血の色が赤でなくても構わない。
過去に如何なる罪を犯し、未来に何を為し得るかも意味が無い。
(何が正義であるのか、あの男が決めれば良い)
今、この瞬間に裁かれる、生きとし生ける者全ての罪は、
その脆弱さだ。


断罪の剣を両腕に。
逃げ惑う者達の嘆きを踏み砕き、一切を斬り伏せ、怒号で満たす世界。

 地の果てには、陽炎が立っている









耳鳴りが静まっていく感覚に、シュラは息をついた。
身体の中が凪いでいく。
そのままゆっくりと、鼓動が止まりそうなほど。

見渡せば、立っているのはシュラだけだった。
延々と続く更地は全てが薙ぎ倒され、遥かな地平線に雲がぽかりと浮かんでいる。
視界はすんなりとして、空虚だ。
未だ正気に返らないのは、神経をちりりと焦がす火花のような空気。
罪も、罰も、今は遠く。
大地を覆うのは、おびただしい残骸。
手や脚、臓腑と血液、混じり合った肉色の何物か。
生温い風の中、ただ一人立ち尽くすシュラは、自分の作り上げた世界を眺める。

 いやに白けた晴空 思考の目眩
 陽炎が、揺れている


不意に突き上げた得体の知れぬ嫌悪に、シュラの右腕が振るわれる。
その軌跡は聖なる光刃。 あやまたず大地を裂き、血風を巻き上げる。
しかし。
シュラは奥歯をぎしりと噛み締めた。
凪いだはずの内側が赤黒い憤怒を噴き出す。 また腕を振り下ろす。
逆巻く朱塵を、怒号する世界を斬り裂く、その先。
何を 見た?
神経を這い上る醜悪な情動。 不安 にも似た衝動。
誰を 見た?

揺らいで消えた、亡霊の背







(この世界に存在する唯一の罪悪は、無力であることだ)
(他者に踏み砕かれる者が正義であるはずがない)
(踏み砕き、なお生きる者だけが正義となる)

両腕は断罪の剣。
大地に転がる骸の数々。
だが、シュラは時折、分からなくなる。
正気の時ならば考えに上ることもない、気狂いめいた発想が、
青褪めた顔をして見詰めてくる。 何も言えぬまま射貫かれる。
分からなくなる。
今ここで、こうやって息をしていることは、正しいのか。



あの日、殺しそこねた。
聖域から逃亡した逆賊を討つはずが、仕損じた。
否、その結果は予測出来た。
同じ位階とはいえ、黄金聖衣を賜って日の浅い、未熟な拳で敵う相手ではなかった。
それでも、他の二人より早く追いついた時、彼等を待たずに迷わず拳を向けたのは、
何がしたかったのか。

結局、その人は"叛逆"の経緯など何一つ語らず、深手を負って姿を消し、

「死んだよ」

暗い声で友人が告げた。
シュラは、殺されそこねたことを知った。


真実を問い質しても答えてくれなかった。 だが、それを知ってどうするつもりだったのか。
シュラはもう分からない。 とうに忘れてしまった。
ただ、その人の背中を見送るしか出来なかったシュラは、"悪"だ。

 「死んだよ」

生き残ったはずの人間が、シュラの知らぬところで亡霊となり、
記憶の影だけが心象の暗い淵に佇む。
シュラは、今も断罪の剣を振るう。 そして、これからも。

(この世界に存在する唯一の罪悪は、無力であることだ)

だが、シュラの弱さは、いつ裁かれる。
殺されそこねたまま、いつまで





 振り下ろす 血の色の罪
 ずれていく視界を 塗り潰す 世界が曖昧にならぬよう
 正しい色が無いのなら 赤でも黒でもいい 満たす 溺れるほど
 踏み砕いた骸の地平は 修羅の浄土


















「……あーあァ、丁寧なお仕事で」

下された勅命は確かに"殲滅"だったが。
目の前に現れた世界は、全てが常軌を逸した執拗さで引き裂かれている。
その惨状を、デスマスクは鼻先で笑った。
唇を歪める手馴れた笑み。
けれど、その目が睨むのは、旧友の背。

「おまえさ、バカじゃねェの」


興を殺がれた、と思った。
だが、興とは何だ。
否、それは誰のことだ。
立ち止まり、シュラは考える。 しかし、何も思い浮かばなかった。
聞き慣れた声が、どこか遠くに聞こえる。


「……いいかげんに、さァ」

「もう 止めちまえよ、弱っちいくせに」

「シュラ」


 黄昏に一人、砂の城を作る幼い手
 戯れる指の先に、夜が来る



冷たい風が吹き抜けた。
ずるり、と空気の中が蠢く。 皮膚が粟立つ。
"何"が近づいて来ているのか、シュラはすぐに気づいた。
あ、と口を開きそうになった。 しかし、もう遅いことも分かっていた。
目の前にあった世界が、全て恐ろしい静けさの中に飲み込まれていく。
シュラが壊した世界だ。
断ち割られた大地。 薙ぎ倒された瓦礫。 原型を忘れた肉片。
それらが、終わっていく。
あれほど満ち溢れていたはずなのに、
まるで風化するように、形を解かれ、崩れていく。
土から生まれたものは、土へ。 人の為したものなど灰や塵芥に。 やがて、それすら
消えた。
奪われてしまうのだ、向こう側の世界に。
壊し尽くし作り上げた、残骸の光景。 その"命"が。 或いは魂とでも呼ばれるものが。
突き崩され、奪われ、無に帰す。
何事もなかったように。


一つの光景の、静かな "死" を、シュラは眺めていた。
胸を突くのは 子供じみた感情。
その切なさに、途方に暮れる。

「シュラ」
「黙れ」
「うるせェ喋んな、ムカつく」

振り返れば、その目。
色の無いような両目の、水鏡にも似た底、
光すら飲み込もうとする常闇の深淵が、小さな瞬き一つで閉ざされた。
後にはもう何も残らない。
全ては、過ぎ去った。
残されたシュラはただ、眺めていた。

いやに明るい空の色。 目眩する視界。
地平の果て、陽炎が揺れている。
酷く、寂しいと思った。

「まとも、じゃァないんだよ、おまえ。 ここが」

イカレてる、と自分の頭を指差して言った顔は、笑っていた。
その腕を掴んで引き寄せる。
存外呆気なく体勢を崩せば、嘲る声は大地に吐き捨てられる。

「……使えねェ子は聖域にいりません」

その顔を上げさせると、指の跡が赤い影のように伸びた。
ついでだ。 汚れた両手で頬を挟む。 色ぐらい少しは残ればいい。
目は、ただ薄く光るだけだ。

「どっか行っちゃえよ、シュラ」

眼球を小揺るぎもさせずに嘲笑う、その顔、声、表に出す全てを、
いつからか全く信用出来なくなっていた。
頬を包んだ掌の下、皮膚が動き、表情を作る。 唇の間から ちらりと舌が覗く。
真実も、偽りも、同じ塵芥であるように笑う。

あの日は、暗い目をしていた。

眩むほど間近にその目の底を睨む。
薄い光が反射ばかりして何も見えない。
唇が小さく動こうとした。
言葉を吐く前に舌を割り込ませた。 顎を押さえ、奥へ。
深く絡め合う、代償行為。
本当は。 噛み千切って、奥歯で砕いて咀嚼したかったのは、もっと奥。
臓腑よりも、深く暗い、滴るように熱い何かが、欲しかった。
求めても仕方のないものをねだる、子供のように。


「……全部は、やれねェな」
「駄目か」
「半分ぐらいなら、いいけど」

舌の上、濡れて混ざり合う言葉。
上手に嘘をつくのは、勘が良いせいだ。
聖域で初めて会った頃から、余計なことを言う必要がなかった。 楽だった。
今も、当たり前のように悟って、そんなことを言う。
それでも、硝子色の目には、何の熱も浮かばない。
もう二度と、何も明かさない。
それは、誰の罪か。


「ごめんな、シュラ」





























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『ペイルライダー 青』『悪食』に引き続きまして、
なんとなく互いの勅命を眺めてる山羊と蟹。
お互いに「こいつだけはどーしようもねェ!」と思ってるといい。
そして教皇様はきっと「おまえら真面目に仕事しろ」と思ってるよ。

目に悪い色ですいません。

(07/09/15)

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