あんまり良い月夜だったので、
それを肴に飲んでいた。
十二宮名物、ひたすら長い石段の真ん中、
見上げた夜空は
薄い桃色した、大きな月。
土産にもらった酒で俺は酩酊。
水みたいに透明なその中に、月がとろりと溶け込んだ。
酒精は甘く、甘く、
巡る血の中からも香りだす。


その良い月夜に、仏頂面が
影がそのまま立ち上がったように、石段を上ってきた。
知らぬ顔ではないし、俺の機嫌も良かったので、
声でもかけてやろうとして、
どうしてか、気が失せた。

俺は口を噤んだまま、
挨拶もなく通り過ぎてゆく、無愛想な横顔を目で追った。
黙って、ただ、眺めていた。



その夜に俺は発症した。



以来、それが視界に入れば、
歩き去った気配を思えば、

喉がひりひりして胸がちりりとして
眩む。
白く融ける世界、目を伏せ、逃げた。 
動悸。喉が、息が、
整えようとして、思考までざらりと崩れていく。
ざらり、がりり、と削り落としていく、
閉じた目蓋、網膜焼き付かせた、その姿。
深く、深く、うずき始める。


そして喉奥から、震えがくるほどの欲望が、込み上げる。
俺はそれを、必死に噛み殺して、飲み込んで。
鼻の奥がじんとした。



きっと、気管支まで、いかれてる。
酷い風邪をひいた時の、くらくらする感じに似ている。

けれどこれは、どういう状況だ?





俺は、そういう人体の仕組みに疎いので、友人に聞いてみることにした。
美貌の同輩は、俺の目蓋を開かせて、眼球を覗いてみたり、喉の奥を見てみたり、
(呆れるほど本当に綺麗な顔で)
お決まりなことをした後に、すっぱり診断を下した。

「恋の病だ」
「病。病気ですか」
「そうだな」

なるほど。他人に言われると案外納得する。
正常じゃないんだ、たしかに病気だ。
腑には落ちた。
けれど、恋。
それは

「人に移る病気なんでしょうか」
「感染の危険性はあるが、安心しろ。私は免疫がある」

くらん、と。
脳味噌が頭蓋の内側で裏返り。
他人に改めて告げられた衝撃が今頃襲ってくる。

「……困る」
「困るのか」
「先生、どうにか治りませんか」
「それは君次第だが、治りたいのか?」
「お願いします」

先生は、優しげな眉を優雅に顰め、お茶をいれてくれた。
俺は先生の前に畏まって座り直す。

「それで、どこにそんなに惚れたんだ」
「惚れたとか言わないでください。分かりません」
「考えろ」

これは医療行為であり、
治療には論理的分析が不可欠だ。
痛感しつつ、全く頭が働かない。
くらん、くらんと、脳髄が。

「なら、君には彼がどう見える」

刹那に閃く連想

「スズメバチ」

言った後、自分で考え込む。
先生も暫く黙っていた。そして、

「君はそれを、どうしたいと思っているんだ」

たとえば
傍に行って、話をして、
その眦に口付けでもしたいから、
身体の底、暗い場所が憂鬱にうずいて堪らないのか。

一瞬だけ思い浮かべた、あの目。

「本当にスズメバチだったら、首捻じ切って飴玉みたいにしゃぶりたい」
「比喩からして変態だな、君は」
「治療と思えばこそ赤裸々に告白してみた」


実際は、何も分からないんだ。
何がしたいのか、どうなりたいのか。
そんな逡巡の間もないほど精神を殴りつけてくる衝動。
這い寄る欲望は、陰湿で、執拗で、
けれど何も語らない。
代わりに引き起こされる厄介なアナフィラキシー。
ああ、困った。
このままじゃ気管支が駄目になる。



「……重症だな」

先生は呆れたように言って、俺の頭を撫でてくれた。

「暫く入院して様子を見よう」








診察費諸々は身体で払えと言われたので、
その日から、俺は日がな一日、先生の宮で炊事洗濯家事全般。
先生はなかなか人使いが荒い。
曰く、「目先の雑事に集中する」という治療法らしい。
これはたしかに、良い。
余計なことを考えてぼんやりすると、先生好みのコーヒーを作るのに、大抵失敗する。
先生の注文は毎回変わるんだ。


生クリームを入れた、綺麗な金褐色のそれを、
先生のところに持って行くと、先生は、机に広げていた書類を片付けた。
先生は内勤が多い。
俺と逆だ。

十二宮の頂上におわします、敬愛すべき教皇様は、
適材適所を心掛けていらっしゃるので、この安寧の時、俺向きの勅命を下さらない。
天下泰平、良哉良哉。
しかし、元がワーカーホリックである俺の精神には、優しくない。
彼の御方の一声、
それさえあれば、俺は、
いつでも、完全に、完璧に、正常になれるのに。


「どうした」

先生は、ちょっと首を傾げるように聞いてくる。
そういう仕草が、俺はとても好きで、
この古い友人の方が余程好きで、大切だと思った。
教皇への八つ当たりは、言わずにおいた。

「……結局、俺はここで何してるんだろう」
「その問いが出るようなら、症状は軽くなったな」
「本当か?」
「そうだよ」







ところがその夜、夢を見た。

夢の中で、俺は考えていた。
真剣に己の疾患と向き合い、癒えるにはどうすべきか思案していた、
はずだった。
が、夢うつつの幻に、俺の思惟は、手酷く痛めつけられる。

横顔を、また眺めているんだ。
昼なのか、夜なのか、
幻の地平線に、薄い光の差す時間。
俺は、とても遠くにいて、けれど、
その睫毛が僅かに揺れるのを、はっきり見えるほど、間近にいて。
自分の気管支が、やっぱりねじくれていくのを感じた。

目を瞑れない。
その横顔から逃げられない。
俺の眼窩は焼けて、爛れて。
ぽろぽろと、何かしらの液体を零していた。


この心象小景は何なのか。
俺はどうなろうとしているのか。


だんだん、気持ちが悪く、なっていく。


病気をするのは、困るんだ。
仕事ができなくなったらどうしよう。
ああ、それは本当に、困る。











目を覚ますと、まだ夜だった。
瞬きしていたら、すぐそこに、透き通る翠色が二つ。
俺が起きたので、一緒に寝ていた先生も、目を覚ましたらしい。
まだ眠そうな声で、
「夢でも見たのか」
俺も寝惚けた顔で頷いて、そのまま目を閉じて、
また眠ろうとした。
けれど、なんとなく目を開けたら、
先生もこちらを見ていた。

「スズメバチの夢か」
「……なんか気持ち悪い」
「君は」
「うん」
「本当は、治りたくないんだ」

うつらうつらと二人して、また眠りの中に沈みながら

「君は倒錯している」
「良く言われる」
「だから、『治りたい』 は 『治りたくない』 だ」
「うーん」
「仕方のない奴だ、君は」
「うん」


 うん でも スズメバチ だからねえ



 


















この世の果ての、そのまた終わりには、
花咲き乱れる神の世界があるらしい。
見たことはないが、それは、こういう場所かもしれない。

青空の下、むせかえる花の香。
立ち尽くす俺は、麦わら帽子と剪定ばさみ。

先生ご自慢の、人食い薔薇のお世話を仰せつかり、
取り囲む無数の花、花、花、花に、立ち向かう。
切ってやるべき枝と、そうでないものと、
教えられたとおり、ぱちん ぱちん。
随分うまくなったなあ、と思ってたら、
棘を指にぶっ刺して大出血。
あれ、俺って黄金聖闘士じゃなかったかしら。


久しぶりに見た血液は、薔薇の花のように赤黒い。
その確かな色彩に、俺は、
自分の生業と、真理を思う。


人間の、世界の、中心にあるものは、信仰だ。
永劫の安寧を望むなら、一切の狂喜、情愛は、
爛熟した熱狂、情熱と思慕は、一心に、無限に、無償に、
神にこそ捧げられて然るべきだ。
震えやすい脆弱な精神を、その揺らぐ行方を、
神の御手に委ね、心の底から信じ、捧げるのならば、
眼前に神の国は降りてくる。
積み上げた犬死の屍共も笑い出す。


俺の神様は、世界で唯一正しい信仰は、
野良犬の俺に、生きる場所と死ぬ理由をくれた、教皇。
神を知った日から、俺の生業は、彼の人の為に成し遂げる全ては、
至上の幸福と同じ意味になった。


それなのに、恐るべき精神疾患が、健常な脳を犯す。
自己外の他者と、境界の曖昧な、どろりとした一塊の物質になりたいと、
苛烈至極な欲望が、赤い血の中で吼え立てる。
あの静謐とした幸福の日々が、今は懐かしい。

全く途方に暮れて
鼻の奥がじんとした。













汚れた手を、薔薇園の水場で洗った。
すると、蔓を登る小さな影を見つけた。

「青虫ー」

手のひらに乗せて、先生のところに見せに行く。
淡い黄緑の、小さな赤い星を一つ付けた、青虫を、
先生は受け取って、

「これは薔薇の花弁を食べるんだ」
「じゃあ、捨てて来たほうがいいのか」
「いや、構わないよ」

机に置いたペン立ての傍に、そっと放した。
ゆっくりと身をくねらせる青虫の、小さな背を、
先生の指先が優しく撫でる。
目に見えない光が生まれた。

先生の手を離れ、青虫は、ペン立てに登り、見る間に、
磨いた石のような、とろりと輝く、蛹になった。
息詰めて眺めた、千秋の一刹那
殻が、内側から裂けた。

「あ」

薄い、ガラスみたいに透ける翅、
ふるえながら 舞いあがり、
俺の頬にとまった。
妙なところで休む蝶の、不可思議な脚。
俺はなんだか感心して、呼吸するように揺れる翅の、ぴかりと光る先端を、
視界の隅に眺めていた。

やがて蝶は、また ふわんと ふわ



唇掠めた翅の、銀の鱗粉を、
先生は指でぬぐってくれた。


唐突に、俺は、
もしかしたら、こんな風にただ、さわって、
皮膚で感じてみたいだけなのかもしれない、と
スズメバチを思い出した。
























夢の色した翅が、薄闇の宮、ひらりと たゆたう。
俺はぼんやり眺め、コーヒーを飲む。

先生が外勤に行ったので、俺は一人、強制的退院処分となった。
家に戻ってきたけれど、することがない。
とりあえず掃除して、洗濯もして、ついてきた蝶に砂糖水をあげた。
さて次はどうすればいいのか。

『当面は安静にしているんだな』

先生の言い付けを守って、大人しく自宮の中。
外は雨。
俺は蝶と二人きり。
前より凝るようになったコーヒーは、美味くて不味い。
先生と一緒にいる時は、もっとましだったのに。
そんな、ささやかな鬱屈を、話して聞かせる相手もない。

寂しい なんて思わず考えた、途端
カップの、陶製の表面に、子どもの顔が浮き上がる。
大きな目をくるんとさせて、期待して見上げてくる。
俺は溜息をつく。

「遊んでやる気分じゃないから、向こうのみんなのとこに行きな」

にこっと笑ってその子は消え、足音がドアの向こうへ走って行った。
部屋を見回して、また溜息が出る。
いつのまにか、そこらじゅう顔ばかり。
大きいの、小さいの、男、女、人ではないもの。
皆集まって、また一つ、二つと、増えてゆく、
死人の顔。

俺はもう何も言えず、コーヒーを飲んだ。


思い出す。
記憶の中の赤い戦場。
空には薄い光が差していた。
地平に立つのは一人だけ。影が真っ直ぐ立ち上がったような、黒い、黒い人。

それは、口を開ければ惰性で魂を食ってしまう俺とは、
まるで違っていたんだ。














少し眠くなった気がして、テーブルに頬杖ついた。
肘の傍に浮かんだ誰かの、優しい囁きに適当な相槌を打って、
ぼんやり、見れば。
黄泉路へ続く、憂鬱な薄闇を、蝶の翅が、ぴかりと光る。
薄く切り出した石英みたいに、
群れ集う死者達の間を、ぴかり。
俺は不思議に思う。
どうしてこの宮にいるのに、蝶は生きているのか。

あれはどこの国だろう。
蝶を、常世の虫といったのは。

青虫は蛹となり、羽化を経て蝶になる。
蛹の期間は、外から見ていても全く動きがない。
それはまるで、青虫の屍のように思える。
やがて殻を破り、飛び立つ蝶は、
一度死んだ青虫が、再び生まれ変わったように見えた。
だから不死の、常世の虫、と。


先生の咲かせた蝶は、ふわんと柔らかく、俺の傍におりてきた。
そういえば、生者がこの宮に入ること自体、無かった。


雨が止んだら、外に出してやろう。
風に乗って、遠くの国へ、他の蝶がいる土地へ行けばいい。
























次の日は綺麗に晴れた。
白い綿雲浮かぶ、澄んだ青空。
今日あたり先生も帰ってくるかもしれない。


俺は蝶と一緒に宮を出た。
薄い翅は、麗らかな日差しの空へ、ひらり 舞い
それを目で追った俺は、
未曾有の危機に陥った。

そこに、いた。

肩越しに少し振り返り、見下ろしている、その目を、
真正面から見れば、精神が決壊する。
本能で察し僅かに逸らした視界には、
指、長い指。

ぞくん、と背筋が震えた。

その位置が動く。
石段を下り、俺のすぐ上に来る。
逸らしたはずの視界の真ん中に立って、
瞬きできない俺の眼球を、奥まで射貫いた、眼差し。

けれどそれは、記憶とは違い、
ほんの少しだけ、殆ど分からないほど、柔らかに、
まるで楽しむように、言った。

「おまえの目は、犬のようだな」

アナフィラキシー引き裂いた
決壊告げる声。


「ハスキーの眼の、水色と同じだ」


俺は 獲物くわえた蜘蛛みたいに、笑って
石段を一つ上った。



青空に蝶の翅が煌いた。




































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秋のめるへんフェアなのでこんな感じに。

片思いか? これ。
たとえ片思いをしていたとしても、
蟹は教皇様の犬なのであって、山羊のワンワンではない。
断固主張。
如何ともしがたい!
あと、先生とは当たり前な顔して一緒の布団に入ってればいいですよ。




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