幸福の条件として

物質的充足を挙げるなら、その国に住む者は幸福だ。
各々が相応しい社会的役割を担い、生きる糧を得る。
そこには平穏が約束されている。

病める者には 慈悲を
病める罪には 鉄槌を。


幸福の条件として、心が満ち足りていることを挙げるなら
ピョートル・ロズロフは幸福な男だ。

数ヶ月の "治療 "の後、最後の診察も終わった。
病院の、外は
街路に降り注ぐ若葉の光。
空が深い。
一切は澄んでいる。
清らな香気に溢れている。
生まれたての世界は、どこにも憂いというものがなく、
ピョートルは幸福な笑顔を浮かべる。

(そんな彼の側頭部には)
(掌ほどの機器が取り付けられていた)
(彼の治療、あるいは矯正、は 済んだ)
(それが何を意味するのか、彼はもう忘れてしまったけれど)

彼の新しい仕事は、
とある御婦人の介護だという。
奉仕は人間の行為の中で最も美しい精神である。
そして、献身の喜びを知る者は、幸いである。
だからピョートルは今、幸福なのだ。










では、不幸とは如何なるものか。


郊外の、舗装道路を外れて暫く。
静穏の森にも春は一息に芽吹いて。
木立に囲まれた、瀟洒な館を若葉色で染める。

その屋敷を建てたのは、かつての貴族。
革命の後は接収され、特別療養所として使われた。
患者がいなくなった後、久しく閉鎖されていたが、
つい先頃、密やかに門を開けたらしい。
二階のバルコニーで、カーテンが静かに揺れる。
森を渡る春風は微かに甘く、そっと中に忍び込む。

その部屋は。
先程まで誰かいたのか、幽かな気配が留まる。
サロンとして使われた室内は、柔らかな白。
優美な装飾が華やかなりし過去の記憶を物語る。
中央には、古風なテーブル。
楚々とした花が飾られ、優しげな風が小さく揺らす。
その隣に、奇妙なものが置かれている。

液体を湛えた、透明な密封容器は、アクアリウムのようで、
けれども、水に踊る魚はいない。
緑の鮮やかな水草もない。
ただ、人形の首がある。

伏せた目蓋。
眉間に刻まれた深い憂悶の影。
唇は沈黙。

人のそれと変わらぬような、実に精巧な、人形の首が。
眠るような水の底、春の光は淡く砕け。
閉ざされた眼は永遠の真理について思索する。

そんな趣の、不思議な静物が、この部屋の中心だった。


ふっと また、風が。
カーテンをゆったりと揺らす。
遠い人の訪れを知らせるように。
そして音もなく、緋色のケープは舞い降りた。

黒色の詰襟。 逞しい首筋。
古代の彫像さながらの、精悍な顔。
涼しげな双眸は、天空の青色。

人の姿をした、人を超えた存在が、
その手で導くソビエト連邦は、今や地球の半分以上を占めるまで膨れ上がり、
彼の支配権は、人類史上誰も経験したことのない領域に達した。

彼はバルコニーから室内に足を踏み入れると、
真っ直ぐテーブルに近づいた。
その、ある種哲学的なオブジェを見詰め、穏やかに口を開いた。

「君に、話があるんだ」

すると、静止した液体の中。
人形の睫毛が、震え、
伏せられていた目蓋が、明いた。
現れた瞳は、幾千の言葉よりも冴えた 藍色。


この首の如きは溺れる者のように哀れなのだろう。





















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