『残暑』
頭の上、底抜けの青は轟々と鳴る。
遥かに高く天を走る風は、八月のうだるような熱気を引き従えて、
どこか遠くの海へと行くらしい。
屋上は、むしむしする教室に比べればずっと涼しかったが、
「暑ぃー」
秀人が思わず呟いたのは、晩夏の日差しのせいだろう。
遮るものがない屋上を、太陽は真っ直ぐに見下ろしている。
それでも、シャツのボタンを二つ三つ外してはたはたさせていれば、
汗ばんだ身体から熱は大分引いていく。
空を轟き渡る風の音は、既に秋のそれに似ていた。
そんな八月も終わりに近づいたこの日、秀人は学校にいた。
補習のためだ。
夏前に出席日数の足りてない教科が二つあったからだが、
夏季補習といっても、適当に授業を聞いていればいいだけなのだから、
ありがたい学校だ。
秀人は今日一つ目の補習を終え、昼飯を食べようと屋上に出たところだった。
缶コーヒーを片手に、何気なくフェンスの下の景色を眺める。
校庭に人影はない。
しかしその先に目をやると、珍しいものがいた。
珍しいとはいっても確かに朝、秀人の部屋でその顔は見たのだけれど、
昼の日向、しかも残暑の太陽の下を歩いているのは、見たことがない。
校門の前の道を歩いていくその姿を見下ろし、秀人は首を傾げた。
不意にそれが足を止める。
顔を上げ、首を巡らせ、そして秀人がいる屋上を仰ぐ。
目が合うには、少し距離が在り過ぎた。
それでも秀人は、その瞳の色を見たような気がした。
何やってんだ、あいつ。
校門の傍に立ち止まったのは、緋咲だった。
一旦止まった足がまた動き出す。
今度は校舎の方に向かって。
校庭を横切り、段々と近づいてくる緋咲は、
何故か凄まじく機嫌が悪そうだった。
「暑ぃ」
秀人の顔を見た瞬間、緋咲はさも嫌そうに吐き捨てた。
汗で貼り付く前髪を掻き上げれば、硬質の双眸に映りこむ青空は、
不思議な冷たさを孕む。
そして柳眉を顰め、秀人を睨んだ。
「暑ぃ」
まるで元凶が秀人であるような口振りだ。
「俺が知るか」
「うるさい」
不機嫌なその声は、聞く者を黙らせるには充分だろうが、
秀人は生憎、慣れていた。
「だったら部屋ん中にでも引っ込んでろ。何こんなとこでふらふらしてやがる」
「てめぇの阿呆面が見たくてふらふらしてたんじゃねーよ、バカ」
それすら億劫そうに緋咲は悪態をつく。
残暑の熱気に心底うんざりしたらしく、シャツのボタンに指を引っ掛け、外していく。
「さっき、起きたら」
「まだ寝てたのか」
「うるせぇ、俺は、朝は無理なんだよ」
朝、と言いつつ時刻はすでに昼だったが、
そこを指摘すると更に機嫌が悪くなるのだろう。
秀人は缶コーヒーを飲みながら話の続きを聞いた。
緋咲は、要は遅過ぎる朝飯を食いに行こうとしていた途中らしい。
話の合間ごとに秀人への悪態を忘れないため、
たったそれだけのことが伝わるために暫くかかった。
「……そしたら、秀人クンの阿呆面が見えたから、来てやった」
傲然と言い放つ緋咲は、もうすっかりボタンを外している。
屋上を吹き抜ける風の涼しさに、緋咲はようやく息をつく。
肘のすぐ上あたりまでシャツがずり落ちていた。
「俺は来てくださいなんて頼んでねーぞ。だいたい、今日は補習ってこと朝に言っただろ?」
「覚えてない」
平気な顔で、寝惚けていて聞いてなかったと答える。
そんなことだろうと秀人は思っていた。
普通、緋咲が使い物になるには、あと数時間かかる。
寝起きの機嫌悪さと残暑に、緋咲は気怠く口を開く。
「めし食い行こうぜ」
「あ?」
「だから、めし。誘ってやってんだろ」
「おまえな……」
秀人は眉根を寄せ、飲み終えたコーヒー缶をゴミ箱に投げ入れた。
「誘うんだったらもっと言い方あんだろ」
「てめえなんかに何で俺が気使わなきゃなんねーんだよ」
緋咲は眩しそうに目を細め、フェンスに近寄った。
風がその傍らを駆け抜ける。
しどけなく剥き出しになった白い肩は、ほんの少しだけ血の温度を上げていた。
けれど、それがもっと艶かしく色づくときを、秀人は知っている。
「誘ってくれるだけありがたいと思おうな?
秀人クン」
さらりと言ってのけた唇に、傲然とした微笑を浮かべ、
緋咲は秀人の顔を覗きこむ。
「怒んなよ、秀人クン。 おごってやるからさー」
漆黒の双眸にちらつき始めた剣呑な光を満足そうに眺め、緋咲は煙草を取り出す。
「緋咲」
「んー?」
一瞬に秀人の手が動き、煙草はその指に収まっている。
「おまえもう帰れ」
「だからメシって言ってんだろ。さっさとそれ返せ」
「俺はあと一つ補習あんだよ」
秀人は、緋咲の肩に腕を回して引き寄せた。
悪態をつこうとする唇に煙草を銜えさせ、火もつけてやる。
そして諭すように吐いた台詞は
「だから、寝惚けた奴の戯言に付き合ってやれねーの。わかるか?」
小馬鹿にしていた。
途端に、緋咲の目つきが鋭くなる。
もともと低い感情の沸点は、秀人のせいで容易く揺らぐ。
きゅうと細められた双眸が、冷たいものを浮かべて秀人を睨み、
長い指で煙草を摘むと、緋咲は細く紫煙を吐いた。
たゆたうそれは風に遊ぶ。
あからさまな溜息が、秀人の耳に届いた。
「てめえの補習と俺の朝飯、どっちが重要だと思ってんだ」
傲慢に、不遜に、言い切るその態度が、あんまり鮮やかで
秀人はどうしてか、笑いたくなった。
訝しげに緋咲が覗きこんでくる。
そのうなじに手をかけ、秀人は間近に囁いた。
「補習」
緋咲は、面白いくらい素直に柳眉を逆立てる。
「てめえ……」
「けど、何食わしてくれるかによる」
「……知るかッ、てめえなんか」
「あれ?おごってくれんじゃねーの?」
凄まじく嫌そうに緋咲は顔を顰めた。
それでも秀人の言葉をはねつけないのは、これで意外と律儀なところがあるからだ。
だから秀人は尚笑えてくる。
「……で? 何食わせてくれんだ」
緋咲は忌々しげに秀人を睨んでいたが、やがてその手を邪険に払い除ける。
そして眉を顰めたまま、言った。
「秋刀魚」
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たぶん、『ごはん一人で食べるのいや派』なんだと思います。
さんま、うまいっすね。
だからきっとこの話は最終的に、さんま>補習になるんだと思います。
詳しく言うと、さんま(緋咲さんと一緒)>補習。
この()内が重要。
碧雲さんからいただいたイラストがあんまり素敵だったので、こんなものを書いて見ました。
元となった碧雲さんのイラストはこちら→!
もう戻ろうかな。