小さな手を振り上げて、幼い世界を守ろうとした。
背中に隠し、敵の目に触れぬよう、両腕を広げて。
つたない手が傷を負うとしても、それは誇りだった。
ただ愛していた。
それだけだった。















「何を騒いでいる」
凛とした声が教皇宮の一画に響いた。
群がり集まっていた衛兵等は振り返る。
そして姿勢を正した。
「アフロディーテ様」
双魚宮の守護者が、聖衣を纏って立っていた。
一歩進み出る。
金糸の髪が光を孕み、艶やかに流れる。
その姿は、まさに美神の祝福そのものだった。
双眸の明澄な翠が一同を見渡す。
「教皇の御前の静寂を守るべきおまえたちが、いったい何事だ」
黄金聖闘士の声に衛兵等は素早く脇へ退く。
現れた大扉は、教皇の間に通ずる入口。
意を決した衛兵が口を開いた。
「我等は聖闘士ではない、ただの雑兵。このようなことを申し上げるのは……」
「良い。思うところを聞かせてくれ」
アフロディーテは鷹揚に頷いた。
「先刻から扉の内よりただならぬ御様子が伝わってきます。もしや教皇様の御加減がよろしくないのかと
心配申し上げておりましたが、我等一同、この扉の内に踏み入ることを許されておりません」
「教皇は瞑想中なのか」
「何人たりとも教皇様の瞑想を妨げてはならぬ掟。我等ではどうすることもできません」
アフロディーテはそびえ立つ大扉の前に歩み出た。
扉の先は神の領域。
そこから伝わってくる重苦しいものに、目を伏せた。
「……君等の懸念は分かった。私が行こう」
「しかし、アフロディーテ様といえども」
「いや、教皇はお会いになる」
その声と同時に、大扉が自ら道を開けた。
衛兵等は畏まって跪く。
その神聖なる場は、許しなく目にして良いものではなかった。
首を垂れた彼等の上に、声がかかる。
「では、後を頼む」
顔を上げた彼等が見たのは、再び固く閉ざされた大扉だった。









女神を助け、聖域を治める教皇。
神殿には光が溢れ、磨きぬかれた大柱列が、物言わぬ従者のよう。
その奥、輝ける玉座に座る男の元へ、アフロディーテは歩く。
微かな音がした。
低い唸りだ。
男が顔を上げる。
顔を隠す仮面は、人であることを捨て、神の領域に至る者の証。
その口が、叫んだ。
刹那、不可視の力が烈風のように吹き荒れ、次元を揺るがす。
アフロディーテの周囲だけは凪のように静かだった。
けれども、男の叫びが。
魂を二つに引き裂かれていく悲鳴が、心の奥に冷たく突き立った。
いつも、いつもいつも、どうにもならないことがある。
この苦しみは彼だけのもの。
誰も触れられない、癒せない。
ただ見ていることしかできない。

やがて、絶叫が止んだ。
男の様子が緩やかに変わっていく。
嵐は静まった。
残されたのは、低い慟哭。
玉座の男は頭を抱えて嗚咽する。
「……サガ」
口にしてはいけない名前を囁いた。
彼の肩が大きく震えた。
「泣かないでくれ、サガ」
伏せられた顔は上がらない。
アフロディーテは玉座に座るその足許に膝をついた。
見上げたものは、表情のない仮面。
その奥で、男は泣く。
小さな呻きを聞いた。
一切を悔いる言葉だった。
「それは違うよ……」
「いや、彼を殺したのも私だ」
震える白い指が仮面に爪を立てた。
軋んだ音がした。
仮面がその手から滑り落ちる。
露になったのは、かつて、神のように称えられた男の果て。
男は神を裏切った。
友を裏切り、聖域を偽り、多くの聖闘士を死へと突き進ませた逆賊。
その頬を滂沱の涙が伝う。
「全ては私の過ちだ、私の愚かさが彼を死なせた、
本当は誰一人として死ぬ必要など無かったのに私が彼等を殺してしまったッ」
懺悔は堰を切る。
見開かれた瞳は、それでも濁ることを知らない青だった。
清廉なのだ、彼は。
苦悩にまみれながらも、その高潔な精神は何一つ変わらぬまま。
だからこそ、足許に口を開けている絶望が、暗く冷たいのだ。
幼い頃、アフロディーテは彼を、彼等を、守りたかった。
小さな手足はそのためにあった。
祈る神はいなかった。
ただ友がいた。
そして、今はもういない。
背中に隠してきたはずの聖域が、音を立てて崩れていく。
アフロディーテは静かに身体を起こした。
「……あなたの涙は、自分のためにあるのではない。
あなたは他人の痛み、哀しみに涙することができる……それは素晴らしい」
玉座で嘆くその人を抱きしめる。
遠い昔、彼に慰めてもらった日々のように。
白い額に口付けした。
「けれど、どうか顔を上げて、私たちを見ていてくれないか」


彼の唇が微かに動くのを感じた。
何も言葉はなかった。
それでも良かった。
彼の髪の色が変わっていく。
朝日のように澄んだ金色から、夜の闇より暗い漆黒へ。
涙を流していた目は、閉じられていた。
アフロディーテは玉座から離れ、膝を折る。
首を垂れ、臣下の礼をした。
男が口を開く。
「……この期に及んでまだ後悔など、見下げはてた奴だ」
懺悔を繰り返していた唇が、嘲笑を刻んだ。
悲嘆も、絶望も、そこにはない。
玉座に座っているのは、聖域の、唯一絶対の支配者。
再び開かれたその目は血の色に染まっていた。
「優しい人ですから」
アフロディーテは頭を下げたまま答えた。
男は鼻で笑い、頬に残る涙の跡を煩わしげに指で払う。
その秀麗な顔立ちは先程までと同じ。
しかし、髪が、目が、何よりも魂が、別人のそれになっていた。
「アフロディーテ、あれは死んだか」
「死にました」
「そうか、役に立たんな」
「ええ」
無情に響く言葉に、死者の旧友は首肯する。
滑らかに流れ出る声は、憤りに程遠い。
「死人ではあなたの役に立てない。彼はたとえ這いつくばってでも生きるべきだった。
あなたの作り上げる世界を最後まで見届けるために」
「そうだ」
男は傲然と顔を上げる。
その口から笑みは消えていた。
「おまえたちは全て私の駒だ。私が生かし、私が殺す。勝手に死ぬことなど許さん」
火のような目で大扉を射貫き、立ち上がる。
「茶番は終わりだ」
低い囁きに、空気が怯えた。
「私の聖域に入り込んだ虫けら共の首を、今すぐ捻じ切って、女神の前に晒してやろう。
この世を統べるに相応しい者はいったい誰なのか、全世界に教えてやる」
男が歩き出す。
己の言葉どおり一切を灰燼に帰すため、玉座を下る。
しかし、
「教皇」
涼やかな声が止めた。
意志を秘めた目は主を見据え、言う。
「その玉座に座すは世界の王。拝謁は十二宮の審判をその身に受けし者に許されるのみ。
ならば、私が倒れるその時まで、お待ちを」
迷いなどない。
ただ一言、男が告げるのを待っていた。
男は唇を引き結び、その顔を睨む。
「まだだ」
真紅の眼差しが大扉を刺す。
その向こう、世界を、全てを睥睨する。
「まだ何も終わっていない。こんなものは私の戦いの始まりに過ぎない。
おまえたちにはまだ私のために働いてもらう。おまえたちは使い勝手の良い駒だ。
こんなところで数を減らすなど、私は認めん」
怒気が声を軋ませた。
それでも魚座の黄金聖闘士は揺らがない。
「私たちは、あなたを守るためにある。
この13年間、世界はあなたの血と肉の上に支えられてきた。あなたこそが世界の王。
我等黄金の審判を全て受けきれぬ者など、あなたに会わせるわけにはいきませんな」
「……ふん、何一つ意のままにならぬ王か」
「それが王たる者なれば」
「そうか」
王は頷いた。
忠臣は首を垂れる。
「ならば、死ね」
「御意」
アフロディーテは鮮やかに微笑んだ。




























大扉から出てきたアフロディーテを、衛兵等は待ち兼ねた顔で囲んだ。
「心配するな、教皇は再び瞑想に入られた」
その一言が彼等を安堵させる。
しかし、
「君等もここを離れろ。聖域に残っている兵士は皆退くよう伝えてくれ」
「ですが、ここをお守りするのが我等の役目」
「たとえ屍になったとしても退くわけにはいきません」
口々に言って承知しようとしない様子に、アフロディーテは目を細める。
「その忠義は分かった。しかし、私はこれから魔宮薔薇で最後の守りを敷く。
知っているだろう、死の薔薇の芳香を」
「アフロディーテ様……」
「君等が傷つくことは教皇の御心を傷つけるも同じ。あの御方の慈悲を、どうか悟ってくれ」
口元に浮かぶ静かな微笑は、戦士のものだった。
逡巡していた衛兵は皆口を噤み、黙って深く一礼する。
そして与えられた命令を果たすため、去っていく。
「御武運を」
最後の守護者は頷いた。








教皇宮を出たアフロディーテは、一人で双魚宮を目指す。
石段を下るその足許。
茨が生まれ、磨かれた石畳を覆っていく。
蕾は膨らみ、真紅の薔薇が鮮やかに咲き誇る。
その甘い、蕩けるような芳香。
侵入者に恍惚とした死をもたらす魔宮薔薇。
教皇宮へと続く石段は、今や夢幻の美しさに満ちている。
目にした者を、永久の眠りに誘う極致の赤。
花弁は穏やかな風を呼び、薄紅の霞となる。
その流れ行く様を、アフロディーテは目で追う。
足を止め、遥かに眺めれば、十二宮全てが見下ろせた。
双魚宮、宝瓶宮、磨羯宮……
一つ一つ、ゆっくりと目を止めていく。
それぞれの宮を守る大切な兄弟たちの顔を、胸に刻んだ。

何よりも愛した、小さな世界。
幼い頃は、この場所をただ守ることだけ考えていた。
しかし、今は。

眼差しを一つの宮に戻す。
守護者を失い、寂しげに立ち尽くすその宮の主は共謀者であり、
幼い頃から互いの背中を守り、秘密を分かち合ってきた、友だった。
「あの人は私に、死ねと言ってくれたよ」
死者への言葉は薔薇の中に優しく溶ける。
「これで私は戦える。たとえ神が私の前に現れるとしても、道は譲らん」

己の為すところのために、神すら滅ぼそうとしている一人の人間。
その目は、けれど確かに未来を見据えていたのだ。
彼の作り上げる世界を見てみたかった。
不遜な、しかし純粋ですらある大望の行きつく先に、皆で立っていたかった。

今、たとえ全てが崩れていこうとしているとしても、この足が止まることはない。
彼は許してくれた。
神と戦うその道を、最後まで共に歩くことを。
そんな男を主として選んだことに、何の後悔があるだろうか。

アフロディーテは晴れやかに笑い、また足を踏み出した。













































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なんだかんだあっても、アフロディーテはみんなのことが好きだといいんです。

サガ(白)は、黒のこともサガと呼ばれるのを嫌がるといい。
基本的に白は号泣担当で。

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