たとえば、おつかいの帰りだとか そんな気分で
急いでるわけじゃないから

















峨々たる岩山を這う巨大な白い蛇のような石段を、
ダンテは独りで下りていく。
真青な空が近い。
綿雲が聖域の上をゆったりと流れている。


聖域の中枢、十二宮。
黄金聖闘士がそれぞれ守護する星宮の連なる頂に、女神は御座すという。
女神を"守る"というのなら、何故わざわざ宮を分散させるのか。
聖域は初めてのダンテに、師である人はいつもの調子で答えた。
「いい女と仲良くなんのは簡単じゃないってことだ」
つまり、
『聖域の主に謁見する者は、黄金聖闘士全員の審判を受けねばならない』
という意味を、十二宮は表しているらしい。
「敵が来るのを自分ちで待ってるほど暇じゃねえっつーの」
十二宮全体が儀礼的な意味合いを持つ場所であり、
聖闘士でも白銀以下では、今日のダンテのように聖衣を賜るといった特別な機会でなければ、
滅多に立ち入らない。
日頃聖域にいる神官や雑兵も、この長々とした石段を使うことはないという。


立ち並ぶ石柱の間を、一人分の靴音が、なにかのんびり下りていく。
静かな午後、降り注ぐ光は眠気を誘う暖かさ。
剥き出しの岩肌にも春は柔らかな緑を芽吹かせる。
微かに風が甘い。
どこかで花が咲いている。
五感で捉えた世界は、ただ春で。

無意識に指が動く。
途中で気づく。
今日は煙草がない。
どうせなら、そろそろやめようか。

戻した指はなんとなく頭へ。
浅い砂色の、おさまりの悪い髪は指の間からもぴんと跳ねる。
帰ったら切ってもらおう。
そこまで考えて、ダンテは小首を傾げる。
もらうものをもらってしまったから、もう帰らないのか、あそこには。
明日にはこの聖域も離れる。
聖闘士というものになってしまったから。

これから、あの家では盟がひとりで食事を作る。
あのクソまずいメシ。
もっとマシになるまで見ておけばよかったな。


急ぐわけではないから。
のんびりと、とりとめなく、ダンテは歩く。
真青な空に取り留めもなく思い浮かぶことを、ただ思う。
白い石畳は続いていく。
星宮はまだ幾つか残っている。
この石段を全て下り終えたら、後は。


十二宮の前で別れたあの人は、きっとそこにはもういないだろうけれど。




しぃ、と。
その時、何かの呼吸音を聞いたような気がした。
いつのまにか目の前に、黒く口を開けた門がそびえていた。




暗い。
そういう構造なのか、巨蟹宮は闇が濃い。
三歩も進めば外とはまるで違う世界になる。
どちらを向いても、冷たいような薄闇が漠々としていて、何の明かりも差さない。
吸い込まれるように靴音が消える。
歩いているのに、空気はまるで騒がない。
堆積し沈殿したままだ。
ちょうどカタコンベに似ていると思い、
自然、歩みは静かになる。
薄闇の中、床や壁や柱に浮かぶ、無数の顔。
彫刻だとしたら、とても精巧な。
息を呑み、背筋が冷たくなるほど生々しい、最期の表情が、
どこか見知った人のような、忘れてしまった誰かのように思えても、
立ち止まり、じっと眺めることはない。
ひやりとする薄闇は、妙に柔らかく、沈み込むように深い。
長く浸かっていれば、皮膚一枚隔てた外にある闇と、内側とが、とろけて、
あの顔の一つにでもなってしまいそうだ。
ここは、普通とは、違う。


しかし、ダンテの足は不意に止まった。
また何か、音を聞いたような気がした。
ひ、と。
極浅く息を吸い込むような、音。
だが、それが"音"ではないと今度は分かった。
ダンテは立ち止まっている。
靴音はなく、暗い静寂がどこまでも広がっている。
人間の聴覚で捉える"音"といえるほど、空気は振動していない。
"それ"を捉えたのは、五感を超えた識覚。
ダンテはまた歩き始めた。
表情は変わらず、前を真っ直ぐに向く。
その小宇宙が、身体的知覚限界を遥かに凌駕し、周囲全体を探っていた。
感覚は鋭敏に研ぎ澄まされ、慎重に張り巡らされていく。
けれども、薄闇は深く、暗い。
張り巡らせたはずの精神が、際限なくその中に飲み込まれていくようで、
まるで、たった一人放り出された暗夜の海。

ガシャリ、と金属片を引き摺るような音が響いた。
同時に鮮明な気配が生じる。
いる。
静かに息を潜めて、こちらを窺っている。
すぐ後ろで。
ダンテは足を止めなかった。
振り返らず、全神経を背後の "それ" に集中させる。
闇が凝る。 乱していないはずの歩みが、酷く緩やかに感じられる。
背中にその視線が突き刺さる。
物理的な圧迫だと錯覚するほど、鋭く。
にもかかわらず、ダンテは気づいた。
先程の音と同様、この視線、気配もまた、実体が無い。
五感を超越した次元から捉えた今、背後の空間には確かに何もいない。
在るのは闇と、背に担いだ
教皇から賜ったばかりの、聖衣。

箱を開けて中を確かめてはいなかった。
みだりに開けてはならないと釘を刺された。
けれどそういえば、妙なことを言っていたような。
死霊、がどうとか。

るるぅ、と謡うような、唸るような音が、
背後の闇から微かに鳴り渡った。
吹き荒ぶ夜風か、獣の遠吠えか、辛うじてそんなものに似た、何か。
突然、ふ、と何者かの呼吸が頬にかかった。
ぞわりと鳥肌が立った。
後ろにいた気配が前に回ろうとしているのが分かる。
思わず目がそちらに向く。
肩越しに振り返った瞬間、頭の奥を引き裂いた音。
つんざくような獣の咆哮。
奥歯を噛み締め堪えた目の前で、闇が動いた。
傍らをすり抜け "何か"が猛然と駆け出そうとする。
咄嗟に腕を伸ばした。
冷たい感触が手を弾く。 それでも掴んで握り締める。
ジャリリ、と金属音がした。
鎖だ。
掴んだ腕が軋む。 鎖の先、闇を轟かす咆哮。
凄まじい勢いで腕が引き抜かれるかと思った、瞬間、
ぱっと視界が開けた。









空が、広がっている。
重く雲の垂れ込めた暗い空は、今にも降りだしそうだ。
晴れていたはずが、いつのまにか天気は変わっている。
鉛のような空の下、四方どこまでも広がるのは、岩だらけの荒野。
地平線は灰色に霞んでいる。
ダンテは、小首を傾げた。
(違う)
今度こそ辺りを見回す。
目の前が開けた時には、巨蟹宮の外に出たと思ったが、
それらしいものはどちらを向いても全く見えない。
目に映るのは、ただ果てしなく続く、不毛の大地。
曇天の下、昼か夜かも分からない、薄闇の、薄明の世界。
見たこともない場所だった。

どうしてこんなところに、いるんだろう。

ダンテは自分の身体を確かめた。
何ともない。
背中には聖衣箱を担いでいる。
あの奇妙な気配は、消えている。
左手を見た。
鎖の感触が残っているような気がした。
あの時、鎖の先にいたのは、何だったのか。
あれに引き摺られて、この奇妙な場所に出たようにも思う。
(たとえば全て幻覚だったとして、今の状況は何なんだろう)
ふと、向こうに人影を見た。
一人、二人……朧な影が列をなして歩いている。
視界は妙にぼやけている。
霧が流れているのかもしれない。
霞んだ向こうの影。 大勢の人間らしい列が、こちらにも、そちらにも。
ダンテは一人だけ、少し離れたところにいた。
列は皆、どこかに行こうとしている。
近づいてみようかと足を向けた時、

「おい」

後ろから投げ掛けられた声。
それまで、この荒涼とした世界には何の音も存在してなかったと、初めて気づき、
声が胸に響く。
「迷子か」
良く知った、その声。
なんとなく笑ってしまった。
「はい」
振り返ればそこに、腕組みして、片方の眉を くんと引き上げた
「はい、じゃねぇ! 良い返事すりゃ何でも済むと思ってんのかこのヤロウ」
「ホントに迷子なんで」
答えたら中指で額を弾かれた。 メキッと頭蓋骨が鳴った。
「いばるな、バカ」
師匠は、いつもみたいに笑ってくれた。





奇妙な世界を、奇妙な二人連れが歩いている。
世界はどちらを向いても影ばかりがゆらゆらとしている。

「そのボケボケしたとこ、ホントどーにかしろよ。 だから犬にも舐められんだ」
「どちらかといえば、飼うなら鳥がいいです」
「そういうトコ言ってんだろッ 鳥はなぁ、大変なんだぞ? つーかまずここがどこかぐらい聞け、バカか!」
「あ、ハイ。 どこですかココ」
「当てられたら教えてやるよ」

岩と砂礫を踏んで、二人は行く。
風化した大地が仰ぐ空は、暗雲ばかり立ち込めて、一滴の雫も落ちてこない。
風はそよともしない。 けれども、灰色の霧がゆるりと動いている。
どこの犬だろう、とダンテは思う。

「"ケルベロス"」
「はい?」
「そう言われただろ、聖衣」
「ああ、ハイ」
「開けてみたのか」
「いえ」
「開けたら死ぬと思え」
「そうなんですか」

足の向くままぶらぶらと、気ままに歩く二人と違い、ぼやけた影達は一つの方角を目指している。
霧に溶けたような地平線、列は続いていく。
目指す先は、この世界の中心かもしれない。

「見るか? あいつらがどこに行くのか」

指差すその手を見ていた。
肌の色も、筋の影も、この世界に馴染んでいた。
ちかりと光る薄色の目。 視線の先に、山がそびえ立っている。
黒い稜線、エトナに少し似た。

「……悪食だ、おまえの犬は」
「飼ってませんよ」
「飼ってるだろ、もう」
「はあ」
「食欲だけで動いてるようなバカ犬なのに、一番の好物は"死霊"なんだと。
んなもん、食べられるわけがねぇのにな。 食えないもんを食おうとしていっつも腹空かしてる。
だから殺しまくるんだよ。 食いたくて仕様がないから。
おまえのことも、エサだと思ってるかもしれない」

影は全て、山を登っていく。
黒い蛇のようなその列に加わり、二人も坂を上り始める。
見上げると、頂上は火口のように陥没しているようだ。

「その犬……、もう名前がついてるんですね」
「さっき言ったろ、"ケルベロス"だ」
「なんでそんな、妙なの食いたがるんですか」
「さぁな。 ジャミールの麻呂眉一族に会ったら聞いてみろ。 造ったのはあいつらだ」

列が登り終えた、その先は
何もない。
後は落ちていくだけの暗黒。
地の底まで続いているような巨大な穴が、真っ黒い口を開けている。
その中へ、影は、次々と
次々と、身を投げ、声もなく。

「こいつらが何なのか、分かるか」
「……人、ですか?」
「だったかもしれないが、もう違うな。
人間は地上で生きてくもんだ。 こいつらはもうそこを離れた。 それで、ここに来た」
「ここは……」
「名前が欲しけりゃ積尸気とでも言えばいい」

声もなく、落ちていく、落ちていく、奈落。
この世界は、どこにあるんだろう。

「どこにもない。 だから在る」
「……どうして師匠は、ここにいるんですか」
「さあ。 最初からここにいたから、いるんだろ。 ここが俺の世界だ。
もっとも、そこから落ちれば、それも終わる。 そこに落ちたものは二度と元へ戻らない」

深淵を見下ろす。 目眩がする。
地の底で、何かが呼んでいるような気がする。

「ここがどういう場所なのか、そろそろ分かったな。
どの世界でも、どの次元でも、誰にとっても、"死"は定法だ。 それが在ることは神にも覆せない。
だが、おまえにも少しは選べることがある」

俯いた視界の傍から流れる声は、常のその人のようで、
まるで聞き慣れないようにも思えた。

「あの聖衣箱を開ければ。
おまえが死ぬか、おまえが何かを殺すかだ。
おまえとバカ犬はこれからそうやって、ずっと殺し続ける。 いつかおまえの方が殺されるまで。
その時、おまえはもう一度、独りでここに来る。 この穴を、落ちる。
これから先、おまえとバカ犬がどれぐらい殺そうが、関係ない。 この世界がこうやって在ることに変わりはない。
いつか必ずおまえも、独りきりで落ちる。 それなら今、選ばせてやってもいい」

「今ここで落ちるか、後で落ちるか、だ」

目眩。
目を閉じる。
引かれている。
身体中の血が、臓腑が、魂が、奈落の遥か下に、下に
引き摺られて、落ちたがっている。
ここは、そうすべき世界だと何かが教えている。

「……それが二択ですか?」
「ああ」


目を開けた。


「向こうに戻ります」

隣に立つ人は、両目をすっと細めた。
砕けた鏡みたいな鋭い銀色に射貫かれる。

「てめぇの面倒も見切れないガキならいらねぇ。 必要なのは聖闘士だ。
至極下らないことに命張って、挙句脇目も振らずに死んじまうような、極め付きの気違いだ。
おまえ、まともに死ねると思うなよ。
聖闘士として生きることは、そういうことだ。 そうやって死んでいくことだ。 おまえに出来るか」

「……分かりません」
「じゃあ今落ちろ」
「いえ、それも」
「なら どうする?」
「どうもしないんだと思います」
「何だ、それ。 何言ってるか自分で分かってて言ってんのか」
「あまり」
「頭悪ぃぞ」
「はい」

出来る、出来ないは、やらなければ分からない。
分からないことが多すぎて、申し訳なくなる。
だから生きていたいと思う。
でなければ、死ぬことも出来ないから。

全く、単純なことしか考えられない。
それでも


「勝手にしろ」


その人は、そう言って













「おまえが落ちる時は、顔ぐらい見に来てやる」





















































唐突に、真青な空と光があった。
薄闇の中、切り抜いたように。
そちらに向かって歩いていたダンテは、ふと自分に気づき、立ち止まった。
ゆっくりと辺りを見回す。
巨蟹宮の中にいた。
門が近い。
外の光を、こんなに眩しく感じられるほど。
(戻ったのか、何なのか)
後ろを振り返る。
ひやりとする薄闇が、腕を広げて待っている。
闇の中深くじっと目を凝らしても、あの山も、影達も、見えるはずがない。
ただ、空気は、同じだった。
この闇のどこか、もしかしたら、向こう側の世界に通じているのかもしれない。
ここは、あの人の宮だから。

そして、ダンテは歩き始める。
石床に残された、誰かの顔を踏み越えて、
巨蟹宮を出た。

「よぅ、遅かったな」

春光の底、その人は当たり前の顔をして笑っていた。





急げとは言われないので。
ダンテはのんびりと石段を下りる。

「おまえは最初から、巨蟹宮を一歩も出てなかった。
このバカ犬にからかわれて、ちらっと向こう側を覗いただけだ」
「はあ」
「あんまり勝手なことさせんな。 ちゃんと鎖がついてんだろ」
「ああ、なるほど」

声は頭の上から降ってくる。
目の前には、ぷらぷらと揺れる足。
足の持ち主は、散々バカ犬呼ばわりした"ケルベロス"の聖衣箱に腰を下ろし、
ダンテの髪をくしゃくしゃと掻き回していた。

「なるほど、じゃねぇ。 使えねえならクソだ」

すぐ傍から聞こえる声は、言葉ほど機嫌の悪いものではなく、
ダンテはされるがまま歩き続ける。
人間一人分荷物が増えたところで、のんびりした足取りは変わらない。
白い石段の先に、次の宮はまだ見えない。
眠そうな雲が青空を流されていく。

「師匠は」
「あん?」
「なんで聖闘士やってるんですか」

ぽんと頭を叩かれる。

「そりゃアレだ。 地上の平和を守るため?」
「ははは」
「笑うなよ。 笑うとこだけど笑ったらダメだろー おまえ」
「すみません」

頭の上で声は笑い、くしゃくしゃにした髪を直して指が動く。
軽く撫でる、優しいような指先。
"極め付きの気違い"
聖闘士をそう評したこの人が、至極下らないと言いながら、
そのために命を賭けるものは、何だろう。


「……生きていてほしい人が、ここにいるからな」


息を、深く吸い込んだ。
そのまま言葉にしなかった。

指はゆるく動く、何事も言わなかったように。
微かに聞こえた溜息には、気づかなかったことにした。 
ただ、歩く。
傾き始めた春の陽、仄かに染まり影が伸びる。
石段はまだ続いている。


ここではない、薄闇の、薄明の世界で
奈落に落ち続ける影を、今も眺めるその両目が、それでも誰かを見ているのなら
この場所のために、聖闘士でいようと思った。













































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とりあえず、現実には殆ど何も起こってないんだと思います。
不思議空間巨蟹宮、再びです。 それ以上にアレなのがケルベロスの聖衣ですが。
なんかこう、聖衣ってみんな微妙に意思を持ってるというか、単独でも何かしでかしそうというか。
そういうの好きです。
ケルベロスの聖衣に鎖がついてるのは、犬と飼い主って意味かなと思いました。

Hush,Little Baby (白銀と蟹を絡ませてみようぜぃ企画)はこれにて終了です。
ありがとうございました。



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