「愚か者が……ッ」

罵る声の、その憎悪。
血色に変わった双眸の嚇怒に、心臓は押し潰されて、
今はただ、子供のすすり泣きのように、震えながら、
激昂する人を見上げている。








まずい。




あれ。


まずいって、何が?



そう思った瞬間は、曇った視界のどこかに滲んだ。
暗い。
腕も足も、重苦しい薄闇に散らばって、溶けてしまった。
ただ何より確かなものは、首に食い込む指の強さ。
締め上げるその両腕が、曖昧な意識を穿ち、抉り、身を竦ませる。
じき、骨が砕け、気管を潰されるだろう。
確信。
冷たい刃を押し込まれていくような。


けれど、まずくはない。


憎しみにひび割れた声を聞いた。
境界を失った身体の、ありとあらゆる細胞にまで、こんなにも響く声だ。
朱に染まった目を見上げた。
血の中に綺麗な青が浮かんでいた。
いつまでも変わらなかった、深く澄み渡る青色だ。

その声を聞きたかった。
その目を見ていたかった。

もしかしたら、そうなのかもしれない。
一瞬、一瞬の苦しみは、なにか陶然としていて、
竦んだ心臓の震えは、歓喜のそれに良く似ている。
この戦慄。

この地獄が、どうかいつまでも終わらぬよう、祈った。
















けれど、そういえば。
祈りが叶えられたことなどない。


目を覚ませば全ては消え、光はどこまでも明瞭で。

それが、とても。


とても。








































「と、いうことがあったんだ」

いつになく真剣な面持ちでデスマスクが話すのを、
いつにもまして不機嫌な顔でシュラは眺めていた。
磨羯宮の一室。
勅命明けの休日を、のんびり過ごそうとしていた守護者が、
何ともいえず不愉快になっているのは、突然現れた悪友のせいだった。
デスマスクは身体をソファに沈め、哀れっぽく声を揺らす。
「どうしよう、シュラ」
「知るか」
「俺ってマゾなのかもしれない」
「帰れ。目障りだ。そういうのはアフロディーテに診てもらえ」
「悪化させられたらどーすんだよ! あいつなら嬉々としてやるぞッ」
床をだんと踏み鳴らす。
けれどその足も、力を失い投げ出される。
「シュラぁ、こんなこと聞けんのおまえしかいないんだよー。俺ともだちいない!」
仕様もない要求をぶつけてくる付き合いだけは無駄に長い知人に、シュラは、
さて何と言ってやろうかと暫く考えたが、最終的にそれすら面倒になり、
読みかけの本に視線を戻した。
その正面で、ぐんにゃりした悪友がまた喚き出す。
「薄情者! こんなに悩んでいる友人を前にしてその態度は何だ! 反省しろッ」
いい加減煩わしく、シュラは冷淡に問い掛けた。
「それで、何をしてそこまで怒らせた」
「んー? うん」
途端、悩める友は静かになる。
「……あの人に、報告してなかったことがあったわけよ。だって大した話じゃなかったしねえ」
片腕がもの言うように持ち上がり、しかし、ただその目を隠す。
「そしたらやっぱり、怒られた」
肩を小刻みに震わせ、デスマスクは背凭れを横に滑り落ちる。
「だから、さ。シュラ」
笑っていた。
「苦虫を噛み潰した顔ってのは、おまえのためにある言葉なんだよ」
シュラは溜息をつき、本を置いて立ち上がる。
「で、どこを斬ってほしいんだ」
「てめ、何斬るつもりだ。
もー、シュラくんてばホント、人の話聞いてねえな。
そういう外科のお話じゃないだろー? ただちょっと、手を貸せって言ってるんだ」
ソファに横になり、午睡でもするようなデスマスクの傍に立ち、シュラは見下ろした。
変色した指の痕が襟の下にまであった。
「おまえ、首が気持ち悪い」
「面と向かって言うな。傷つくだろ」
「おまえは昔から変態でマゾだ」
「ひどッ」
それでも、デスマスクが笑ってせがむので、シュラはぞんざいに腕を伸ばし、
その首を鷲掴みにしてやった。

ほんの小さく呻いた。
デスマスクは思案するように目を閉じて、首に絡んだ指の感覚をただ求める。
なんか、ちがう。
唇がそう動くのを、シュラは見た。
デスマスクの手がシュラの腕を掴む。
それは、制止と逆の意図があるのだろう。
ねだる指は手首に重なり、唇はまた動いて、短い言葉を囁く。
シュラは目を細めた。
そして、首を掴む両の腕に、力を。

デスマスクの目が見開く。
シュラの手の中で喘ぎ、逃げようとする。
それを難なく押えつけ、シュラは掌の小宇宙で、痛んだ喉と気管を癒し続けた。
デスマスクはシュラを睨む。
呼吸の度に苛んでいた鈍痛が消えていく。
なにか愛しくすらあったものが、奪われていく。
「治せなんて言ってないだろ」
声にはっきり浮かんだ苛立ちを、シュラは笑う。
「人選間違えた。おまえに言うんじゃなかった」
「俺しかいないんだろ」
「調子に乗んなよ、真性サディスト」
首を掴むその手は撫でるように、ただ優しい。
「いつだってそうやって、ちっとも俺の好きにさせてくれねえ。
いっつも俺の好きと逆のことしかやらねー。そういうとこ、ホント嫌い」
悪態をつく顔を、シュラは平然と見下ろす。
全く、愚にもつかないことしか言わない唇なので、
これ以上愛想が尽きる前に黙らせた。
聞きたいのは、もっと違う声だ。

触れて離れた唇の隙間。
小さな諦めの吐息。
「……あと、人の話全然聞いてねーとこな」
シュラの手は首を放す。
そこに黒ずんだ痕はもう無かった。
消された指の名残をなぞるように、デスマスクの指が這う。
その手をシュラは外し、唇を寄せた。
新たに痕を残されるのを感じながら、デスマスクは片腕をだらりと床に投げる。
「なぁ、センセ」
「誰がだ」
「結局、俺はどうなんだろうね」
「……回復の見込みは、あるんじゃないのか」
くっ、とデスマスクは笑った。
「手遅れって言われると思った」
「そう言おうとして、止めたんだ」
笑みが薄れていく。
熱のない瞳の、濡れた色の下。
そこに誰の影があるのか、シュラは知っている。
「デス」
だから名前を呼んで、教えてやる。
今、目の前にいて、身体を触れ合っているのは誰なのか。
それすら見失う、悲しいほど頑愚な悪友のために、もう一度、名を呼ぶ。
デスマスクは、少し困ったようにシュラを見上げ、
その薄い唇に口付けした。


























陶酔と。真逆の苦痛。

手繰り寄せて、酩酊。











































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マゾなのではなく、正解は、『サガなら何でもいい』でした。



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