そろり、そろりと、子供が歩く。
灯りのない夜宮を、裸足で歩く。
ひたり、ひたりと、影も歩む。
夜が暗いとだれが言った。
子供の目に映るのは、こんなにも明るい世界。
青い月光と、無限群像。
子供は犬歯を剥き出して、きっ。
笑い声が返事する。
月がでかいなチクショウ。
こういう日はうるさくてしようがない。
今まで黙っていた連中までしゃべりだす。
好き勝手にさわぎだす。
最近また増えたから、なおさらだ。
「やあ、いい月だ」
やあ、ムカツク月だ。
「さて、今日はどこから話をしようか」
遠慮しておく。
もう何回聞いたかわかんない。
そぞろに歩く子供はやがて止まり。
取り囲む無遠慮な群像たちも足を止め。
何事かと子供を見る。
子供は。
ああ、月がでかいよチクショウ。
うるさくってしかたがない。
昼間は大人しく、ただの死に顔になってるくせに。
どうして俺が一人になるとみんな出てきやがる。
その腕はなんだ。
その足はなんだ。
生きていた時と、ちっとも変わらない体じゃないか。
おまえら、なんなんだ。
なんで歩くの。
なんで話すの。
なんでそこにいるんだよ。
俺はなんにも、へましちゃいない。
俺はちゃんとやっただろ。
亡霊だなんて答えはなしだ。そんなの無理だ。
魂まるごと向こう側に送ったんだ。
おまえらの体は、どうなったかな。
消し飛んだか、運が良い奴は墓の下か。俺はもう忘れたけれど。
だからおまえらいったいなんなんだ。
なんでさわれるの。
なんであったかいの。
人間の匂いがするのは、どうして。
どうして、俺だけしか。
いっつもいつも、他の奴らはみんな、おまえらのことがわからない。
俺、頭おかしいの?
脳味噌が損傷? でもそんな記憶ない。
全感覚は、第七識以下全テ異常無シ、って声高に主張中。
信じるかは別として。
それともなんか敵の攻撃? 俺に勘づかせないくらいの?
こわあぁい。
もし俺の脳味噌がいかれたら、サガに頭を良くしてもらおう。
名案だ。
「よし、それなら今日のお話は面白いのにしよう。きっと楽しいぞ」
ああもう、しつこいな。
だったら話は聞いてやるから少し黙ってろよ。
今考え事してんだ。
……なんだよ、その顔。大人のくせにガキみたいに拗ねんなよ!
あ。
やっぱり、おかしい。
俺の頭おかしい。
だってこんなの、俺の記憶じゃない。俺が分かるはずない。
こいつらの顔なんてまともに知ってるはずない。
声なんて、話し方なんて聞いたことがない。
そんなもの、俺に分かるはずない。
その前にみんな殺した。
「不安そうだ」
「心配なのかい」
「なんだかいつもそういう顔をしている」
うるさいな。
「心配なことがあるんだろう。聞いてやろう」
うるさいって言ってるだろ。
死人は死人らしくしてろッ。
「そんなことを気にしているのかい」
「それなら心配ない。きみは良くやった」
俺はちゃんと殺した。
「殺された」
「とても怖かった」
「息子がいるんだ」
知ってる。
もう何回も聞いた。
「もうじき10歳の誕生日がくる」
目のあたりが母親によく似ている。でもやることはあんたそっくりだ。
そうなんだろ?
「今でもきっと、家で帰りを待っているんだ」
「だから、とても」
だからあんなに、怖かったんだ。
だって泣いてた。
俺が魂を引きずり出したら、死ぬのが嫌だって泣いてた。
「一人で消えるのは恐ろしい」
「もう何も残せないのが悲しい」
怖くて嫌で、どうしようもなくて、あんたは俺に。
「だから、その腕をつかんだ」
あんたの何もかも、俺の中にぶちまけた。
俺にすがりついて、俺に全部なすりつけた。
あっ。
あ。
「そしてわたしはここにいる」
ああ、だからなのか。
胸クソ悪い。
足を止めた子供は。
奇妙な、犬の仔のような唸りをあげた。
無限群像は月下の宴。
子供は歯を噛み鳴らす。
ぽろぽろと、涙がこぼれた。
哀れむ目があり。
慰めようとする腕もあった。
そのぬくもりと優しさに、子供は悲鳴をあげて逃げ出した。
小さな背中が消える。
それを見送り、死者の記憶達は、月光にゆるく溶け。
巨蟹宮の暗黒に還った。
子供は石段を駆け上がる。
少し前まで隣の宮にいてくれた人は、今はあんなに上だ。
膨れた月が追ってくる。
裸足で走る子供は、地を這う黒い影になる。
両の目はあの月と同じ、銀色の、冷たさ。
けれど涙はぽろぽろとこぼれ落ちる。
犬の仔みたいに怯えている。
こんなことを、考えてはいけない。
考える必要はない。
そう必死で思えば思うほど、恐怖はつのる。
ますます深く、鮮やかに、澄み通る。
足がもつれて転んだ。
痛みより速く跳ね起きてまた駆け上がる。剥げた爪など見もしない。
そんなものよりも。
自分の内側。
手でさわれない。
喉元から腹まで切り開いてもどうにもならないような奥を、剥ぎ取られた。
その下から、嫌なものが溢れ出てくる。
「そしてわたしはここにいる」
底知れぬ暗黒から、天へと砕ける水泡のような。
儚く、脆い、無数の欠片。
死者が残した無限の記憶。
どうして、こんなものが、ある。
殺した。
打ち捨てた。
滅ぼした。
消し去った。
死を撒き散らし屍の山を築いた。
ただそれだけだ。それだけでいいんだ。
浴びた血も、臓腑の匂いも、洗い流せば消えるのに。
非力な魂が最後に残した爪痕がなぜ消えない。
死人が何を見、何を思って生きていたのか。そんなものに意味はない。もう殺した。
それなのに、どうして。
怖い。
こんなものを、焼き付けて、忘れないまま。
忘れられないまま、生きてしまった。
怖い。
怖い。
もしも。
何一つ忘れていないのが。
忘れたくなかったのだとしたら。
少しでもこの涙が。
刻みつけられた何かのために流れているのだとしたら。
この痛みのような哀しさが嘘ではないのなら。
子供の足が止まる。
これ以上先には行けなかった。
一番上にいるあの人に近付くなど、子供には許せなかった。
立ち尽くす足が、背が、震えても。
「眠れないの?」
声がした。
子供は涙をぬぐい、顔をそむける。
声の主が近付いてくる。
淡い夜明かりに、黄金の髪が浮かび上がる。
現れた双魚宮の幼い主は、返事もせずに立っている友人の手を取った。
「それなら一緒に来てくれ」
ずんずんと双魚宮の奥へと歩く。
そして月光の照らす庭に出た。
夜露の薔薇園。
アフロディーテは、黙ってついてきた友人の足許にしゃがみこんだ。
爪のない指が赤く染まり、裂傷がいくつもあった。
そっと手をかざし、治癒の意志をこめる。
小さな声で友人は礼を言った。
とても小さな声だった。
その手を、立ち上がったアフロディーテはもう一度取る。
「こっちだ。じきに咲くよ」
二人、薔薇園の奥で。
静かに綻びてゆく花弁を見た。
露にぬれた月色の花が、一つ、また一つ。
青白い燐光をまとって咲いていく。
月を恋しがるように咲いていく。
犬の仔は、奇妙な唸りを上げ、泣いた。
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サガが教皇になりかわった直後くらいで。
一応、前に書いた『お友達づきあい』と対になってます。
蟹は魚の前なら泣いてもいいと思います。まだちっちゃいし。
聖域の謎空間、巨蟹宮。
あれは、積尸気というか蟹さんと繋がった場所なのかなあと思ってみたり。
何なんですかね。
ちなみに、山羊は寝てます。寝る子は育つんです。
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