"首 "だ。
あのテロリストも死んだ。


弔いを、
夜が明けてしまえば騒がしくなる。
その前に、残った部分だけでも、弔ってやらなければ。



彼の顔に触れた。
頭部と、鼻の辺りまで覆った黒いマスク。
この仮面こそ、バットマンの "顔 "そのものだったのかもしれない。
夜闇の淵に潜んだ、漆黒の怨嗟と憎悪。
それに手をかける。
外そう、と思う間に呆気なく外れた。

暗い水の中から ほのかな光を 掬い上げた

そう思った。
彼は 静かに眠っていた。


死に顔というものを初めて目にするわけではない。
人はいつか必ず死ぬ。
天寿を全うする者、半ばで命を落とす者、同じ人間を殺す者。
この星から生まれた命は、等しく壊れやすい。


それでも、この首の清らさかは
何によるのか。




頭の中ではっきりとした像を結ぶ前に彼を連れて部屋を出た。
ある確信が在った。
論理的帰結ではない。
あるいはこれを天啓と言うのかもしれない。

彼は、まだ、助かる。





















+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

←前 次→




←もどる。