朝露を含んで風が透る。
なだらかに起き伏す丘陵地帯は、六月の緑で輝くばかりだ。
草の下にいた小鳥達が一斉に飛び立ち、澄んだ声を青空に歌う。
見渡す一帯は、色鮮やかな生の息吹。


粉砂糖のついた指を丁寧に拭って、ナプキンを紙袋に捨てる。
飲み終えたコーヒーのパックもクシャリと潰して同様に。
そして、手をつけてなかったミネラルウォーターのボトルを開ける。
一口飲んで、シュラはまた遠くを見遣る。
細い道を一台で塞ぐように車を止めているが、通りかかる車も人もない。
静かな朝だった。
ボンネットに腰掛けたシュラは、風景を構成する一色に過ぎぬような顔で、
美しい初夏の緑に取り巻かれている。
だが、その目に映しているものは、違った。
先程までそこに在り、そして消え去った光景がある。

「それで、君はいつからそうしているんだ」

唐突に声がした。
シュラは驚くでもなく、そちらに目をやる。
清冽な光の中、いつのまにかそこに旧友が立っていた。

「……初めからだ」

それだけ答え、シュラは言外に問い返す。
前触れなく突然出現したアフロディーテは、しかし、元々この風景の住人であったように佇み、
シュラの眺めていた方角を、その翠玉の双眸で見つめている。

「なるほど、良く見渡せる」

美神の名を持つ麗人は、その実、まるで食えない男だと
シュラは長い付き合いから知っている。

「会ったのか」
「いや? 会ったというより擦れ違ったと言った方が正しい。 私はこれから、仕事だ」

胡乱げな問いかけに、美貌の人は微笑む。
そして、

「珍しく彼が怒っていたのでね、私も来ることにしたんだ」

シュラはただ、ああと頷いた。
二人の見つめる先は、六月の緑。 僅かな間に消え去った殺戮の光景。

人と、人でないものが、この場所に追い立てられ、
待ち構えていた"死"に飲み込まれた。
ただ一人の下す勅命によって執行された殺戮は、殺戮でありながら、
声もなく、音にもならず、光も色もなく。
まるで、定めし運命の秩序だったかのように、命は奪われ、全てが無に帰し。
後はただ、朝露の風。

シュラは、最後まで見ていた。
"死"は友人と同じ顔をしていた。

「……あれを見られることを、彼は嫌うよ」

それは、シュラが簡単な朝食が済ませる間に終わり、
周囲の牧歌的な風景を何ら脅かすこともなく、消え去った。
その静かな殺戮を見るたびに、不思議に思う。
風も、雲も騒がず、世界はまるで、予め知っていたようなのだ、それを。
その"死"を、初めから受け容れていたような、静けさ。
全て予定調和であるように。
シュラの世界では、こうはいかない。


「分かっていたんだな」

アフロディーテは柳眉を微かに上げ、黙したままの旧友を見る。
それから、ふわりと表情を解いた。
表れたのは、限りない親愛と敬意をこめた、皮肉な笑み。

「知らないよ」


シュラは口の端を僅かに上げた。
ある種の憧憬は自覚していた。
だが、或いはそれは、真逆の感情だったのかもしれない。



「どうでもいいが、君、頬に何かつけてるよ」

























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この場にいないお友達の噂話。
山羊は、ちくっとしたいじわるぐらい許されると思ってる。


(07/09/02)

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