落ちる。
落ちていく。
光の見えない闇の中を真っ逆さまに。



そこは、遥か昔から様々な名前をつけられてきた。
恐れと、祈りと、悔恨をこめ、捧げられた名は多々あるが、
今その穴を落ちていく男は、そこを黄泉比良坂と呼んでいた。



落ちる、とは言っても既に上下の感覚は無い。
概念上そういうものなのだろうと思っているだけかもしれない。
確かめようにも、もう分からないが。
目が見えない。手が、足が動かない。
あるいはこの身体は崩れて、闇の中に溶けていこうとしているのかもしれない。
肉が、骨が、脳髄が細胞の一片まで、原子の塵になるまで分解され、
このまま跡形もなく闇に消えるというのなら、たぶんそれも
気持ちが良いのだろう、と思いながら。
じわりと意識が滲んでいくのを感じた。


そしてまた、落ちていく。








落ちていきながら、また考える。
しかし、考える、というのがまずおかしいのだ。
とっくに自我が溶け去っていいはずなのに。
冥府に辿りつく気配もない。
今生初めて死界へと続く穴を落ちてみたが、地の底よりも深いこれが、
けれど決して永劫でないことは知っている。
“死”についてなら誰よりも知っている。
だから、これは奇妙なのだ。
男は考える。
疑問は、滲みかけていた意識を明瞭にさせ、忘れていた四肢の感覚を呼び戻す。
闇に埋もれようとしていた彼にとって、それは不愉快なものだった。
しかし同時に何か神経に触れてくるものに気づいた。
その感触の、まるで半身のような懐かしさ。
男は盲いたはずの目を開けた。
闇の中、優しい金色の光が朧に浮かんでいる。

 "落ちるのか"

声が響いた。
闇を震わせるように、あるいは身体の内側から伝わるように。
冷たく柔らかに響くそれ。
男は唇を歪め、嘲笑った。

 "落ちるのか"

声は繰り返す。
どうやらそれこそが、男を闇の中に引き止め、冥府へ下るのを妨げているらしい。
仕方なく男は答える。

「見ればわかるだろ、今落ちてんだよ」

 "死ぬのか"

「死ぬな」

 "何故"

無意味な問答だ。
男はまた目を閉じる。

「久し振りに口をきいたかと思えばそれか。
今更聞くな。だいたい、俺を見捨ててくれた聖衣ちゃんがいったい何の用で?」

 "人聞きの悪いことを"

金色の気配が微かに揺れる。
それは笑っているようにも思える。

 "吾は母なる処女神の帰還に、積尸気の暗がりにいては礼を欠くので一足早く戻っただけ。
  母に首を垂れるは子の務め。まして、如何にその行く手を遮ろうか"

「……それはそれは、殊勝なことで」

言いながら、男はげらげらと笑った。
男の笑いが収まるのを、声は静かに待つ。
そして言った。

 "女神は帰ってきた、この聖域に"

「真正面からってのが派手でいいな」

男の軽口に付き合わず、声は続ける。

 "女神は帰ってきた。あの小宇宙こそまさしく女神。そしてそれは汝も知っていたもの"

ぼんやりと男は思い出し始める。
それはほんの先ほど。
男が黄泉比良坂を落ちる一瞬前のこと。





生界と死界の狭間、積尸気。
死者の魂は積尸気を粛粛と進み、黄泉比良坂へと落ちていく。
黄泉比良坂は境。
行けば戻れぬ死界の淵。
そこで男は、龍座の聖闘士と対峙した。

男はもう数えるのも忘れたほどの魂を積尸気に送り続けてきた。
死者も生者も厭うことなく葬送してきた。
しかし、まさかこの場所で自分に拳を向ける人間が現れるとは思っていなかった。
しかもその魂は一度は積尸気に送りこまれたにも拘らず、生界へと戻ってみせたのだ。

女神のためか。
ははは。

その、生きて戦おうとする魂に。
いっそ物狂おしいまでの一念に。
男は内心で舌を巻く。
決して表に出してやる気はないが。

あくまで足掻くというのなら、今度は魂ごと消滅させようと向かい合った黄泉比良坂で、
男はほんの一瞬、何かとても奇妙なものを感じた。
何かは分からない。
だが一瞬で胸の奥まで入りこまれた。
そして何も像をなさないまま消えた。
男はそれを意識で追おうとして、追いきれぬまま、
目の前に立つまだ少年のような聖闘士を屠るため、小宇宙を高めていく。
しかし微かな何かが、胸に根を下ろしていた。

ふと、その師である天秤座の老師のことを思った。
袂を分かったとはいえ、その縁を浅いとは決して思っていない。
だが、それでも老師の弟子を殺すことに露ほどの躊躇いもない。
そうなるべくして目の前に立つのなら、誰であろうと、神であろうと、
縁も感傷も一切合切は無に帰す。
だから殺す。

五老峰での問答を思い出す。
まったく、何ほどの意味もないのだ。
ただ、お互いは相容れないのだと口に出して確認してみただけ。
それは、とっくに分かっていたことだ、多分互いに。

大滝の前で祈っていた少女を思い出す。
あれの祈りを知っているだけ、かえってこっちに伝わってしまい、神経に障った。
だから黙らせた。
その時老師の小宇宙に少し触れた。
あの老師ならそれだけである程度のことを知ってしまったかもしれない。
けれど、今更だ。

そういえばあの子は幾つになると言っていただろう。
それももう、どうということはないが。

本当に、何もかも、どうということはない。
たかが聖闘士を一人殺したとして、それと今まで殺してきた人間の何が違うのか。
まったく、何もかも、今更じゃないか。
この程度で歩みを止めるのならとっくに自分で黄泉比良坂に落ちている。

そうやって男は、心の内の一つ一つを確認し、消去していく。
そして安堵して殺意を練り上げる。
既に聖衣は二人ともない。
それは男にとってもよりも、魂のみを積尸気に飛ばされた相手にとってこそ恐ろしいはずだ。
自己の守りを捨てた魂は膨張する風船のようなものだ。
小宇宙が限界を遥かに超える反面、魂はとても脆くなってしまう。
そして男の小宇宙は、魂を砕くことができる。

死をもたらす小宇宙は光となって、男の指先に結晶した。
燐火のようなそれは男の意に従い、相手に襲いかかる。
普段ならば魂を身体から引きずり出すだけで止めている。
だが、今はその魂を引き裂く。
死の燐火は殻を捨てた魂など簡単に食い破っていった。
そしてその奥に隠されている核までも砕こうとした時、何かに触れた。
膜のように薄い、柔らかなものだ。
瞬間、男は愕然として声を上げていた。
身体の奥から震えるような声が出た。
魂の核を守っていたのは、小宇宙だった。
世界の全てを満たすような、圧倒的な小宇宙の奔流がそこで渦を巻いている。
畏れが身体を貫いた。
だが男が止まったのは、決してそのためではなかった。
男はその小宇宙を確かに知っていた。
それは、13年前に聖域から消え去ったものだった。


男の小宇宙が制御を無くして飛散する。
同時に、ずたずたに引き裂いたはずの魂から、まるで血が噴き出すように、小宇宙が大きく弾ける。
次の瞬間、男は黄泉比良坂に落ちていた。


唐突にあらゆるものが男の中で像を結ぶ。
何故わざわざ自分まで積尸気に来たのか。
どうして黄泉比良坂に直接落としてやろうとしたのか。
積尸気に送ったはずの魂が戻ってきたのは、この生界と死界の狭間で何かが起きているのではと思ったからだ。
だから自ら赴き、手ずから魂を黄泉比良坂に葬ろうとした。

しかし、まさか。


静かに全てが組み上げられていく。
胸の奥に刺さっていたものがするりと抜け落ちる。

ああ、このためなのか。

悟った瞬間、闇に飲まれた。









































あとはただ、闇。
男は記憶を手繰り寄せるのを止める。

「たしかに、あれは女神だったな」

13年前はただの無力な赤子に過ぎなかったもの。
サガを止めることも出来ず、シオンを救うことも出来ず。
ただ、アイオロスの腕の中で守られていたもの。
そのアイオロスも死んだ。
何も為すことの出来ぬ哀れなほど無力な、赤子。
それが今、黄金の矢を受けて倒れながらも、あの聖闘士を守ってみせた。

「……あれは簡単に殺しきれないな、まあ」

呟いた声が溜息のように笑う。
そしてすぐに闇に消えた。

 "あれこそ女神、吾が母。そして聖闘士は全て女神のためにある。女神こそその正義。
  しかし汝は女神に反した。断罪はなされた。刑は下された。汝は闇に落ちる。
  正義を前にしたものはただ滅ぶのみ"

「正義ねえ……」

男は唇を歪めた。
しかしそれ以上は何も言わず、思考をまた闇の中に溶かしていく。
語りかけてくる“声”を断ち切り、今度こそ冥府に下ろうとする。

 "何をしている"

男は答えない。

 "何をしている、本当に落ちてしまうぞ"

「……落ちるんだよ」

 "馬鹿な"

「刑が下されたと言ったのはおまえだ」

 "そうだ、汝は許されざる悪。だが、目を開けろ"

男は目蓋を動かそうともしない。

 "見ろ。それとも汝にはもう見えぬのか。女神の小宇宙は蜘蛛の糸のように汝の前にある。
  慈悲の御手を取れ。女神の愛は全ての聖闘士に注がれている、汝にも"

「……笑わせてくれる」

嘲笑は半ばで掠れた。
男は目を固く瞑り、眉根を寄せる。
13年を経て、あの赤子の力は確かに女神のそれとして目覚めたのだろう。
だが、慈悲?
誰を救ってくれるというのか。何から救うというのか。
この身体に染み付いた血も、幾千、幾万の亡霊の怨嗟も、ただ自分一人のものだ。
纏わりつくそれらこそが全てだった。
神の力で洗い流そうとも、出来はしない。させない。
その愛に許しを乞う日はもう過ぎ去った。

 "聖闘士全ての命はただ女神に捧げられるもの。汝等の自由になるものなど何もない。
  目を開けろ、そして手を伸ばせ"

「断る」

いつか男の顔には常の皮肉な笑みが浮かんでいた。

「自分だって死にかけてるくせに生意気言ってんじゃねえ。まだ俺一人殺しただけだ。余裕見せられる状況か?
ガキはガキらしくしてろ、ガキなんだから。……と、女神にお伝えしてくれ。丁重にな」

一息に言うと、後はもう用は無いと言わんばかりに指先を払った。
その唇から笑みは消え、まるで寝入るように静かな顔をする。
傍でじわりと闇が増した。
“声”が微かに揺れた。

 "……ほとほと汝には愛想がつきそうになるな"

「とっくに見放したんじゃないのか」

 "主を見捨てる聖衣がどこにいる"

「そこにいるだろ」

 "そうさせたのは誰だ!"

「俺?」

 "当たり前だ"

「……だったら」

 "だったら何だ、汝は吾に……"

「どうしてもっと早く」

離れなかった、と声を出さずに呟いた。
闇が深深と密度を増し、身体の内側に、魂に冷たい何かが満ちていく。
男はもう唇を動かすのも億劫になっていた。

 "……仮に吾がもっと早く離れたとして、それが何になっただろうか。
  汝は変わるまい、やはり同じことを繰り返すつもりだろう? そして汝等も"



 "汝等の13年間など神代よりある吾等にすれば泡沫の夢。たとえ汝が何をしようとも"



 "……そうやって汝は吾に理解できぬことを言う。吾は汝を守る者。未来永劫、変わることなどない。
  それなのに汝は死ぬ。何故だ"



 "何故だ"



“声”が大きく震えた。
既に世界は冥皇の領域に入っていた。
闇の静寂を裂くように金色の光が大きく膨れ上がる。
男の目がゆるりと開いた。

「代りにサガに謝っといてくれ」

そして闇の中に沈んで消えた。
後にはもう何もない。


 "……まったく、汝は吾に理解できぬことを言う"



 "何を謝るのか吾には分からぬ。汝が言わねば吾は何も分からぬ。
  言ってみせろ、その声で"


答える者は何もない。
ただ闇があるばかり。

金色の光は静かに揺らめく。











 "……おやすみ、キャンサー"











そして全てが消えた。













































++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
蟹と蟹聖衣。
聖衣はあれだけ自己主張が激しいんだから、喋れたっていいと思います。

意外と仲良くても楽しい。
最後の最後で離れたってことは、最後の最後までは離れようとしなかったってことなんで。


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