そういえば、見ていない。


唐突にシュラは気付いた。

聖域の中枢である十二宮。
宮と宮を結ぶ白い石段は、さながら、青空の下に横たわる巨大な生物の背骨である。
その中途でシュラは足を止めた。
双児宮を抜け、上へ行こうとしたのだが。
ふと、思い出す。
この先の宮を守護する、実にふざけきった人間は、
そういえば勅命から戻っていたように思うのだが、まだ顔を見ていない。
普段ならば、双魚宮か磨羯宮を自分の家のようにしているか。
それとも教皇の私宮で何かしら話をしているか。
とにかく、あの人を食った笑みでふらふらとしているはずなのに。
顔を見ていない。
声も聞いてない。
生きているのか、あの馬鹿は。


再び歩き出したシュラの足は、仕方なく、巨蟹宮へと向かっていた。








入口に一歩足を踏み入れる。
眩しく乾いた陽光が、すっと掻き消えた。
薄闇は奥へ奥へと流れ、氷雨の夜を行くに似ている。
その中から滲み出てくる、なにか暗い、気配のようなもの。
床や壁や柱。
一面を埋め尽す、人間の顔。

巨蟹宮。
守護者に反して陰々滅々とした聖域第四宮。
曰く、守護者に殺された者達がその恨みを捨てきれず、死仮面となって現れるという。
が、シュラはその話をあまり信じてない。
死人が恨むというのなら、それは巨蟹宮の主にだけではない。
しかし十二宮のどこを見ても、この場所以外にこんな奇怪な現象はなかった。
だから、またあの悪友の、仕様もない嘘の一つなのだと思うのだが。

まるで標本のようだ、とシュラは思う。
無数の顔は、有りとあらゆる類の、人間だ。
年齢、性別、人種、推測でしかないが経歴、社会的位置等々。
人間とはかくも多種多様な存在であると、一面の死に顔は証言する。
そう考えるのなら、この場所は、博物館に似ている。
多彩な死の標本が並ぶ間を、シュラは奥へと進んだ。
次宮へと抜ける柱廊を逸れ、私宮の方へと向かう。
薄闇の中でひしめく気配は密度を増していった。
それら死仮面は、確かに生きていた。
生きていたことを感じさせた。
虚ろな眼窩。
歪んだ口元。
その暗黒の淵から、微かな呻きがする。
唸るように、啜り泣くように、言葉にもならない何かを呟いている。
巨蟹宮を満たす、暗い囁き。
この本能的な不快感は、それらが確かに人間だからなのだろう。
シュラは、悪友が何故こんなものを放置しておくのか、理解できない。
それとも彼の言うとおり、勝利の証や強さの勲章のつもりなのか。
だとしたら、随分とまめな奴だとシュラは思う。
少なくともシュラは、自分の殺した人間の顔を残しておこうとは考えない。あまり憶えてもいない。
勝利の証など、自分の方が生き残ったということだけで、充分だ。

シュラの目はただ前を見据える。
その足は留まることも戸惑うこともなく、死の大暗窟を行く。
やがて、白い影を見つけた。
四肢をだらりと投げ出して横たわる死体が一つ。
それは、あまりにも相応しいので、死体、のようにしか思えなかった。
暫く黙って眺めた。
死人は死人のまま動こうとしなかった。
その目はどこを見ているのか。
傾いだ首の、顎の鋭利な輪郭。
シュラは辺りをぐるりと見渡した。
薄闇の中から、無限の死に顔がこちらを見ていた。

ゆるり、爪先を動かして。
起きようとしない悪友の脇腹を小突く。
少し力を込めて肋骨を探ると、ようやく視線がこちらを向いた。
思いがけない鋭さがシュラを射抜いた。
けれども。
シュラを認めた途端、その光は底へ沈み、眼球は薄く色のついた只のガラスになった。
「何をしている」
「何、て……」
何だろうなぁ、何してたのかなあ。
シュラの言葉を繰り返し、自分自身に問う。
「何をしている」
その目に向かってシュラはもう一度聞いた。
幾分強くした口調に、緩い瞬きが返される。
「……俺はさぁ……」
眼球が静かに動く。
映り込む無数の死に顔。
「あの人が言うのなら、俺は本当に、どんな奴でも殺せるのに」

どうして俺は、あの人を信じてないんだろう。






そして、へらりと笑った。


























「じゃあねー」

その声は巨蟹宮の奥から聞こえた。
足音は遠ざかり、消えた。



シュラは追わなかった。
踵を返し、そのまま巨蟹宮を出る。
鮮やかに晴れ渡った青空。
白く続く石段を、シュラは上を目指して歩く。
歩いていた。
そのうち走り出していた。
一心に上だけを見据えて駆ける。
途中誰かが声をかけてきたように思ったが、一瞬で遥か後方に置き去る。
磨羯宮すら駆け抜け、飛び込んだのは双魚宮。
開口一番、
「何なんだッ」
丁度午後の茶の準備をしていた双魚宮の主は、その声に柳眉を顰めた。
しかし気にすることなく、薔薇園を眺めるテラスに行く。
シュラは、一人優雅に茶を楽しもうとする友人の前に立ち、言った。
「何だ、何なんだ、あの馬鹿はッ ついに頭がいかれたか」
「君こそいきなり何なんだ」
アフロディーテはとりあえずテーブルにつくことを勧めた。
シュラは腰を下ろすと一息つき、思いきり機嫌の悪い顔になる。
そして巨蟹宮での遣り取りを語った。


「そうか、彼はそんなことを言ったのか」
話を聞き終え、アフロディーテは一つ頷いた。
そして視線を薔薇園の方に転ずる。
翠玉の双眸には金色の睫毛が美しい光を差し、思わせぶりに揺らめくが。
それだけだった。
「……他に感想はないのか」
「ふむ、特に無いな」
シュラの眉がひくりと吊り上がる。しかし根気良く言葉を続けた。
「様子がおかしいだろ、どう考えても」
「そうだな」
「勅命で何かあったのか」
「さあ、聞いていない。いつものようだったと思う」
「じゃあ何だ」
「分からないよ」
「あれのことは、おまえが一番良く知ってるだろ」

麗人はちらりとシュラを一瞥し、また視線を戻した。
この地方特有の乾ききった陽光の中でも、双魚宮の薔薇はどれも艶やかに咲き誇っている。
どこからか、柔らかな水の気配が漂っていた。

シュラは、自分の問いがはぐらかされる気がして、口を開こうとした。
しかしアフロディーテが先に言う。
「彼が心配なら見てやってくれ」
「心配などしていない」
シュラは眉根を寄せて断言した。
心配、という単語はもっと違う人種にこそ使ってやるべきだ。
「そうか。それならいい」
アフロディーテは微笑を浮かべて席を立つ。
「まあ、ゆっくりしていってくれ。私はこれから少し聖域を空ける。
込み入った調べ物があってね、私でなければいけないらしい。水曜には戻ろう」
仕事を持ち出されては、仕方がない。
やはり話を上手く逸らされた気がして、シュラはますます難しい顔になった。
そして呟く。
「俺に言わせれば、おまえ達二人、揃いも揃って阿呆のようにサガのことしか考えていないが」
アフロディーテは快活な笑い声で同意した。










それから一日、二日と経った。
何も変わったことは無かった。
シュラはいつもと同じく、鍛錬から始まる日常を繰り返す。
両腕に宿る刃を更に研ぎ澄ませ、一切を斬り伏せるものとするため。
しかし、いつもならどこかしらにある悪友の姿は、やはり無い。
それ以外は、至って平穏な日々だった。

けれども、何とは無しに、億劫になるのだ。
自然と、鍛錬の後はそのまま自宮に帰るようになった。
そして何をするでもなく、ただ漫然と、時が過ぎるのを待った。
考えるのは、思い出すのは、実に他愛のないことで。
そういう状態を、シュラは本来あまり好まないのだが。
思考は脈絡を持たず、流れて消え、浅い眠りの夢となる。



巨蟹宮に足を運ぶ気は起きなかった。
何だかそれはとにかく気が進まなかった。


去る双魚宮の主に、巨蟹宮へ寄れと言ってみた。
美神の如き顔には、面倒くせえなこの野郎、と書いてあった。


どうにも気が進まないのだが、行ってみた方が良いのだろうか。
「彼がそう言うのなら、聞いてやれ」
美貌の友人はそんなことを忠告するが、しかし。
行けば、きっと。


笑っていた。
死に顔の中で。
死体の真似事をしながら。
笑っていた。
けれど、あれがそういう風に笑うのは、大抵、逆だ。
そして行けばきっとまた、笑うのだと思う。


だから、行きたくはない。
あれも多分望まない。


だが、それでも。





うつらうつらとうたたねを。
浮き葉のような夢を見る。
人間が一人いないと、世界はこうも静かになる。
随意でないそれは逆に耳障りなもので、ふとした拍子に、矛盾だらけの声が響く。


「どうして俺は、あの人を信じてないんだろう」


矛盾だ。
あれはあの男が言えば何でもやる。
まったく、あの口から吐く言といったら、塵芥の価値もない。
それなのに。
その言葉こそ、欠片の真実であるように、思わせる。


それすら嘘になると知っているのに。






思考は結局何も見出せぬまま、混濁と矛盾とを繰り返し。
ただ一塊の、不定形な感情に成り果てる。
そうしながら、シュラは時が流れるのを待っていた。
















夜半。
眠っていたように思う。
目を閉じて眠っている自分を認識しながら、意識はふっと、外に向いた。
誰かが十二宮の石段を降りてくる。
ゆっくりと、月でも仰ぎながら歩いているように。
そして、ようやく磨羯宮までやって来た。

「シュラくーん? 寝てんのー?」

来るのが遅い。
シュラは目を閉じたまま返事をした。
この間より随分とましになった声が近付いてくる。
その声を聞きながらシュラは、ゆったりと、深い眠りに落ちていった。



















そして、水曜日。
教皇宮の奥深く、ある一画が魔宮薔薇で封鎖される。
聖闘士、神官、雑兵、従者の区別なく、誰も立ち入ることを許されない。
近付くことは即ち、死を意味する。
そこで行われるのは、非公式ながら、聖域内で最も権威と権力を有する会議である。

シュラは肘掛に頬杖をついて、睨むように自分の隣を眺めていた。
隣では、書類に目を通している悪友が、肩を振るわせ笑っていた。
その向かいには、無闇に美貌の友人。
少し離れた窓際で、法衣の男が分厚い書物を開いている。

この一室こそ、聖域最高執行機関である四人が、全世界の政治、経済、軍事を、
ああだこうだと茶飲み話にする執務室だった。

神権の代行者たる教皇の私宮に相応しい、典雅な部屋。
に並べられた、味も素気もない、灰色の事務机。
机の端に雑然と積まれた書類。
ディスプレイのフレームに貼られたメモ紙。
黄色いハサミが覗くペン立て。
隣には、土産の小物が置かれていたりする。


けらけらと笑うデスマスクは腕を伸ばしてペンを取る。
その手に持った書類には、笑える話など決して無いとシュラは知っている。
いったい、デスマスクは良く笑う。
どういう状況でも笑おうと思えば笑ってる。
そういう奴だ。

シュラは機嫌悪く、眉を顰めた。
どうにも信用ならない悪友だった。
そしてどうにも仕方のない、親友だった。


諦めて、無性に腹が立つ。

「デス」
「あ?」
「いいから」
「なにー?」

こちらを向いたその頭を殴った。
一瞬きょとんして、それから盛大に喚き出す。鈍過ぎる。
「痛ってッ! 見た?見ました? 今の! 理不尽過ぎる!!」
シュラは鼻で笑った。
デスマスクの目が据わる。
「シメるッ」
しかし、その時。

「騒々しい!」

サガの法衣が小宇宙でざわめく。
瞬間、二人の真後に次元の裂け目が出現し、どことも知れぬ異次元へと二人を飲みこんだ。
「ふざけんなッ クソ教皇様ー!!」
デスマスクの声が空しく消えてゆく。
それを確かめ、サガはまた手許に視線を戻した。
「デスがいる。そのうち戻ってくるだろう」


独り傍観していたアフロディーテは、見ていた。
アナザーディメンションに巻きこまれた机を、シュラが蹴り返したのを。
舞い上がり、散乱する書類を、デスマスクがテレキネシスで一つに集めようとしたのを。
二人とも、実に手慣れていた。


アフロディーテはこられきれず、笑い出した。

























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読書中はお静かに。
このサガは、果たして黒だったのか白だったのか。

なんというか、ちゅうがくせいにっき?

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