その空に晴れ間は無い。
暗雲はどこまでも重く垂れ込め、暗い風の音を寂しげに歌う。
その大地に花は無い。水も無い。
そそり立つ岩山、深々と刻まれた地割れ、果てしない岩の荒野。
ただ、数えるほどの灯火が。
一つ、二つ、置き去りにされたまま、ゆらりゆらりと、青く。
後は無数の黒い影ばかり。
薄闇を彷徨い、何処かに消えていく。

その世界を眺めていたのは、いつもたった一人だった。
峻峰の上に陽炎が立っている。
淡い黄金の炎に包まれて、世界を見下ろす子供がいる。
何をするでもなく立ち尽くし、黒蟻の行列を遠く見渡しながら、独りでいる。
しかし、今日は、
「こんな場所にわざわざ御足労くださって、ありがとうございます」
隣に立つ、仮面の人。
黒い法衣は荒涼とした大地にそびえる影のようだ。
その姿は、聖域を長年守り続けた、老教皇。
「良い。この場は?」
「名前を必要となさるのならば "積尸気"とでも」
少年は、幼い頃より育んでくれたその人に、慇懃な口を利く。
「地の底や海の果て、雲の上、星の彼方に在るとも言われた、終極の世界ですよ」
仮面の人は、亡者の群を遥かに見下ろす。
その冷たい鋼の横顔を、隠された瞳を、子供はじっと見詰めていた。

「……少し、歩きましょうか」
いつのまにか、二人は岩の荒野に立っていた。
黒い人影が列をなして傍らを通り過ぎていく。
彼らを見下ろしていた峻峰は、もうどこにあったのか分からない。
「時間も、空間も、あまり意味がないというか……存在が無いんですよ、ここには」
列の一つに加わって二人も歩き出す。
「何も無い」
もしも神がいたのなら。
暗雲の遥か上から俯瞰したのなら、この世界は、まるで大海に浮かぶ孤島のように思えただろう。
無明の闇を漂い、まどろむ小さな小さな欠片。
それが子供の世界。
生憎と、そこに神は存在しなかったが。
「ただ、終わっているんです」
小さな背は少しだけ先を歩く。
身に纏った黄金の、冷たい炎は闇路に揺れる灯火となり、導く。
「あれは」
仮面の男は行く手に、巨大な岩山を見た。
黒い列は上を目指して登っていく。
「あれが、この世界の終わり」
「終わりの終わりか」
男が微かに笑ったのを、子供は肩越しに一瞥する。
「あの先は?」
「……さあ。
きっと望みの場所へ。皆あそこへ行き、誰も戻っては来ませんから」
「おまえはここで何をしている」
「私は送るだけですよ。ちょうど昨日も、こんな風に」
「昨日」
「ずっと呼ばれていたんです。けれど声が小さくて、誰なのかも分からなかった。
昨日やっと見つけました。それで、こうやって話をしながら、あの場所まで行き、見送りました。
でも、おかしなことがあるんです」
「どうした」
「その人のことは良く知っているつもりなんですけどね……無かったんですよ。
あの人が持っているはずのものが、無かった」
「それは」
二人は足を止め、互いを見据えた。
鋼の面に表情は無い。
それを見上げる子供の目には、底冷えさせる光があった。

「シオン様を殺して、あの人の仮面を奪ったあんたは、誰」

静かに揺れていた炎が燃え立つ。
闇よりなお暗いその黄金こそデスマスクの小宇宙。
「誰も気づいていない。もうシオン様はいないのに、皆あんたのことを、あの人だと思ってる。
多分ここをやられてるんだ、知らない内に」
こめかみの辺りを指先で叩いてみせた。
しかし仮面は何も語らない。
「けれど、それだけなら俺達まで誤魔化せない。目や耳より、小宇宙のほうに鼻が利くんだ、特に俺は。
それなのに、今こうやって目の前に立っていても、あんたをシオン様としか認識できない。
俺の第七識にまで干渉して、まともに知覚させてないんだろ。けど、もう意味が無い。
だから、そろそろ顔を見せて」
返答は無い。
「……あの人は、あんたのことは何一つ言ってなかった。ただ"任せる"としか俺に言ってくれなかった。
だから俺はあんたをこっちに連れてきた。あんたの魂に、さわった。あんたが誰なのか、俺は知ってる」
沈黙の仮面を睨む、薄氷のような瞳。
凍り付き、張り詰めたそれを、砕いてみたかった男は、嘲笑う。
「……老いぼれが、余計なことをしてくれた」
「じゃあ、あんたは何だ。狂人か」
暗い風が螺旋を描いて吹き荒ぶ。
荒野に立っていた男の背後に、虚無が口を開けた。
足許に広がった、底知れぬ暗黒の深遠。
そこは、先程まで男が見上げていたはずの、巨大な岩山の頂上だった。
死者がひたすらに目指し、そして暗黒へと身を投げる、この世界の終わり。
「言ったろ、意味が無いって」
後一歩。
男が足を引けば、デスマスクが突き落とせば、そのまま奈落の底へと飲み込まれていくだろう。
だが男は嘲笑い続けた。
その手が持ち上がり、顔に指をかける。
「おまえも良く喋る……いいだろう、確かめてみろ」
偽りの仮面を外し、現れたのは、
「そら、狂人の顔だ」
少年の良く知った、けれど見知らぬ人。

その人は、朝日のような髪をしていた。
深く深く澄み渡る青色の目をしていた。
清冽な光がその瞳にあった、かつては。

「どうした、これで満足なのだろう」

今は、艶やかな夜の漆黒が、その髪。
禍々しく笑う血色の双眸。
棒立ちになった少年に腕を伸ばし、引き寄せた、見たことも無い表情。
「さあ言ってみろ、私は誰だ」
デスマスクは何も答えられなかった。
声も無く両目を見開いた子供の顔には怯えがあった。
その首を、男は優しく撫で擦る。
絡み付く長い指は、まるで愛しむように、少しずつ絞まっていく。
「私が誰なのか、おまえは知っているのだろう?」
その時、燐光が男の目を射た。
男の胸にかざされた少年の掌が、青白い鬼火に包まれていく。
小宇宙の高まる気配に男は眉を顰めた。
「あんたの魂は、不安定になってる。今なら塵にすることだって出来るんだ」
気道が狭まり、苦しげなデスマスクは言い放つ。
炯々と光る目から恐怖が消えたわけではなかったが、
もっと痛切なものが胸を突き上げ、力が抜けそうになる足を辛うじて支えていた。
「それが嫌なら答えろ。なんでシオン様を殺した」
沈黙と、代わりに力を増す手。
「ッ……答え、ろよ、バカ野郎……あんたは、何なんだよ!」
膨れ上がった鬼火が蛇のように男の身体を這い上がる。
自分を燃やし尽くそうとする燐炎を、男は平然と眺め、なお手を離さない。
それでもデスマスクは必死に叫ぶ。
激情は、しかし内側から崩されていく。
「あんたは、俺が知っていたのは、どっちなんだ、どっちが本当の……
それとも、全部、嘘なのか」
兄のように慕われていた何者かは、弟のように慈しんでいた子供の絶望を、ただ眺めていた。
デスマスクは歯を食い縛って、泣いた。
「……バカ野郎……」
男を青白い業火が飲み込んだ。
































死者の歩む、静寂の世界。
膝をつき、散々むせる子供は、




「おまえが知らなかっただけで、私は常にそこにあった」

「おまえが気づいていなかっただけで、おまえの目は私を見ていた」

「私は、常におまえの前にいた」




咳き込む度、色のないような髪が小さく震え、涙が滲んで落ちた。
俯いたその髪を掴み、顔を上げさせた男の身体に、鬼火は既に無い。
「何故私を殺さなかった」
ようやく息を整えたデスマスクは、男を睨んだ。
その頬を張られる。
軽く振り抜かれたそれは視界をぐにゃりと歪ませた。
一瞬溶けかけた思考は、男の腕でまた引き戻される。
デスマスクは目を開けた。
そこに血色の双眸があった。
赤い涙で満たされてしまったような両眼に浮かぶ、深く冷たい、青。
その青色を、デスマスクは確かに、知っていた。
「殺すために、私をここに連れてきたのだろう」
もう何も話したくなくて、子供はもがいた。
腕を取られ、肩を押えつけられても、声にならない否を叫んだ。
しかし冷徹な声が告げる。
「粛清もまたおまえの存在意義だということを、知っているのだろう」
少年の喉が細く鳴いた。
瞳が大きく見開かれていく様を、男はじっと見下ろす。
「あれをそう言うのなら……女神は慈悲深い。
たとえ自分に敵する存在であっても、無用の苦痛に苛まれることを是としない。
だから、おまえがある。
女神の代わりに執行される刑は、罪人の生命を根源から否定し、魂そのものを葬り去る。
おまえは、否、おまえだけが、ただ殺戮のためだけにあることを許されている。
何人を屠ろうと、屍の山を幾度築き、幾千の魂をこの暗黒に還そうと、
女神の聖なる名は、おまえの捧げる"死"を全て許し、祝福する。
そして、そうされてきた」
瞬きもせず、デスマスクは男を見上げる。
その目を覆う、砕かれた、傷付けられた感情の渦。
しかし奥底の、もっと暗く深い場所では、何かが底光りしていた。
「知っていたのだろう」
答えは無く、淡い陽炎が揺れた。
身体から溢れ、燃え立つ、光を飲み込む黄金の炎。
それは、この終極の世界そのものだった。
「……だが、この命果てた大地は……」
決して光差さぬ曇天。
死者が彷徨う不毛の大地。
只々、闇は虚無である。
「だから、疑ったな」
男は唇を歪めた。
「あの聖域の中で、おまえが本当は何を考えていたのか、私が知らなかったと思うか」
女神のために存在する、光の神域。
女神を守るために存在する、聖闘士。
その中で、子供は。
「ただ殺すために存在しながら、おまえは、女神こそが至上であると、信じることが出来なかった。
そして、それを疑った時からおまえはもう二度と、女神には救われない。
女神は決しておまえの"救済"には成り得ない。
神の名を捨てたおまえは、徒に死をもたらすただの化け物だ。
朽ち果てるその時まで、おまえにはこの世界しかない」
暗鬱な黄昏の大地に膝を折り、虚空を睨む怪物。
曇りを拭い去ったその目は、最早何も映そうとしなかった。
涙に濡れた頬を、男はそっと撫で、微笑む。
「どうした、まるでガラクタのようだぞ」
新しく零れ落ちた滴。
「嫌か、それは」
優しい指を伝い落ちる涙は止まらない。
「ならば私がおまえを使ってやろう」
男は、言った。
「おまえは私のために殺せ。私の道具として、私のために生きろ。
その目は私だけを見ろ。その腕は私のために血に塗れ、その足は屍を踏み砕いて私に跪け。
おまえが首を垂れる先には、常に私が在ろう」
男の双眸には、血色の慈悲があった。
壊された玩具に触れるように、優しく子供を抱き寄せる。
「私がおまえを救ってやろう」
声を忘れた唇が、小さく震えた。
「女神など、ただ聖戦を繰り返すしか能のない虚ろな偶像。
私はそんなものに地上を委ねるつもりなどない。
下らん争いに明け暮れる神々が、過去一時でも我々に平穏をもたらした日があったか」
静かに諭しながら、抱き締める腕には力がこもっていく。
その目の慈悲は、尽きることない憎悪の色でもあった。
「……私が望むのはこの、人の世の変革だ……何者にも邪魔はさせん。
私は、女神を殺そう」
言葉を失った喉が、声にならない音を洩らす。
戦慄きながら振り上げたその拳は、男へと振り下ろされる。
男は、動かなかった。
「帰路を憂い、行くべき道を誤らぬように」
拳は法衣の肩に落ちていた。
きつく爪を立てて掴む指は、男を咎めるようでもあり、縋りつくようでもあった。
子供はただ声を上げて泣いていた。
溢れて止まない涙に、男は唇を寄せる。


「……私の行くべき道は……」


血色の双眸は閉じられ、一滴の涙を零す。


「赤々と……落陽よりもなお……染め抜かれた焦土に、混沌の刻を……、そして」


再び開かれたその目は、


「そして私は、決して許されてはならない」


狂おしいほどの青色だった。


光が。
暗澹たる薄闇の世界に、白い光輝が生まれていく。
曇天には陽も月も無い。
その人こそが無二の光明。
朝日のような、透き通る金色の髪が、揺れ。翼が広がるように。
「罪には罰を与えねばならない」
頬を涙で濡らすその眼差しは青色の焔。その声の懐かしさ。
子供は茫然と男を見た。
かつて、神の如きと謳われた人が、そこにいた。
「……私が、分かるか」
彼は問う。
子供はその名も呼べぬまま何度も頷いた。
胸を突き上げる有りとあらゆるものが滅茶苦茶な渦となり、言葉にならない。
その人は子供の頭を撫で、微かに唇を綻ばせる。
「心配することはない……もう終わる、全てを終わらせよう」
彼が背にしているのは、暗黒の深淵だった。
「私は、私の罪を、滅ぼさねばならない」
そして、手は離れていった。


その人の中で何が起きたのか。何が間違いだったのか。
デスマスクは知らない。
ただ、その人が "何であるのか" は、分かっていたような気がした。
だから、離れていく手を必死で掴んだ。
己自身を見放し、その運命を二度と戻れぬ奈落に投じようとする人の手を。
けれどもその人は、哀しげに微笑み、
「私はいいから、もう向こう側に帰るんだ……どうすればいいのか、分かるな」
教皇も無く、ジェミニも空位となる聖域を案じ、願うだけだった。

このまま、見送れば、全ては。
きっとあるべきように、終わっていくのだろう。
それがどれほど悲しいことだとしても、いつかは、静かに、静かに、終わっていくのだ。


繋がれていた手が、再び離れ。
子供の喉はか細い声を上げる。
名前を呼ばれても、その人はかぶりを振り、断崖へと向かう。
だから、デスマスクは呼んだ。


 「サガ」


彼の中にいる、漆黒の悪魔を。



































神代から聖域は在り、聖域を治める教皇もまた在り、
その玉座に首を垂れ、誓いを立てた聖闘士は、星のように数多。
彼等と同じように、少年は教皇の坐す玉座の前で膝をつき、不変の言葉を捧げた。



「……御身の進む道に、幾千万の屍を……」




































04 別にほっといてもいいんだけど
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蟹のじーちゃんは老師とシオン様なんです、ここでは。
それなーりに真っ当なお子様時代があってもよくないですかね。





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