なかなか明けぬ夜に、寝物語をまた一つ
飽きもせずせがむ声をなだめ、遠い遠い昔語りを















「……月と地球は共通重心を公転する」


小舟は行く、漆黒の海を滑るように。
沖を目指し、月明かりに銀の波を引いて。

「公転は遠心力を生じさせる。
月に面した地表ではこの遠心力よりも月の引力が勝り、海水は月の方へ引き寄せられる。
逆に、裏側の地表では月の引力よりも遠心力が勝り、海水は月から遠ざかる」

「これが潮汐だ」

語る人の、真上に月。
その髪と目が同じ色でちかりと光る。

「師匠、今日は理科の授業ですか?」
「ああ、簡単な実験だ。 "浮力と重力の相克関係について"」

浅く言葉を交わしながら、おれは夜闇に目をこらし、師匠の表情を読もうとする。
シチリアに来て二度目の夏になっていた。
修行の合間に交わされるこういう遣り取りにも大分慣れた。 この人のことも少しは分かってきたつもりでいる。
そう易々と真意を明かす人間じゃないことは確かだ。

闇の向こうにいる師匠は、笑っているのかもしれない。
目的の読めない講義が続く。

「月の運行が潮の干満、その程度にも関係することは、今言ったような説明がされる前から知られていた。
まあ、当然だ。 人類の遥か以前、45億年も昔から月はああやって浮かんでいるんだから。
どんな生物でも陸に上がれば月が頭の上にある。 海の中なら月に流される。
あれの下で進化してきたんだ。 遺伝子の方があれの呼び声を知っている。
産卵、誕生、或いは死。 月に合わせて始まり終わるものは多い。
……盟、この辺りでいい。 止めろ」

言われたとおり、エンジンを切る。
波の音が浮かび上がり、暗い海を満たした。
振り返れば、陸の灯はちかちか瞬く星々の中に紛れてしまった。

「人間にとっても、月を読むことは重要な意味を持っていた。
月を数えて時季を知り、時機を定め、それに従って生きていく。 月は一つの指標だ。
そして、人が月を読み、日を読み、星を読むことは、天命を読み解くことでもあった。
天体運行は地上の秩序を映す鏡とされていた。 つまり、星の乱れは地上の乱。 逆も然り」
「えっと、星占いって奴ですか」
理科、じゃないのか。
「未だ見えざる運命すらあの月に託していたってことだ」
「運命……」

師匠の口からさらりと出た"運命"が、なにか不思議だった。
この人は生粋のリアリストだと思っていた。

顔を上げて月を見る。
空気の作用か、天からそのまま落ちてきそうなくらい大きな月が覗き込んでくる。
おれの 運命。
聖闘士になって日本に帰ることが、できるのかな。

「分かるか」
「……いえ」

見上げた月は、月でしかない。 この地球の白い衛星。 その光は、要は反射だ。

「だろうな」

師匠の表情はやっぱり分からない。
月明かりはこんなに冴え冴えとしているのに。

「なら 手っ取り早く、死んでみろ」

ドン、と胸の辺りを突かれた。
師匠は。 動いてない。 けれど目に見えない何かが確かに。
気づいた時には身体は海の上に投げ出されていた。
月を、一瞬見た。
視界はすぐに崩れた。
水音。 暗い世界に落ちる。 腕を伸ばす。 何も掴めない。 水を掻くだけの指。 落ちる。
おかしい。
身体が沈む。 動けない。 鉛の塊に変わったように。
口からごぽりと空気の泡が逃げ出す。
沈む。
沈められる。
光の無い水底に飲み込まれていく。

我先に水面を目指す気泡につられて、師匠の言葉が浮かんだ。


 " 浮力と重力の………… "


















ふ と 意識が戻った時、そこは闇だった。
一片の光も無い、冷たい暗黒。
水面はどちらか、自分はどの方角を向いているのか、まるで分からない。
突然苦しさを思い出す。
死に物狂いでもがく手足が酷く重い。それでも動かないわけじゃない。 何か、何かを触りたい。
残り僅かな空気が肺から搾り出されて泡になる。
代わりに冷たい闇が喉から入り込んで身体を更に深みまで引き摺り込もうとする。
もがいた手足の先は、闇、闇、闇だけ。
何にも触れられない。

力が抜けていくのが分かる
自分自身が闇になる
怖い

 " 死んでみろ "

師匠 は

 " 死んでみろ "

おれは

このまま こうやって

死ん で


 " 死んでみせろ "



もがくことを、止める。
力を抜く。
目を閉じて水を感じる。
周囲を取り囲む、おれの中にまで溢れる、死。
こちらを静かにじっと見据えている。
おれが何をしても、どんなに怖がっても、死はそこにあるんだろう。

なら、どう足掻いても、いいんだな。


身体、手足、指、爪の先まで神経を研ぎ澄ます。
水面の光が無いのなら、それ以外で感じ取ればいい。
潮流、音、重力の向き、何でもいい。 上はどっちだ。

 " …………月の引力が勝り、海水は月の方へ引き寄せられる………… "

月は、出ていた。
この海は月に引かれている。 月がどちらにあるのか知っている。
全ての生物が月を仰いで進化してきたのなら、おれの細胞も月の呼び声を聞いているんだろう。
だったら、おれに分からないはずがない。
聞け。 感じろ。
残された全ての力を掻き集めて上を目指せ。
他には何も必要ない。 月の声に応える水流になればいい。 今はそれだけで、いい。

あとはただ死ぬだけだ。
なら、それまで生きればいい。
























それから、どのくらい経ったのか。
どうやってそこまで辿り着いたのか。
何も分からないまま、ただ、微かな "声" を頼りに闇の海を彷徨う内、
淡い光を見た。
そう思った瞬間、突然伸びてきた腕が俺を掴む。
身体が引き上げられる。 水から顔が出る。

「盟」

おれの名前を、呼ぶ声。
月と同じ色の目がちかりと光って、笑った。
楽しそうに、嬉しそうに笑って、おれの名前をその声で。


「盟、生きて返って来られて、おめでとう」





























俺は一つ、息をついた。

「その日は俺の誕生日だったんだ」

おめでとう、と言うあの人の声。
思い出すと口の辺りがむずむずする。 顔が熱くなりそうだ。
あの後気が緩んだ俺は師匠の前でぼろぼろ泣いてしまったんだ。 格好つかない。
シチリアで修行していた頃の話を人にするのは、どうも照れ臭くて仕方がない。

「……後で師匠から聞かされたんだけど、
月の引力は人体にとって雀の涙程度で、直接人間に影響を与えるほどじゃないらしい。
ああ、『雀の涙』はほんの僅かなもののたとえなんだ。 どうしてあの人は妙なトコ日本的だったんだろ?」

今でも分からないことの方が多い。
もっと色んなことを話したかった。
聞いて、あの人が全てを話してくれたとは限らないけれど、

「でも、あの日俺が生きて返れたのは、きっと月のせいじゃない。
師匠が俺を呼んでたんだ」

どういう人間だったとしても、俺の師匠はあの人だ。

「俺を呼んでくれたのは、あの人の小宇宙だ」

自然、唇が緩む。 むずむずが消える。
こんなことになった今も笑うことが出来る。 あの人を思い出している。
それはきっと、幸せだったということだろう。

「おまえに分かるか」

 " 否 "

「だろうな」

 " 吾こそ吾。 吾に他はいらぬ。 吾はギガス。 だが、何故汝は笑う "

「おまえを哀れんでいるのさ、"deus ex machina"」

 " 泡沫の如き者が神を哀れむか。 汝など時の繭が滞らせた朧な影 "

滞る時の監獄。
百年か。 千年か。 万年か。
或いは虚ろなる五十六億七千万年。
繭の中で魔神と共に眠る俺はもう、人ではないのかもしれないけれど。

「俺は、哀れだと言った、テュポン」

 " 何? "

「永遠に虚ろなおまえが、俺に勝てると思うなよ」

思い出す。
覚えている、あの呼び声を。
いつか俺が盟でなくなったとしても、永久に忘れない。



微笑んだ盟を、魔神は空の双眸に湛えていた。
世界の全てを貪り喰ったとしても尚満たされ得ぬ飢餓は今、
死した人の子が紡ぐ糸に絡み絡められ、ほんの束の間、共に微睡む。

なかなか明けぬ夜に繭が夢見るのは、遠い日々の欠片。



 " 盟 "

「ん?」

 " 次は何の話だ "

「えー、まだ喋らす気ィ? いい加減満足して大人しく寝ろよ!
……ホント仕方ねェ神様。 一人じゃ眠れないんだもんなー?」

 " 次だ "

「はいはい、終わったら今度はおまえの番だからな」




「じゃあ 次は……」






























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お誕生日な盟ちゃんでした。
最初の方で師匠が月がどーとかこーとか言ってますけど、師匠は結構適当ぶちかますので、
あまり真剣に取らないで頂きたいです。
つか、ちっちゃい子に何させてんですかな師匠ですが、きっと魔鈴さんの方がすごかったと見た。

ギガントマキアの最後にある盟ちゃんとテュポンの遣り取りが好きです。
が、書いてみたら暴風神が甘えたさんに。 あれ?
盟ちゃんは師匠から、はったりと根拠ナシな余裕を仕込まれていればいいなあ。




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