浅い眠りの中に、音がした。
意識の底から湧き上がり、深く響かせる波の音。


目を開けると、鈍色の大河が流れていた。
見渡す水平線は真円を描き、闇空を霞ませて溶け入る。
果てしない大河は世界を静かに押し流そうとするようだ。

ラダマンティスは、常と変わらぬアケローン河を眺めていた。
見慣れた光景は眼球の表面を流れ過ぎ、
心は、どこか虚ろな意識の行方を追う。
途切れた夢の影のような、淡い何かを思い出そうとしている。

しかし、彼の精神は突然覚醒した。
崩壊した世界の記憶が神経を冷たく弾く。
そして淡い何かは、そのまま失せた。



ラダマンティスは改めてアケローン河の景色を眺めた。
不尽の大河は流れ、闇空は暗く垂れ込める
その景色の中に、自分がいる。
弧岩に独りで立ち、神代から変わらぬ永遠の風景を眺めている。
見下ろした自分の手は、冥衣は、
在るべきように在り、胸を刺し貫いた血の跡も無い。

デスマスクがいない他は、全てが元のままだった。
異物が消失したことにより、冥界を構成する秩序が再生したのだろう。
時は再び滞り、常態を取り戻した。
始めから何事も起こらなかったように。


一時の幻覚のように消え失せた男が、結局何者だったのか。
何を為し、どこに消えたのか。
答えを確かめる機会も共に去り、
所詮憶測の域を出ない思惟に価値を見出す性質でもない。


あの時出現したものを、言葉で言い表すことと、理解することは全く違う。
実を持たない言葉は便利なものだ。
それは、"死" であると一言で済ませることが出来る。
あるいは言葉を変え、
 "全事象を崩壊させ消滅させるもの"
 "あらゆる秩序の対極にある、絶対的な混沌"
何とでも言うことが出来る。
だが、概念は概念に過ぎず、理解とは別の次元である。
まして、その真義などは。

故に、"全存在が自己の境界を失った零地点" の存在など、
"それ"と己を確かに繋いでいる引力など、
真に理解出来るものではない。
理解した時既に、自分という存在はその中に消えている。


だが、冥王は、"神"は、あれが何なのか分かっていたのだろう。
だからこそデスマスクに冥衣を与えたのだ。
冥王の神意は深遠であり、人の及ぶところではない。
あの男を冥府に留めておいたのにも、何か意味があってのことだ。
その上で冥王から処遇を預けられていたというのに、
あの男を行かせたのは、やはり失態だろう。
もう二度とあの男は戻らない。
あれがずっと望んでいたのは、自分自身が消えて無くなることだ。


失態と知りながら、ラダマンティスは己で不思議になるほど無感動だった。
何かしら麻痺したままなのかもしれない。
あまり望ましくないことではある。




ぼやけた色の水面に白波が立ち、流れていく。
大河は茫漠と流れ、視界の暗鬱な色彩を取りとめもなく滲ませる。
波音だけが世界を響かせていく。


(これで良かったのかもしれない)


ラダマンティスは、傍らに置いていた冥衣のマスクに目をやった。
その時、後ろから肩を叩かれた。
そちらを向いた彼の頬に、くっと軽くささる指。
けらけらと笑いこける声。

「びっくりした? 今絶対びっくりしたよな? 三巨頭のくせに後ろ取ら……」

ラダマンティスは、無言でその手首を掴むと、投げた。
馬鹿笑いが ふわっと宙に浮き、
情けない悲鳴を上げつつ小石ほどの容易さで河に落ちていく。
そこに急激な制動がかかった。
ラダマンティスがその足首を掴んでいた。
「だから、なんで吊るすのッ 趣味? そういう趣味なの ?!
怖いから! ホントに怖いんだから止めて! 嫌いなんだよこういうの」
だらんと逆さに吊られ、デスマスクは喚き立てた。

唐突に、何かの間違いのように出現した男は、
冥衣でなく、ごく普通の白いシャツがずり落ちて腹が見えている。
胸に貫通させた大穴もない。
薄い光の目は、未だ一言も口を利かないラダマンティスの形相を見上げ、
徐々に落ち着きをなくす。
「そ、そんなに怒んなくたっていいだろ、大人げないぞ?」
ラダマンティスは答えるより先にその身体を岩の上に放り捨てた。
「貴様が、言うな」
他愛無くまた宙に振られたデスマスクは、しかし猫のように自然な動作で降り立つ。
「おまえね、人を物扱いするその態度はどうかと思うよ」
そして、ふにゃりと笑った。
その物言い、その態度の、何一つ変わらない傍若無人ぶりに、
ラダマンティスは実際、腹が立つより呆気に取られていた。


「貴様は何故ここにいる」
「んー?」
あの闇の中に消え、冥界を去ったはずのデスマスクは、
自分の姿を確かめるように視線を巡らす。
「首輪が、外れなくてさ」
「首輪?」
「思ったよりきつくて、あんまり遠くに行こうとすると絞まるんだよ。
どうやったか知らないが、ハーデスは良いものを仕込んでくれた。
おかげで小宇宙燃やすだけで俺の臓腑が反吐みたいになる」
淡々と語る言葉に、ラダマンティスは血溜りから這い上がった影を思い出した。
今、あの冥衣は見えない。
だが冥王の枷は体内に残されたままなのだろう。
その力が、向こう側に行こうとした男を繋ぎ止めたのか。
「……まあ、もう一回試したらどうなるか分からないけどね」
「その前に貴様の脳髄が消し飛んでいる」
「だろうな」
同じことが繰り返されるのならば、その瞬間ラダマンティスは確実に自分の責務を果たす。
あの、闇は。
冥界の秩序を歪ませた小宇宙によって呼び出されたのか。
それとも、自ら迎えに来たのか。
どちらであれ、冥界、否、有りとあらゆる世界、次元において、
あらゆる実存在にとって、眼前にいる男は、破滅を招く敵対者だ。
それが、全く関心のないような顔をして、ぼんやりと立っている。

「もうしないよ、あんなことは」

色の薄い眼差しは手指の先に落ち、静止していた。
ラダマンティスは、黙ってその表情を見据えた。
「というか、出来ない。 俺は疲れた。
正直なところ、こうやって喋ってんのが精一杯だ。 ……言いたくないけどな」
そう言った唇が、微かに笑う。
「で、どうする。 殺っちゃいます? おまえ怒ってんだろ」
その目に情動は淡いまま、波の音が言葉を包み、押し流していった。
ラダマンティスは口を開いた。
「戯言だけの半死人に付き合ってられるか」
デスマスクの言葉を聞き入れたわけではなかった。
ただ、この場で即刻処分する必要性は、感じなかった。

「そうか。 良かった」

その返事が妙に素直なので、ラダマンティスは眉を顰めた。
「何を考えている」
顔を上げたデスマスクは、にっと唇を吊り上げる。
「うーん? 別に、大したことじゃない……。
ただ、やっぱりここは性に合わないなぁと思っただけだよ。 つまんないし、すぐ怒られる」
「貴様は地獄を何だと思っている」
「そういうところがどうしようもねぇなと言ってるんです」
そのままそっくり返したくなることを平気で言い放つデスマスクは、
やはり、どこか楽しそうにラダマンティスを眺めていた。
そして、
「地上に行きたい」
「は?」
「帰る」
ラダマンティスは、地獄の意味をもう一度その正常性を疑わせる脳髄に叩き込んでやろうとして、
ふと、ある考えに気づいた。
デスマスクを見ると、確信的な笑みを浮かべていた。
「まさか、聖戦か?」
「そ。 おまえ達、前から似たようなことやってるだろ」
過去、冥王と女神との聖戦で、亡者が冥府の兵として地上に甦ったことはある。
冥王の戯れにより、その中にはたしかに聖闘士もいた。
だが、黄金聖闘士が冥府の者として再び地上に立ったことは、一度たりとて無い。
それを、デスマスクは自ら口にしている。
「貴様という奴は……ッ 最低の屑だ」
「そういうのって面と向かって言われると、なんか褒められてるみたいだよな」
これまで自分が生きてきた世界全てを裏切ると宣言しながら、
へらりと笑ってみせる。
その顔をラダマンティスは睨み付けた。
「いったい何のつもりだ。 貴様は聖戦にも冥王にも関心がないだろ」
「ここを出たいと思うのは、そんなにおかしな話かな」
「地上ならば貴様は何か変わるのか」
「……ふぅん?」
厳しい顔つきのラダマンティスを、デスマスクは小首を傾げるように眺めた。
いつのまにか、その口許から笑みが薄れていた。
感情の読めない眼差しが、自分の手指に落ちる。

「俺はただ、もう一度あの世界が見たいだけだ。
おまえの言うとおり、冥王が何をしようが女神がどうなろうが、どうでもいい。
けれど、もしも聖戦に決着がついて、あの世界が終わるなら……俺はそれを見てみたい」

手の傷は、塞がっていた。
指全体にあった骨まで覗かせる裂傷は、赤い痕に変わっている。
しかし、爪は無いままだった。
何故その爪は


「……貴様は、」

一瞬口にしかけた曖昧な言葉を、ラダマンティスは捨てた。
あやふやなのだ、目の前にいる男については、全て。


「……貴様のような奴を聖戦に加えるなど、俺は認めん」
「そこらへんをどうするかの相談を、これからおまえはしに行くんだろ? ジュデッカに」

にっと唇を吊り上げる。
たったそれだけで、表情は呆れるほど鮮やかに変わる。

「何故俺が」
「心配すんな。 もちろん俺もついてくよ」
「莫迦か貴様はッ」
「おねがい!」
「役立たずの屑は冥王軍にいらん」
「要はどう使うかだろ? 別に主力に混ぜろと言ってるわけじゃない。
どうせ使い捨ての駒だ。 それなりの使い方があるよな。
向こうにとっては、おまえ達よりも嫌な相手だと思うよー?
自分の手の内知られてるんだ。 やりにくい」
言っていることは寧ろ妥当で、頷けるのだが、
話をしている人間が人間なので、ラダマンティスは顔を顰めた。
「そうじゃなくても……色々知ってる人間を相手にするのは、都合が悪いもんだ。
あの聖域にとって、一番敵にしたくない人間ってのは、どういう奴だと思う?
あそこはな、昔からガチガチの官僚制なんだよ。 上には逆らえない」
「黄金聖闘士だったからこそ、貴様に利用価値があると言いたいのか」
「いや、俺じゃない。
今この冥界にいるだろ? 黄金聖闘士よりも上にいたのが。
前の聖戦を経験してるのに13年前にやっと死んだ、妖怪教皇。
あの人なら、俺の話に乗るね。 未練だけで二百年以上生きてた人だ」

滑らかに言葉を並べていくデスマスクが、ラダマンティスの目を真っ直ぐに見た。

「二人ぐらいなら……そう問題にならないんじゃないの?」
「俺が承知すると思うか」
「いや、おまえはしない。 けど、ハーデスはどうだろうな」

ん? と目を覗き込むように言う。
ラダマンティスは苦々しい表情でそれを睨んだ。
嫌な予感がしていた。
予感は徐々に確信に変わる。
冥王ならば、デスマスクの提案を、是とするだろう。
神代から女神の子飼いである黄金聖闘士同士をその聖域で殺し合わせるなど、
冥王にとってはまたとない見物だ。

「今度の聖戦は楽しくなりそうだな、ラダマンティス」
「俺は少しも楽しくない」
「ん? どうして機嫌悪いの?」
「貴様のせいだろうがッ」

けらけらと楽しそうにデスマスクは笑う。
こんな時にそれはどこか子供のようで、ラダマンティスは呆れた。
不思議になる。
その矛盾に満ちた不可解な精神構造は今、何故こんな笑みを浮かべるのか。

「楽しいから 貴様は笑うのか」

言った後で、おかしなことを口にしたと思った。
薄い色の目が瞬きをした。
まるで自分の方こそ不思議なものを見ているように。

「楽しいよ?」

ラダマンティスは答えなかった。
難しい顔のまま足を進め、腕が届くほどの近さで見下ろす。
デスマスクはその顔を暫く思案するように眺め、
頷いた。

「……うん、どちらかといえば、楽しいな、今」


分からない、と思った。
ちぐはぐで、あやふやな こんな男が、自分の前にいることが。
その柔らかく凍えたような、冴えた銀の目を見て、
何故かそれを許した自分の曖昧さが

理解出来ない。






「……少しでもふざけた行動を見せれば、その場で処分するからな」
「え? なんで俺の考え分かったの !?」
「阿呆がッ」


































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おつかれさまでした。

……蟹は別にイザナミを召喚したわけじゃないと思います、流石に。
ただ、ハーデスが冥界を創る以前から存在する、何だかよく分からんもの、とか。
要は、ハーデスの冥界と積尸気冥界波の『冥界』は、全く別系統でもいいじゃないという話でした。




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