走って帰った先は、夜明け。
褪せた三日月、朝露の光。
風に揺れる金色の。



「サガ」

振り返ったその人に、表情を隠す冷たい仮面はなく、
風をはらんだ髪を、青い薄闇の中に躍らせている。
煌びやかな装飾などない、石造りの祭祀場に佇むサガは、
神殿の外から彼を見上げている小さな影に、唇を綻ばせた。
「おかえり」
少年はサガを、彼の後ろで微笑む女神像を、色の薄い瞳で見詰める。
そしてほんの少しだけ、笑った。
「ただいま」


神像が一体あるだけの、古びた神殿。
しかし、教皇の間の奥に位置するこの場所こそ、聖域の中で最も神聖な、重要な神殿である。
女神が輪廻を超え、現世に転生を果たすための、聖なる場。

少年は、他には誰もいないと知りながら、神経を張り巡らせる。
周囲から更に下へ、十二有る星宮を一つ一つ感じ取っていき、
この場に近づこうとする人間がいないことを確かめる。
聖域は、まだ眠りの中にあった。
ようやく少年は安堵し、話を始める。
「ごめん、あと一日早く戻るつもりだったのに、手間取った」
「無事に戻ったのならそれで良い」
サガは少年の動こうとしない足に目をやる。
「どうした」
答えはなく、ただ首が横に振られる。
「……そうか」
少年は、じっと自分の爪先を見ていた。
悠久の時が磨いた石畳。
その先で、数ヶ月前、女神が赤子の姿で降臨した。
夜明けが遠い光を投げかける。
少年のぼやけた影が、神像の傍まで身勝手に伸びていく。
突っ立った足をほんの少し、退いた。
「……静かになっただろう」
サガの眼差しは少年を越え、遥かになる。
陽はゆるゆると暖かくなり、聖域が少しずつ目を覚まし始める。
しかし、あの空気をくすぐるような、生き生きとした小宇宙はもう感じられない。
「アリエス、タウラス、バルゴ、スコーピオン、アクエリアスにはそれぞれ勅命を与えた。
丁度昨日、皆聖域を離れていった。暫くの間は互いに顔を合わせることもないだろう。
そして当分、戻ることはない」
黄金聖衣を継いで、まだ一年も経たない子供達。
その資格も力も備えてはいるが、
「……皆と離れ離れになったことを、心細く思っているはずだ。
偶にでいい、様子を見てやってくれ」
いたいけな心に傷を負ったまま、遠い地に旅立った五人。
「アイオリアは、酷だがやはりこのまま聖域に残す。落ち着くまで、静かに過ごせるようにしたい」
兄を失った弟の心は、傷口を晒すことすら恐れ、閉じこもった。
その瞳を、少年は胸の奥に描く。
会えずに別れたあどけない顔を一つ一つ思い、秘める。
決して心の外へ溢れないように。
「デス、あの二人は」
しかし、近づいてくるその声は、少年を身動ぎさせた。
ゆっくりと顔が上がる。
「……何?」
サガは躊躇った。
だがその僅かな逡巡で充分だったのだ。
子供の両目は見開かれる。
何も浮かべない、一対の鏡になる。
「あの二人にも、聖域から離れるように言ったが、一蹴された」

「シュラには実際に殴られた。アフロディーテも酷く怒っていた。
……私達を見捨てるつもりは無いと言われた」

立ち尽くしていた足が、その言葉から逃げようとする。
よろめきながら見たものは、サガの顔。女神の微笑。褪せた月。

「馬鹿かッ あいつら」

吐き捨てた叫びがそのまま胸を引き裂く。
溢れ出す憎らしい顔。青い顔をした二人。

「見捨てる? 誰を? 自分がどれだけ偉いと思ってんだ!」

何も出来なかったくせに。
何も分からなかったくせに。
嘘を嘘だと知った今でも、怖くて仕方がないくせに。

「邪魔なだけなんだよ、あんな奴ら……」

煩わしくて、目が眩む。
揺らいで、軋んで、駄目になる。

「デス」
「見んなよッ 格好悪いから」

声が歪む。
中身も歪む。
頭の中がぐちゃぐちゃした気持ちの悪い何かになる。
こんな涙を流したいわけじゃない。
痛みを泣き叫んで助けてもらいたいわけじゃない。
あの時、選んだ。もう終わった。
こんな身体なら何度砕かれても構わないと決めた。
それなのに、まだ足りない。またしくじった。あいつらを遠のかせることも出来なかった。
泣きたくなんかない。怯えて脆くなりたくない。
削り落としたい、いらないものが多過ぎる、自由にならない、手放すのが怖い、ああ、こんなものは。

こんな思いどおりにならない心、もういらない。



「すまん」

その言葉を聞かずにすむ、人でなしになりたい。




















サガは、声もなく憤る少年の手を取った。
地を睨むように泣きながら、けれどもその手は小さく握り返される。
「戻ろう」
清らかな朝日が神殿を満たしていく。
光の中で微笑む女神像を、サガはただ一度だけ振り返った。






サガが再びこの場所を訪れたのは、それから13年後だった。































02 謝る必要なんてないでしょ
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蟹はわりと満遍なく大切な人がいてもいい。
でも、だからどうしたのよって状況に自分から落ちていけばいいよ。

山羊は誰に対しても鉄拳制裁で。




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