*注意*

このお話は『常世の淵より』の続きですが、猟奇的な表現を含んでおります。
具体的には、山羊はうっかり死んでます。あと蟹は四肢切断です。

そんなの見たくないよ! と仰る方は、どうぞお戻りください。
お帰りはこちら

ま、お話のノリはいつもとそう変わりません、ハイ。

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うたたねに見た恋しい人は、夢か現か。
既に黄泉の客となった人を、それでも尚、会いたいと思うならば、
仮寝の夢も、午睡の現も、
所詮は胡蝶の翅の、表と裏。
常世の国は門を開く。




だからこそ、その宮に長く留まってはいけない。
目を伏せ、粛々と頭を垂れて、己を隠し、
しかし、蜘蛛の糸に取り縋る人のように、急がねばならない。
石床の下、壁の裏、その細い境界線の向こう側は、
夜の海のように横たわる、終極の世界。
脆い"現実"など易々と飲み込まれる。
宮を闊歩するのは死者の影。
たとえ、並ぶ列柱の陰に、恋しい人を見たとしても、
歩みを止めてはいけない。
常世の門は、そこにある。





その宮を、恐れ気もなく顔を上げ、歩く人間がいた。
どうしてか、常よりも生者の世界を脅かそうとする宮を、
まるで躾のなっていない子供を見るように眺める、
彼の目は、澄んだ翠玉だった。
美しい眉を僅かに顰めただけで、悠々と奥を目指す。
確かな足取りの向かう先は、主の私室。
常世の門がそこにいる。






床に、ごろんと転がって、翠色の目をした彼を見上げ、
それは、はにかむように笑った。

「よー、おかえり、先生」
「ただいま」

先生と呼ばれた彼は、床から動こうとしない友人を抱き起こし、
呆れたように言った。

「あの時は重症と言ったが、それでは重体だな」
「くはは、全く仰るとおり!」

快活に笑いながら、顔は紙のように青白い。
色を失った唇をじっと見下ろし、問う。

「それで? 君の話を聞こうか」
「んーん、別にまあ、見たままの話なんですがね……」

唇から ちらりと覗いた舌は、異様に赤かった。

「あれがねえ、あれと二、三、話をしてみたら、どうしても、
どうしても、試してみたくなってねえ……やってしまった」

動かない身体の、視線だけが動く。
その先にいたのは、ソファに腰掛け、まるで眠っているように、目蓋を閉じた人。
夢の淵は深く、深く、沈んだことすら分からぬのだろう。
その穏やかな眠りへ、眼差しは一心に注がれ、

「魂を引き摺り出して、直接触ってみたら、どうなるか。
考えたら我慢出来なくなった。
だから、そうした」

その瞬間を、一秒を那由他に刻んだ刹那すら、思い出し、
何一つ、決して忘れぬように。

「殺したのか」
「……いや」

声を掠れされたのは、何か。

「大それたこと言うなよ。天命を御定めになるのは教皇だ。
俺はほんの少し、それを止めただけで、魂はまだ帰してやれる。
けど、なぁ……。
あの時、俺は本当に、ちょっとさわるだけでいいと、思っていたんだ。
それなのに、触った瞬間、今度は殺してみたくなった。
堪らなくなった。全部、欠片も何もかも全て残さず、砕いてみたくなった」

浅ましいねえ、と最後に自嘲した唇が、
短い祈りの言葉を呟く。
それは、今はもう心から去った神へと捧げられたものだった。

「誰に対して許しを乞うつもりだ」
「……信仰は、形式とその反復で練り上げられるが、
俺の知っている"祈り"の文句はこれしかないんだ」
「そんなことをしても、教皇の御不興は免れないぞ。
" 聖闘士は血の一滴といえども、彼の御方の為にある "
君の信条だろ」
「分かってる。だからあの時も、どうしようか迷ったんだ。
その挙句が、これだろ?」

また少しはにかむように、ばつが悪そうに、
笑う彼の四肢は、友人に抱きかかえられた胴体から離れ、
手も、脚も、部屋のあちらこちら、好き勝手に散らばっている。

「迷ったっつっても、ほんのちょっとだぜ?!
それなのにやりやがった。俺動けなかったもん! これでも一応黄金聖衣もらってんのにッ
普通するかぁ? あの状況で腕二本に足も二本!
全く笑っちゃうほど化物だ、あいつ」
「君もかなり笑える状況だ。首しか自由でないくせに、良く喋る」
「うん、正直、酷い。痛い。
まあちょっと俺の腕を拾ってみてくれ」

慣れない軽さの胴体をそっと寝かせ、片隅に転がった、
まるで人形のそれのように切り飛ばされた、左腕を拾い上げる。

「ほう、これはなかなか」
「だろ?」

どういうわけか、その切断面は切り落とされてから時間が経過したにも関わらず、
筋肉も血管も収縮を始めず、まるで鏡面のように滑らかだった。

「これは、斬ったというより、" 存在 "そのものを断った、だな。
聖剣とは良く言ったものだ。何の呪いだ」
「もうビックリ。血は止まんねーわ、細胞も再生しねーわ、繋がりもしねえッ 俺の腕のくせして!
しかも超痛ぇ! 泣きたい、喚きたい!!」
「喚け」
「ひッ」

現在はどうやら、テレキネシスで出血を無理矢理止め、脳への血流を維持することによって、
その身体は冗談のように生きているらしい。
泣きたい、というのは本当のようで、
蒼白な面持ちの、目の際には赤い色があった。

「そうやって悲鳴を上げていろ。私は助けてあげないよ」
「え……なんで」

眼差しが小さく揺れる。
横たわるだけの身体。
彼が捕まえた青虫のように、首を僅かに持ち上げ、

「俺、おまえに何かした?」
「した」

旧友を仰ぎ見る表情に、瞬く間に不安が満ちる。
浅い息が唇から漏れた。

「……どれのこと」
「君は私に嘘をついた」
「え?」
「君は『動けなかった』と言った。しかしそれは嘘だ。
わざと、『動かなかった』。そうだろう?」
「……興味が、わいて」
「斬られたらどうなるのか、試したのか」
「もしも首と胴だったら、流石にまずいから躱そうと思ったけど」
「腕と足だったから、避けなかったんだな」
「ん」
「本当に、仕方のない奴だ、君は」

そう言って、髪を梳いてくれる指に、
安心したように屈託なく笑う。

「そんなに好きか」
「好きじゃあない」

透徹した翠玉の双眸を、その光の滝のような髪を見上げ、
陶然としながら、「けどなぁ」と続けた。

「人を死なせるのは俺の生理現象だ。
それでも、殺してみたいと思ったのは……
こいつを殺したら俺はどうなるんだろう、なんて考えたのは、初めてなんだ。
だから、どうも ね……今も」

斬り落とされた手足の代わりに、抉り取った魂を、
絶えず苛む痛みごと、身体の奥深く、うずかせる。

「もう暫く、後少しだけ、このままでいたいんだ」
「倒錯しているな」
「また言われた」
「けれど幸せな子だ」
「そうなのか」
「ところで、そろそろ死ぬぞ」
「ん?」
「彼だ」

視線の先は、未だ常世の夢を漂う、思い人。

「君と違って彼は死んだままだ。あまり時間が経つと蘇生が面倒になる。
そのために私を呼んだのなら、さっさと彼を帰してやれ」
「……もうそんな時間か……」

お名残惜しいが、今日はここまで。
呟いて、常世の門が開く。
喉元から下腹の辺りまで黒い線が走った。
否、それは色でなく、光ですらなく、
門を内側から押し開くのは、一切を飲み込む終極の世界。

「シュラ」

口を開けた亀裂の向こう、果てなく広がる暗黒夜。
愛しげに名を呼べば、その深淵から、翅のような煌きが浮かび上がる。



そして、彼が目を覚ました。












「何だ、私は必要なさそうだな」
「元気そうだねえ、良い夢見れましたぁ?」

目蓋を上げた、黒の両眼は、

「……いつもと大して変わらん」

首をごきりと鳴らして、何事もなかったように立ち上がると、
床にごろんと転がっている物体に目を止めた。
暫く黙って眺め、それから徐に、隣にいる金髪の麗人に聞く。

「アフロディーテ、こいつはどうしたんだ」
「端的に言えば君のせいだ」
「つかまず俺に聞け!」
「おまえは良くそれで生きているな」
「これぐらいで死ねるか」
「そうか、楽しい奴だな」
「ヒッ……」

思わず洩れた小さな悲鳴を気にせず、足元に落ちていた右腕を拾い上げる。
その鮮やかな切断面を丹念に眺め、

「たしかに俺だな。あまり覚えてはいないが……悪かった」

顔色一つ変えずに呟く。
事の発端を作った張本人は、唇の端を歪めた。

「謝るなら人の上から話すな」
「貴様が下にいるんだろう」

やはり表情を変えぬまま、切断した腕を弄ぶ、無自覚の加害者は、
口だけは良く回る被害者の胴体部に近づき、
その、半ばから斬り落とされた腿の断面を見下ろす。

「良く止めている」

初めて声に表した、柔らかな感情。
まるで褒めるかのようなそれは、出血の少なさを言っていた。
切断の瞬間で時が止まったような、奇妙な断面を、
もっと間近で観察しようと身を屈めた途端、
下から意外なほど鋭い声が上がる。

「触るなよ」
「何故」
「おまえの手に触られると、絶対に血が噴き出る気がする」
「そうか」

観察者は、持ったままでいた腕を床に置き、
代わりに新たな検体へと手を伸ばした。

「では慎重にやろう」

制止の声は指先で弾かれる。
足の付け根の下に這わせ、軽く腿を持ち上げたその手は、
しかし言葉と違わず優しかった。

それでも、血の気が引いた唇は戦慄く。
痛み、だけではない。
集中が乱れ、止めていた血が再び噴き出したとしても、言うほど怯えはない。
震えて目を見開いたのは、
優しいその手が、切断された傍をそっと這う指が、
後ほんの少し、ずれて、傷を直に触ってしまわないか、
どこかで期待する自分を知っていたせいだ。
ほんの先程、似たような願望のせいで、こんな様になったというのに。

ぷつん、と途切れていく何か。
一瞬白く融けた視界で、見上げた人は、笑っているような気がした。


「あまり遊ぶな」

投げ掛けられる声。
と、同時に、床にあった身体は友人の腕の中深く収まる。
後ろから腕を回して胴を抱いてくれる友人に安堵して、
吐息は緩まる。

「……怪我人で遊ぶなんて、信じらんねぇ奴」
「君もだ」
「えー?」
「離れた手足の細胞が生きているうちに、済ませるぞ。
……ああ、全く仕様がない。触ったから脚の止血が不安定になってきたな。
シュラ、そこに転がっている左足を拾ってくれ」
「繋がるのか」
「いつもより骨は折れるだろうね、君が斬ってくれたから」
「えっと、あの、先生!」
「何だ」
「傷口に切れた脚を押し付けられてる現段階で、既にものすごく痛いです!
でも一番痛いのは、そこ掴んでる先生の手なんですけどッ」
「小宇宙はまだ殆ど浸透させていないぞ。痛がるならこれからにしろ」
「……先生は、麻酔できましたよね」
「あれか、あれは止めておこう」
「え、なぜ?」
「君が意識を失うと、血流が止まらなくなるだろ」
「まあ、たしかに」
「それに私は、『悲鳴を上げろ』と言ったよ」
「……言ったな、そういえば」

唯一自由になる首を、声の方に傾げ、
肩に顎を乗せた友人の、翠玉の双眸を眺める。

「じゃ、我慢するしかないか」

頷いて、身体が跳ねた。



痛いのは傷というより、身体だ。
奥底から突き上げるように揺さぶられる。
一度、存在の根本原理から切断された部位を、
生体の自然循環内に蘇生させるのだから、当然無理が生じる。
小宇宙を用いようと、それは変わらない。
無理は余すことなく激痛になる。

「もう少し、時間が掛かる」

耳元で囁く声は届いたかどうか。
組織を細胞単位から作り直され、混乱した神経は痛覚だけを鋭敏にする。
堪えきれず逃れようとする身体は、二人の腕に押さえ付けられ、
びくびくと痙攣を止められない。
涙腺が独りでに緩み、視界を滲ませる。
目を開いてはいたが、何も見えてなかった。
身体の底から灼熱の業火に焼き尽くされてゆく。
声を出してしまえば楽になると知っていたが、鳴こうとする喉に力を込め、無理矢理に黙る。
それでも唇を抉じ開ける喘ぎを堪えようとして、
また涙が零れた。
と、伝い落ちた頬に、何かが触れた。
濡れた跡を辿って下へ。
涙の絡んだそれが、声を殺して震える唇を、ゆっくりなぞる。
促がすように動く、二本の指。
顔を背けようとして衝撃が突き上げる。
思わず開いた唇に、指はするりと入り込んだ。

「んぁッ、あ」

舌を押さえられ、喉の奥が開く。声が洩れる。
一度解放されればもう止めようがない。
だから、その指に歯を立てた。

思い出す。
昼間、指の持ち主に言われたことを。
その言葉どおり、犬のように噛み付いた。
強く、強く、指を噛んだ。
少しだけ身体が楽になったような気がした。

滲んだ視界に黒の両眼はなく、その顔が、
今どんな表情を浮かべているのか分からなかった。






















「終わったぞ」
「……ありがとうございました……」
「暫くは痺れがあるかもしれないが、直ぐに消える。泣くな」
「泣いてない、鼻水だ」
「そうか」

頬を濡らした温い液体は冷えた。
疲れた吐息はそのままで、頬をぬぐう友人の手にぐったりと頭を預ける。
物を言うことすら億劫だったが、

「次、脚もう一本よろしく」
「休まなくて良いのか?」
「いい」

消耗した、掠れた声で、はっきり告げる。
そして再び始まる忘我の責め苦を前に、朦朧としながら、

「下にいるの、好きじゃないんだ」

差し伸ばされる長い指を、喉奥までくわえ込み、舌を絡めた。































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秋のめるへんフェア第二弾。
おかしいなあ、こんな予定なかったのにな。

蟹の頭の中では不思議な脳内麻薬が分泌されている気がする。
先生が前よりあんまり優しくないのは、
家に帰ったら見知らぬ男と鉢合せした旦那様気分が、一割ほどあるせいかもしれない。
でも一割。余裕。
山羊のことはよく分かりません。思ったことしかやれない人なんです、たぶん。




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