呼吸、無し。
心拍、無し。
見事に心肺停止。
死体が一つそこにある。
巨蟹宮の主は困った風に首を傾げた。
さて、この屍をいったいどうすればいいのか。
壁やら床やらに死人の顔が無数に浮かび上がる巨蟹宮。
苦悶の呻き、呪詛、すすり泣く声が満ち溢れ、常人なら30分で発狂する場所だが、
死体はナマモノだから、それはそれ、別問題だ。
と、少なくともデスマスクは信じている。
だから、思案する。
それは人殺しの一瞬よりもはるかに真摯な熟考だ。
知らぬ奴ではないし、せめて聖闘士の墓場に葬りに行こうか。
ああ、けれど。
もうじき客が来るかもしれない。
今この宮を空けて、客に素通りさせてしまっては悪い。
もう一人ぐらい来るのを待とうか。
それとも、この死体。
魂と同じ場所へと送ってやろうか。
小首を傾げるデスマスクは悠長な溜息をつく。
その時、懐かしい小宇宙の気配がした。
それは六つ上の宮にいる悪友だった。
" デス "
「なーにー? シュラくん。今忙しい」
" 戦況はどうだ "
「んー、双児宮でまだ二人ぐるぐる。
獅子宮には一人通した。リアの魔皇拳解いてくれないかなー、あの小僧。
隣近所が物騒だとストレスたまるのよ」
" おまえは "
「一人、さっき」
" 積尸気冥界波か? "
「うん」
" よし、戻せ "
「ハイ?」
" だから、魂を積尸気から戻してやれと言っている
"
「なーんでそんなめんどいコトしなきゃなんねーの」
"バカかおまえは。ついに引き算まで出来なくなったか。
いいか? 青銅の小僧は四人だ。
たった四人しかいないのに巨蟹宮のおまえが一人確実に減らしてどうする!
双児宮の二人はいつ抜け出せるか分からんし、獅子宮は、無理だ
"
「言い切るね、キミ」
" とにかく、このままでは獅子宮より先に一人も進めんことになる。
そんなことになったら、俺が詰まらんッ
"
" シュラはまだいい、私は一番最後なんだぞ!
"
「アフロディーテもかよ。君ら知ってるか、俺一応まだ臨戦態勢中なんですけど」
" 折角開発したのに試す機会のなかった薔薇があるのだ。
是非とも今日こそ使ってやりたい。
ということで、私のところまで一人進ませてくれ
"
" ふん、甘いなアフロディーテ。磨羯宮にはこのシュラがいる。
俺が自分の後ろに奴等を行かせると思うか? 全て残らず斬り捨てさせてもらおう
"
" な! 一人一殺の約束だ! それでは話が違うぞッ
"
" その取り決めをした教皇自身が破っている。知らんな、そんなものは。
恨むなら双魚宮を任されたその運命を恨め
"
" 聖闘士同士の殺し合いなど滅多にさせてくれぬから、楽しみにしていたが……。
考えてみれば、来るかどうか分からぬ者を待つより、もっと確実な人間がいたな。
なあ、シュラ? "
" ほう? おまえの手の内は知ってるぞ。それでも来るか?
"
" 君が御自慢の聖剣を振るう前に、君は薔薇の中で息絶えるだろう
"
" 面白い…… "
「はいはい、喧嘩はナシよ。つか話に置いてかれるともうすげー寂しい。
そして頭の悪い諸兄。君達は大事なことを忘れている。
おまえらよりずっと前の巨蟹宮に、俺がいる!
もしも双児宮からあと二人が上ってきたとしても、ううーん、先には進ませねぇな?
というわけで、俺様独り勝ち!!」
" その素っ首からまず叩き落してやろうッ
"
" どの薔薇がいい。君に選ばせてやろう
"
「あん? 来んのか? いいぜー、二人とも来いよ。
俺の宮に入った瞬間に黄泉比良坂の真上まで飛ばしてやる!
……あ、ちょっとタンマ」
+++++++ 暫くお待ち下さい +++++++
「……あー、びっくりした」
" どうした "
「死んだ奴が生き返った。驚いて思わずもう一回積尸気冥界波打っちまった。
まったく非常識もいいところだな」
" 非常識なのは君の方だ! 何故そのまま通してやらん。せっかく蘇ってくれたのに……
"
「だってびっくりしたんだもん」
" だって言うな、使えん奴め。
折角ムウが空気を読み、アルデバランも馬鹿正直に譲ってくれたのに、どうしてくれる!"
「なんで俺ばっかり怒られなきゃなんねーんだよ。同じ技二度も食らう人間の方が悪いだろ!」
" ふう…… "
" 大人げない…… "
「あ、イタタタ。それ痛ッ 前にも言われたその台詞二度も聞きたくない。おまえら死ね」
デスマスクは大儀そうに首を鳴らす。
仕方ねぇな、と呟くその身体が底冷えするような小宇宙に包まれた。
「三度目の正直を、積尸気まで見に行ってやるよ。
黄泉比良坂に俺も同じように立ってやろう。それなら少しは面白いだろ?」
" ふむ、まあ譲歩してやろう。健闘を祈ると彼に伝えてくれ
"
" 先はまだまだ長いからな、死に物狂いになれと教えてやれ
"
「はいよ、あれ? もう死んでる?」
" さっさと行けッ "
1時間後、磨羯宮の主は自宮で膝をつき、肩を震わせていた。
" シュラ "
「アフロディーテ、俺はこのまま駄目になるかもしれん……」
" シュラ、気持ちは分かるが気を確かに持て。
君にそのまま笑い死されたら間違いなく私も後を追ってしまう
"
シュラは苦しげに息を吸い込み、また笑った。
「いや、しかしあれは……やはり期待以上に……面白い。まさかここまでとはな。
自分の守護すべき領土である積尸気で討たれるというのが、実に良い。
誉めてやれないのが残念だ」
" 彼はああ見えて人恋しがる性質だからな。君を呼ぶかもしれない
"
「あれが呼ぶなら行ってやろう」
" 君は時折、浪漫主義者のようなことを言う
"
「事実そう思うのだから仕方がない。……まあ、しかし、な」
双眸を刃のように細め、シュラは笑う。
命を奪い奪われる一瞬を待ち焦がれ、いっそ甘やかな焦燥が壮烈な精神を震わす。
「早く顔が見てみたい、早く俺のところまで来ると良い」
" 楽しみにしていよう、私も "
そして日は暮れた。
赤く身を焦がすような地平線。
訪れた紺青の夜空は神の祝福のように美しい。
その空に一際大きな星が煌いた。
見る間に雲を超え、天高く昇ってゆく。
アフロディーテは双魚宮からそれを見上げていた。
「星になったか……ロマンというよりメルヘンだな。顔に似合わん奴め」
薔薇の花弁に似た唇が、快活な笑い声を上げる。
その眼差しは宝瓶宮へと転ずる
「カミュも我々の機微というものを知っている。期待に背くようなことはあるまい。
そして無論、私もな。望まれているのならば見事応えてやろう」
アフロディーテは大空を仰いだ。
凛と謳い上げるその口上。
「天の神々よ、照覧あれ。
我等畸形の死に様、所望ならば心行くまで堪能せよ。
だが生来の愚物ゆえ、たとえ冥府に墜されるともこの本性、決して変わらん。
いつか再びその喉笛を食い千切りに参ること、とくと御承知あれ」
高らかに笑い、アフロディーテは近付きつつある二つの小宇宙を待った。
光宿す翠色の瞳は落日の中でなお輝いていた。
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悪役というポジションをとことん楽しんでみましょうの会。
の、はずが既に何か違う話になってる……ッ
巨蟹宮での頭の悪いやりとりが書きたかっただけです、ハイ。
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