『ステルス』






白い部屋。


白百合 白薔薇 白菊

白い影揺れて 花の香溶けだす。

甘やかなそれは脳味噌をゆるゆると侵食して
睡魔の囁く目蓋に幻影をちらつかせる。

天鵞絨のような赤 凍りついた月光のような青……
その部屋は満たされている とりどりの色彩に。
花は楚々として影を震わせ 濃厚な香の溜息をつく。

撫子桔梗胡蝶蘭
シクラメンデルフィニウムガーベラテトラカスミソウカサブランカ……


いい加減にしろ。


緋咲は命綱とも言える最後の煙草に火をつけた。
肺まで深く吸いこむ。
そして細く吐き出した紫煙は、部屋に満ち溢れていた花の香に易々と飲まれていった。
ベッドに横になっていた緋咲はうんざりと視線を上げる。
うたた寝をして少し赤くなった目に、嫌でも映るそれは
むせかえるような甘い香の 花の洪水。
悪夢も華やかに染め抜くようなとりどりの色彩。
…いい加減にしろ。
そこは確かに病室のはずだった。
いや、彼がその病室に入って一日の間は、
何か不自由のあるわけでもない至って普通の病室だった。
が、今となっては
あらゆる置けそうなところ全て花器と花に占領されているという異様な光景に変わっていた。
何故か、どうしてか、口裏でも合わせているのか、
緋咲のところに見舞いに来る人間は全員、決まって、絶対に、
花を持ってきた。
一人一人の持ってくる花はささやかなものだ。
しかしたとえ小さな花一つでも彩りを重ね本数を増やせば立派な花束になるように。
緋咲の病室が夢に出るほど花で埋もれるまでに時間はかからなかった。
確かに殺風景な病室に彩りは必要かもしれない。
あの病院独特の匂いよりは花の香の方がいいかもしれない。
が、
全て何事においても限度というものがあって。
少なくとも、置き場に困るほどの花など迷惑以外の何物でもない。
それは緋咲にとっては、迷惑を通り越して害意に近いものだった。
可憐な、あるいは豪奢なそれらを視界に入れないように
深く紫煙を吸いこむ。
その瞬間だけは僅かに花の香から逃れられる気がした。

緋咲薫16歳、名前ほどにはお花を愛せない年頃だった。

緩慢に緋咲はベッドから身体を起こす。
その途端、腹部に走る痛みは無視して。
枕元にある備え付けの卓から
鮮やかな青の花に囲まれて居心地悪そうな灰皿を取り上げた。
そうして最後の煙草を捨ててしまうと、憂鬱な溜息をつく。
いつもなら綺麗に立てられている髪は降ろされて
俯き加減の表情に影を落していた。
長めの前髪を掻き揚げる指や、唇
睫毛が長い影を落とす頬は
いつにも増して血の気が無い。
花の海に浸かる日々がかえって体力を奪っていく気がする。
甘やかな香は四肢に絡みつき
身体を起こしているのも気怠くさせた。
緋咲はまたのろのろと横になろうとした。
ほんの一瞬、その唇から小さな呻きが漏れる。
腹を貫く激痛が身体の奥を震わせていた。
それが、茫としていた意識から焼け付くような怨嗟を引き摺り上げる。
あの夜、
アイスピックに突き刺されたのは身体だけではなくて。
千切れかけの動脈と同様に、彼の矜持からも真っ赤な血が溢れ出していた。
あの夜のことを思い出そうとするだけで怒りが思考を焼き切りそうになる。
苛む痛みすら忘れそうになるほどに。

緋咲は静かに息をついた。
堅く握っていたシーツを放し、身体から力を抜く。
如何に矜持が復讐をねだっていても、身体の調子が戻らなければどうしようも無かった。
だからしばらくは大人しくしていようと思い、気を落ち着かせた。
その冷たい色の瞳から憎悪が消えることは無かったけれど。

そうして目蓋を閉じる。
いつもの浅い眠りはもうそこまで来ていた。
うつらうつらと花の悪夢に溺れながらぼんやりと考える。
明日にはこの花を全部処分してしまおう。





夢を、見ているのだと思う。
浅いだけの夢はいつもリアル。
覚醒しなければどちらが現実か分らないような。
最近その境目はあやふや。
現の間の夢なのか
夢の間の現なのか
よく分からないまま。
ただ意識だけが途絶えずに続いていく。
それは神経がいつでも剥き出しにされているみたいで
酷く疲れた。
眠りたい。
夢の中でそう思っている。





誰かが病室に入ってきた気配を、緋咲はぼんやりと感じた。
けれどそれが夢なのか現なのか
はっきりと区別がつかないまま目を閉じていた。
不意にベッドが軋む。
その誰かはベッドに腰を降ろしたらしい。
土屋、かな。
相賀なら入ってきた時から五月蝿い。
目を開けてそれを確認するのが面倒くさかった。
すると髪に何かが触れた。
指だ。
髪に指を絡めていじってる奴がいる。
「土屋ッてめぇ…」
言いながら緋咲は目を開けた。
そこにあったのは、漆黒の瞳。
いつも強い光を宿しているそれを知っている。
それは土屋じゃない。
それは相賀でもない。
それは
「よぉ…なんだ、寝惚けてんのか?緋咲」
目の前の、秀人はどうしてか少し笑っていた。

ぱん、と軽い音が弾ける。
反射的に秀人の手を払いのけ、緋咲はベッドから身体を起こそうとした。
「…ッ」
鋭く走る痛みはこの際無視して。
冷たい色の瞳は大きく見開かれて秀人を凝視する。
身体の動きに頭の中身がついていかなかった。
状況がわからない。
コイツは、何なんだ。
「ふぅん、元気そーじゃねぇか」
秀人はいきなり跳ね起きようとした緋咲を、まるで不思議なもののように見下ろした。
いつもなら、酷薄な微笑で辛辣な台詞を吐く唇に色が無い。
冬の湖のような瞳は睫毛の影を浮かべて、ただ秀人を見ていた。
コイツまだ具合悪いのかな。
「……緋咲?」
血の気の無い唇から掠れた囁きのようなものが漏れる。
「…だ」
「なんだよ」
「てめぇは何やってんだッ!!」
叩きつけるような声を浴びせられた秀人は平然と答えた。
「見舞い」
あまりに当然の顔で秀人が言うので、緋咲は思わず妙な声を上げてしまった。
「はぁ!?」
「おまえ死にそうな面してたしな、あれで死なれると俺も後味悪ぃし。
ちゃんと生きてんのか見に来た」
「ふざけんなッ」
その言葉は緋咲の口から勝手に飛び出す。
緋咲は秀人のことが嫌いだ。
心底嫌いだ。
この世界でたった一人、一番嫌いな人間を選べと言われたらブッチ切りで秀人を挙げるくらいには。
大嫌いだ。
そして嫌いなことは態度で現す人間だから、もう何度潰し合いをしたか自分でもよく分かっていない。
なのに、その秀人が、
見舞い。
しかも、当たり前な顔して。
訳がわからない。意味が分からない。
瞬間、緋咲は動いた。
秀人の襟首を右手で掴んで引き寄せる。
左拳が風切音を立てて突き上げられるのと同時だった。
「って、バカ!!」
不利な態勢にも拘らず
まともに入れば痛いだけで絶対に済まないその拳を受け止めると
秀人は襟首を掴む手を捻るように外して緋咲をベッドに押さえ込んだ。
「……あぶねーだろ」
秀人の声が少し低くなる。
間近でぶつかり合う視線はどちらも鋭い。
怠惰な午睡に漂っていた花の香が凍りついた。
「ずいぶん元気じゃねーか?こんなとこ入ってるくせによ…」
緋咲が小さく悪態をつく。
冷たい色の瞳に怒りを露わにして秀人を睨め上げた。
その瞳が一瞬引き歪む。
「…くッ」
ほんの小さな呻きは、殺し切れない痛みに震え。
腹の傷は押さえ込まれた姿勢のせいで息をする度に焼け付くような熱を放った。
苦しい吐息が漏れるのを止められない。
しかし凍てついた眼差しは真っ直ぐに秀人を射貫いて逸らさなかった。
秀人は何も言わずにじっとその瞳を見下ろしていたが
やがて溜息をついて
「…んな時にあんまし余計な喧嘩売んじゃねーよ」
押さえ込んでいた腕を外した。
ベッドに座り直し、煙草を銜えた秀人の横顔を見上げ緋咲は舌打ちした。
「なんだよ、殴んねーの?秀人クン」
「バーカ。そんな青い顔した怪我人殴れっかよ」
緋咲の唇に冷笑が浮かぶ。
「今、俺のコト潰しといたほうが後々楽なんじゃねーの」
秀人は不機嫌に緋咲の方を向き直り、鼻で笑った。
「全然面白くねーな、んなコトしても」
緋咲の返答は冷ややかな眼差し。
「おまえ頭悪ぃな」
あからさまな嘲弄が小さな棘を刺す。
秀人の瞳にちらりと剣呑なものが走り、黒曜石のように鋭く閃いた。
「緋咲…」
低い、よく響く声の中に含まれているものに、緋咲は身構えようとした。
瞬間、顔のすぐ横に秀人の片腕がつかれる。
空いている手で口から煙草を摘み、秀人はじっと緋咲を見下ろした。
その眼差しの静かな迫力に、緋咲は居心地悪げに身動ぎする。
「…なんだよ」
「俺と、腹に穴開けたまま俺に喧嘩売るおまえと、どっちが頭悪ぃ?」
ぐっと言葉に詰まった緋咲を見下ろし、秀人は笑った。
「おまえさ、病院入ってからスネた奴になってねぇ?」
「はぁ?!」
緋咲は思わず頓狂な声を洩らしてしまった。
「どーせヒマで機嫌悪ぃんだろ。今日ぐらい遊んでやるから大人しくしてろ」
「このバカッ!なんで俺が…」
罵声を叩きつけようとした瞬間、傷が痛み出す。
「ほら、やっぱし大人しくしてたほうがいいんじゃねーの?」
「…うるせぇッ」
怒鳴るたびに、焼け付くような痛みが身体を震わせた。
それでも秀人を睨もうとしたが、相手に喧嘩を買う気配はやはり無くて。
緋咲は、一番よく分かっていた筈のことを、今ようやく思い出した。
秀人を黙らせたかったら、殴りつけるしかない。
それが出来ないなら、どんな冷たい嘲弄も意味が無い。
「…クソやろう…」
やがて緋咲がついた悪態は、諦観が滲み
気怠い溜息が後に続く。
ようやく緋咲は、秀人がこの場に存在する事を、心の中に受け入れた。
「……とりあえず、どけ」


窓からの細い風が、重なり合う色とりどりの花影を揺らめかせた。
「ところで……、緋咲」
枕元の灰皿に腕を伸ばした秀人が呟く。
その視線を辿り緋咲は舌打ちする。
「この花、何なんだ」
「花だろ」
不機嫌さを隠さない声に、秀人は緋咲の顔を見下ろした。
普段なら、冷ややかな悪意に煌く瞳が、
今は悲壮感すら漂わせて花を眺めている。
華やかに咲き誇る花達と、憂いを秘めた表情を見比べ、その理由を何となく察して
秀人は思わず笑い出した。
次の瞬間、ベッドから身体を起こした緋咲の拳が秀人を殴っていた。
「いてっ」
緋咲は会心の笑みを浮かべ、傷口を押えてまたのろのろと横になった。
「つらいんなら殴んなよッ」
秀人は煙草を灰皿で消しながら、花に溢れた病室を見回した。
「ま、おまえの見舞いに花持ってくる方もどーかと思うけどな…。
入ってきた時、違う奴の病室に来ちまったかと思ったぜ。
やたら花ばっかあるし、おまえ髪降ろしてるし」
秀人は珍しそうに緋咲の髪に指を伸ばす。
「触んなバカ」
緋咲は面倒くさそうに言うが、特に抵抗しなかった。
「だいたい、てめぇは何しに来たんだよ…」
「だから、見舞いって言ったろ」
冷たい色の双眸が、きゅうと細められて秀人を見上げた。
「…てめぇ、ヒマなだけだろ」
「ん、よく分かったな」
「だったら他んとこ行けばよかっただろ。なんでわざわざ俺んトコ来やがるかなコイツは…」
緋咲はあからさまに呆れた声を上げた。
もしも逆の立場だったら、
どう考えてもそんなコトをしないだろう。
緋咲は怪訝な顔で、さっきから自分の髪に指を絡めている秀人を眺めた。
その視線に気づき、秀人は指先でしなやかに踊る髪をいじりながら、口を開く。
「…ちっとは心配してたからな」
低く囁くような声は静かに空気を震わせた。
「心配?てめぇが…?」
緋咲は冷笑しようとした。
しかし秀人の眼差しが唇から言葉を奪う。
真っ直ぐ射貫くような視線に緋咲は押し黙り、漆黒の双眸をただ見据えた。
凛とした瞳の中に、何かを探そうとしたけれど。
結局、緋咲は目を逸らす。
「…いらねー」
呟く声は小さい。
「ものすげー余計な世話だな」
微妙に機嫌の悪そうな声に、秀人は喉の奥で笑った。
「ったく、心配しがいの無ぇ奴」
緋咲は鼻で笑い飛ばした。
そして、まだ髪をいじりたそうな秀人の指を外させると、その顔の前に手を差し出した。
「…タバコくれ」
秀人は目を小さく瞬かせた。
そのまま何も言わずにいると、緋咲の顔がどんどん不機嫌になる。
「俺のでいいんだな…」
自分も一本銜えてから煙草を緋咲に渡そうとして、秀人は手を止めた。
「なんだよ」
「…やっぱし怪我人に吸わせんのは、悪ぃよな」
秀人は煙草を仕舞いこみ、口の端に笑みを刻んだ。
「少しは見舞いらしいコトしてやろうか」
何となく嫌な予感がして首を横に振った緋咲に構わず、枕元にある備え付けの卓にあった林檎を取り上げる。
「これって緋咲が自分で切んのか?」
「…違う」
「そりゃそーか」
一人納得して、同じ場所にあった果物ナイフを掴むと、小さな刃を林檎に当てた。
秀人が何をしようとしているのか理解した瞬間、
緋咲は反射的に思った。
指切っちまえ。
しかし
「おまえってそういうコト何もできなさそーに見えるよな」
何気なく失礼なことを言う秀人の、ナイフを握る手許から溢れていく赤は、
綺麗に剥かれた林檎の皮だけ。
慣れた手付きであっという間に皮を剥き終えた秀人は
皿の上に切り分けると緋咲に渡した。
「ほら」
爽やかな香気が漂う。
緋咲は、均等に切られた林檎と、至極平然と佇んでいる秀人を、まじまじと見比べ
「何なんだ、てめぇは…」
思わず呟いていた。
秀人は、自分のことをまるで信じられないもののように見上げている緋咲を眺め
「食わねーのか?」
一切れ摘んで食べてみた。
瑞々しい甘さが口の中に広がる。
「心配しなくてもこの林檎、蜜いっぱいだから不味くねーぞ」
もう一切れ摘むと、ようやく緋咲が口を開いた。
「……おまえムカツク、訳分かんねー…」
「何だよ、全部一人で食べたかったのか?」
「違ぇよッバカ!!」
思いきり罵倒した緋咲は疲労の滲む溜息をついた。
「あー、調子狂う。ったく何なんだ、てめぇは!喧嘩しねー時の秀人って、いっつもそんなんかよ!?」
そして身体を起こし、自分も一切れ摘む。
確かに林檎は美味かった。
もう一切れだけ口にして、緋咲は皿を脇に退けた。
新しい煙草を銜えようとしていた秀人を見上げ、一言。
「タバコくれ」
極々軽く、秀人はその頭を叩いた。
何か言い返そうとした緋咲の唇は、代わりに小さな呻きを洩らす。
柳眉が顰められ、痛みを押し殺そうとしていた。
「あ、悪ぃ…大丈夫か?」
微かな血の匂いが花の香に混じる。
緋咲は舌打ちして、シャツのボタンを外してみた。
白い包帯にじくじくと赤が広がっていた。
「また穴が開きやがった、かな」
うんざり緋咲は言うと、壁に掛かっていた時計を見た。
もうそろそろ誰かが来そうな時間になっていた。
もしも相賀あたりと秀人が顔を合わせたらと思うと、うざい。
「おい秀人、もう帰れよ。あいつらが来る」
秀人に視線を戻すと、その顔は意外に間近にあったので緋咲は小首を傾げた。
「なんだよ、まだ何かあんのか」
秀人は黙ったまま緋咲を眺める。
透けるように青白い肌に、血の彩りが鮮やかだった。
冷たい色をした瞳で睫毛の影が揺れている。
目許だけ微かに朱が差しているだけで、その顔に血の気は無かった。
いくら喧嘩売りたそうにしていても、
緋咲は怪我人だったことを改めて思い知らされる。
銜えたままの煙草に火をつけ、秀人は緋咲から目を逸らした。
身体の奥で蠢きかけたものを丁寧に底に沈めて。
ほんの小さな笑みを口許に浮かべ、秀人はベッドから離れた。
「おまえ少しは大人しくしてた方がいいんじゃねーの?あんまし暴れてっと病院にいる意味ねーからな」
「さっさと行けッ」
ドアに消えていく背中に向かって、緋咲は邪険な声を突き刺した。


秀人が帰ると、病室は急に静けさの中に包まれた。
奥の部屋にいるせいか、窓の向こうから微かに街の音が聞こえるだけ。
その静寂に、どうしてか微かな戸惑いを感じた。
緋咲はしばらくぼんやりとドアを眺める。
そうして、もうそこにいない人間に小さな悪態をついた。



















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すんません、告白します。
最初のほうにある花の名前、一つだけ花じゃないのが混じってます。

緋咲が腹刺されたのが23巻、それと最終巻までの間、あの世界でいったいどれほどの時間が
経ったのかと思うと今でもツッコミたくてたまりません♪

ところで、自分が書いといてなんですが
リンゴむく秀人クンって結構有害だと思いました。



あー、走って帰るぞ!