夜が明けるにはまだほんの少し時間があるから
 朧な月は空にしがみついて下を眺めていた
 怒号がそこかしこに溢れていたが
 月は素知らぬ顔で聞いていた
 狂おしいばかりの喧騒は互いに互いを食い散らかそうと牙を剥き
 その果てなど 誰の目にも見えなかったけれど

 音がする

 空を柔らかに凍りつかせ
 夜明けの光を引き裂いて
 終わり無き喧騒を貫き通し
 海と空が溶け合う境界へと 道は開かれた

 ただ静かなその向こう側へと
 それは高らかに響き渡り この身体を震わせて 


 散々に食い千切った










 『 requiem 』



家に帰って風呂に入り、時計を見たら行けそうだったから、とりあえず学校には顔を出した。
別にサボっても構わないんだ。
身体中、頭から爪先まで気怠さはこびりついている。
けれど身体の奥にまで染み渡った疲労感とは逆に、脳味噌のどこかであの喧騒を忘れられずにいた。

爆音小僧 朧童幽霊 魍魎 AJS 極悪蝶
ついでに来栖と一色
あとは、何だったかな。あの時B突にいたのは。

ありえない、普通なら。
そんな面子が一度に同じ場所に揃う事は、ありえない。
だから狂っているんだ。
少しずつ、思ってもみないところから、歯車がずれていった。
望んだ訳でもないのに気付けば他の道を閉ざされていた。
目の前に伸びた一筋の道は真っ直ぐに、ある結末へと突き進んでいた。
横浜 横須賀 湘南 全てを巻き込む潰し合い
それは、避ける、という言葉が浮かばない程はっきりと目の前に横たわって
たとえその中の誰かが勝ったとしても、
もう何もかもどうしようもない所まで来ていた筈だけれど。
狂った刃先を止めようとして、いきなりその前に飛び出してきたのは、よく知ってる奴で。

結末は真っ白に塗り替えられた。

あの時には感じる余裕の無かった痛みが身体中で熱を持っている。
寝てないせいで酷く重い身体は、何があるわけでもないのにうずうずと急き立てられた。
だから仕方なく学校なんて来てみたけれど。
ニ限が始まる前には耐えきれなくなって、すっかり眠っていた。
教師の古典朗読はただの音の羅列になり、目蓋を閉じた瞬間、心地良い闇が広がる。
傷みは緩やかに引いていく。
夢すら見ない眠りは、暗い沼に浸かるようだ。
意識の輪郭は溶けて消え、ただぼんやりと、果てなく続く暗黒の淵を彷徨っていく。

そのうち、指先に何かが触れた。
闇の中に誰かが立っている。
腕を伸ばし、肩を掴んで引き寄せて、

ああ、こいつは。





目を覚ますと、隣の席の奴と目が合った。
「……おはよう、鳴神くん」
呆れた声で言われても、秀人はしばらく茫としていた。
顔を上げて辺りを見回すと、教室にいる連中は思い思いに騒いでいる。
もう休憩時間だった。
「あー……次の授業って、何限?」
「最後」
少しのつもりが思いっきり寝ていたらしい。
最後の時限は何だったかな。
聞こうとすると遠慮がちな声に先を越された。
「顔、すごいね」
秀人は何でもなさそうに親指で唇の端を撫でた。
鋭い痛みと共に、そこがまだ熱を持っていることに気付く。
喧嘩の名残はそこだけではなかったけれど。
秀人はほんの少し笑うだけだった。
「今日はもう帰るわ」
「いいけどさ、先生に聞かれたら何て言っとく」
「適当に……」
そう言いかけた秀人は、ふとある事を思いついて言い直した。
「病院に行ってくる」
「具合悪いの?」
「腹に、穴空いてんだ」
思いきり寝たおかげで秀人はどう見ても元気そうだった。
怪訝な顔をする級友に秀人は軽く笑って頭を振った。
「俺じゃねーよ」
思い浮かべるのは、アイツの事で。
昨日からの騒ぎでまた傷口がぱっくり開いたアイツは、今頃大人しく病院のベッドに寝ているだろうか。
秀人は胸の内でその問いを即座に否定した。
不貞腐れて煙草でも吹かしているに違いない。
席を立ち、さっさと教室から出て行こうとする秀人に、彼の級友は声をかけてみた。
「なんか、楽しそうじゃない?」
振り向いた秀人はほんの少し眉を顰めていた。
「……そーか?」
けれどその機嫌の良さを隠そうとはしなかった。





窓のカーテンが騒がしく翻っていた。
白い病室に流れ入る空気は冷たい。
「あの野郎……」
覗きこんだ病室に誰もいなくて、秀人は拍子抜けしてしまった。
せっかくあの不機嫌な顔を拝みに来てやったのに、当のアイツはどこにいったんだろう。
今朝はあんな死にそうな顔をしていたくせに。
白い指を伝い落ちる血の赤を思い出す。
血の気の無いまま悪態をつく唇を思い出す。
空のベッドが、妙に寒々しかった。
その時、ひっそりと静まり返った廊下から足音が聞こえてきた。
「あ、お友達起きた?」
丸顔の看護婦は足を止めると、人の良さそうな笑顔を見せた。
「昼に回った時は良く眠っていたから、起こさなかったけれど」
秀人は無言のまま病室を指した。
彼女もベッドが空とは思っていなかったんだろう。
困ったような溜息をつくと、物問いたげに秀人を見上げる。
秀人は気の無い素振りで言った。
「アイツ、今度からベッドに括り付けていいから。怪我人と思わねぇ方がいいよ。
猛獣だと思った方がいいな、すぐ暴れるから。これからはそういう扱いした方がいい」
「そんな言い方して、お友達なんだから」
「……違うよ」
「でも今朝彼と一緒に来たのは君でしょ」
病室から出ようとしていた秀人は、自分の顔にはっきり残る喧嘩の痕を指差した。
「これ、半分はアイツにやられた」
看護婦の返事を待たず、秀人は廊下に出た。
白く続いていくその先を眺めながら考える。
友達じゃない。
そんな言葉は似合わない。
もし、次に真面な状態でアイツに会ったら、絶対殴り合いになるだろうし。
やるんなら、何度でも病院送りにしてやるつもりだ。
それぐらいしてやらないと全く割に合わない奴だから。
けれど、今日ここに来たのは。
あのバカとの関係が、それだけじゃないからかもしれない。
思い出す。
アイツの声を思い出す。
いつか見た、あの苦しげな顔を。

廊下の突き当たりまで来ると、エレベータが降りてくるところだった。





 雲影は段々と色を増し、空を静かに覆っていく
 日が落ちた後で雪が降るのかもしれない
 暮れていく光の冷たさは明け方のそれを思わせた
 金色の地平際から風が吹く
 耳の傍で轟々と音がする
 風の中 微かに聞こえる音がある
 錯覚だ
 あれが聞こえる筈ない
 そう思っても 耳を塞ぐ指の隙間から聞こえるのは
 間違いようのない排気音
 それは死んだ奴の単車の音だ
 震えている
 身体の奥が震えて 何から込上げてくる
 喉がぎちぎちと押し広げられ その名前が口から零れそうになる
 でも 駄目だ
 目を瞑って 唇噛み締めて 何もかも飲みこんでしまえ
 何も感じないようになってしまえばいい
 そうじゃなきゃ 泣いてしまいそうなのに


 「緋咲」

 てめぇは






エレベータは降りてきていた。
そのまま帰っても別に良かった。
待つなんてのは性に合わないし、だいたいアイツが戻ってくるのかも分からない。
けれど。
煙草が吸いたくなって寒空の屋上に出たら、そこにアイツがいた。
「緋咲」
声を掛けながら、秀人は吹き抜ける風の冷たさに目を細めた。
この寒さの中、屋上に緋咲は一人立ち尽くしていた。
声が聞こえなかったのか、こちらに背を向けたままフェンスに手をついている。
「緋咲」
もう一度呼ぶと、緋咲は気怠るそうに振返る。
「また、てめぇか。いちいちムカツク時に来やがる」
「バーカ、ちゃんと生きてるか見に来てやったんだから有難く思えよ」
「うぜぇ」
突き放すような口調はいつもどおりに冷やか。
けれど、どこか普段とは違うように思えた。
秀人はじっとその瞳を見据える。
緋咲は、長い睫毛を一度震わせたかと思うと、すぐに視線を逸らせた。
余程強くフェンスを掴んでいるらしく、指に色が無い。
それがやけに目についた。
「……具合、悪いのか」
「別に」
その声は、たぶん緋咲が意識している以上に強張っていた。
また背を向けた緋咲を、秀人は黙って眺めた。
いつものどおりの冷たい眼差しや言葉。
それらは緋咲の周りに鮮やかな断絶を作りだし、その中に誰かが踏みこむことを拒絶しているくせに。
今、吹き抜ける風の向こう側をじっと睨む緋咲が、
どうしてか、寂しいように思えた。
秀人は腕を伸ばそうとした。
理屈でない衝動が突き上げていた。
手を伸ばして、肩に触れて、引き寄せて。
それから。


動きかけた秀人の手は、煙草を取り出していた。
「いるか」
銜えながら緋咲の隣に立つ。
日はもう落ちかけていた。
眼下の街は暗く沈み、赤い光を孕んだ雲だけが茫としている。
緋咲は無言で煙草を一本取り、秀人の手の中のジッポで同じように火をつけた。
切れ長の双眸に、冷たい炎がゆっくり揺れる。
風に乗ってどこか遠く、単車の音がした。
「あいつら、どうなったかな」
秀人がぽつりと呟くと、緋咲は目で先を促した。
「ん、B突に来てた連中、あの後散らされてただろ。拓は爆音の奴等が連れてったみたいだけど」
辺りはもう大分暗くなってきていた。
吐き出す紫煙は風に流れて見えなくなる。
緋咲は仄白い横顔を晒して、暮れていく日をじっと睨んでいた。
その唇が少し動く。
微かな呟きは喉に詰まるようで良く聞き取れなかった。
「なんだよ」
「……拓が」
緋咲の口からその名が出た時、秀人は無意識に心の中で構えた。
拓と緋咲がややこしい関係になっているのは聞いていた。
しかし黄昏の薄闇の中、冷たい色をした瞳はただじっと前を向いている。
「拓がアレに乗ってること、てめぇは知ってたのか?」
秀人は拓がB突に現われた時を思い出した。
あの時は夢中で分からなかったが、今考えれば拓が操っていたものは、尋常でなかった気がする。
「……いや、アイツとあんまし会ってねーから」
躊躇うように、緋咲は暫く何も答えなかった。
しかし、やがて掠れた声で呟く。
“悪魔の鉄槌”
冷たい夕闇が、ぴんと張り詰めた。
「龍神のか?」
緋咲は小さく頷く。
龍神仕様の“悪魔の鉄槌”が、朧童幽霊の榊龍也と漠羅天の那森須王と勝負して、
完全に勝った話は秀人の耳にも入っていた。
しかしそれを操るのが誰かまでは知らなかった。
「緋咲、おまえ拓が乗ってたのがそうだって言うのか」
緋咲はもう頷こうともせず、地平際に沈んでいく光の残滓をただ眺めていた。
秀人はそれ以上聞かなかった。
どうして拓が。
どうして、おまえが。
聞きたいことなら幾つもあった。
けれど、その疑問を一つも口にすることはなく、緋咲の張り詰めた横顔に息を飲む。
冷たい色をした瞳から、涙が一筋零れた。
長い睫毛が瞬きし、また一滴零れ落ちる。
しかし緋咲の瞳は凍りついた湖面のようなまま、ただ前を見据えていた。
「緋咲……」
苦しげな素振りも、嗚咽も拒絶して、ただ僅かばかりの涙を流す。
それは歪な泣き方だ。
そして、とても寂しい。
秀人は迷わずに腕を伸ばした。
緋咲の肩に腕を回して、身体を引き寄せる。
刃のような悲哀が腕を突き刺すような気がした。
反射的に睨んでくる瞳に、秀人は言った。
「おまえ、もっとちゃんと泣け」
腕の中で緋咲が小さく強張る。
「俺は別に構わねぇから」
硝子玉のような硬質の瞳は大きく見開かれて、秀人の真っ直ぐな眼差しを見据える。
心の奥底まで見透かそうとするように、緋咲はじっと秀人を見る。
秀人は黙ってその瞳を受け入れた。
ずっと屋上にいたんだろう、冷えきったその身体をただ抱いた。
何も知らない。
どうして泣くのか、何がそんなに辛いのか。
秀人は何も分からない。
けれど、僅かな涙よりも悲痛な慟哭を、緋咲の瞳の中に見てしまったから。
冷たいその身体から手を離すことが出来なかった。
「……な」
やがて、緋咲の唇が微かに動いた。
ほとんど聞き取れないそれは、多分目の前の人間への悪態なんだろう。
秀人が小さく笑うと、緋咲はもう何も言えずに俯いた。
色を無くすまで堅く握った拳が震えていた。
そして、酷く抑えた嗚咽が漏れ始める。
秀人は黙って、肩を抱いた腕にそっと力を込めた。
日が暮れて、辺りはもう朧にしか見えない。
嗚咽の間から溢れ出る断片的な言葉は影のように溶けていく。

 勝手に死んだんだから、そのまま大人しく死んでろよ

掠れた囁きは風に紛れそうになりながら、それでも秀人に届いた。
そして、分からないなりに理解する。
「そうか……アイツは、天羽はおまえの友達だったんだな」
もう聞く筈がないと思っていた単車の音を、あのとき緋咲はどんな思いで聞いたのか。
声を殺して肩を震わせる緋咲に、いつかの自分が重なった。
「……まぁ、いいんじゃねぇのか」
秀人はぽつりと呟いた。
「天羽の単車がこの街走ってるって事は、アイツがちゃんとここにいたって証みたいなもんだから……いいんじゃねぇの」
その音は、今は聞くのが辛くても、いつか静かに心を包むだろう。
死者からの鎮魂曲のように。





いつのまにか、嗚咽は止まっていた。
顔を上げた緋咲は、いかにも不機嫌そうな様子で
「……別に悪いなんて言ってねーだろ」
不貞腐れたように言った。
秀人は思わず笑ってしまった。
「あー、ハイハイ」
「むかつく」
言葉と共に緋咲はぞんざいに秀人を押し退けた。
その拍子、秀人の頬に何か冷たいものが当たった。
見上げれば、暗い寒空からとうとう雪が落ちてきている。
緋咲は、音もなく降る白い欠片をぼんやり眺め、口の中だけで呟いた。
何やってんだか。
自嘲的なそれを、秀人は聞かなかった事にした。
「……とりあえず中に戻らねぇか。寒い」
緋咲は小さく頷く。
「……帰るか」
「そ、大人しく……」
「家帰る」
「は?」
寒いのが気に食わないらしく、顔を顰めて言う緋咲は、その眼差しの冷たい色も、傲慢さもいつもどおりだった。
「寝るの飽きたから横須賀帰る」
「ああ……そう」
さっさと屋上から出ていこうとする背中に秀人は呆れた。
「緋咲、おまえ何で病院に入ったか忘れてねぇ?」
「忘れた」
「……今度どっかでぶっ倒れても拾ってやらねーぞ」
「阿呆。てめぇなんかに誰が頼むか」
冷やかな嘲弄を浮かべたまま、緋咲はまた新しい煙草をねだる。
その態度に秀人は呆れながら、どうしてか笑ってしまった。
自分でも驚くほど気分が良かった。
逆に緋咲のほうが鼻白む。
「なに笑ってんだ、てめぇ」
「別に、何でもねぇよ。つーか、この雪ん中おまえホントに横須賀まで帰る気か」
「FXあるし」
「寒ぃだろ」
緋咲は、雪の落ちる空と秀人に視線をやり、柳眉を顰める。
秀人は少し考えて、言った。
「俺んとこ来るか」
「……あ?」
案の定、緋咲は妙な顔をした。
しかし秀人は構わず続けた。
「ここから歩きで行けるぐらい近ぇし、メシぐらい食わせてやるよ」
それはまったくの気紛れだ。
けれど、このまま緋咲と別れるのは惜しいような気がした。
ほんのさっきまで腕の中にいた存在を、もっと確かに感じてみたかった。

緋咲はじっと秀人を眺めていたが、やがてほんの小さく笑った。

「しょうがねぇな」







雪明りが、横顔をぼんやり浮かび上がらせる。
「おまえさ、一回病院で頭開いてもらった方がいいんじゃねーの」
「だったらてめぇもその出来の悪い脳味噌取り替えてもらえ」
悪態を付き合いながら歩く道は、途切れなく降り続ける雪で白く染まっていった。




























+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
8000HIT記念リクは緋川さんからのお題で、
「鼻っ柱に傷のある野良猫を懐かせようと苦労する秀人くん」でした。
前に書いたのは本当に猫の話だったんで、今度は少しは秀緋らしく……なったのかなあ。


緋咲さんの傷について。
何度も言ってる気がしますが、来栖に刺された後からB突まではほとんど時間経過がありませんから、
もう少し落ち着いたほうがいいと思います。

最後のB突、結末がああなるためには時貞の単車が必要な条件だったんではないかと。
あの訳分からん状態をその時だけでも収束するためには、
時貞が増天寺で作り出した世界をもう一度現出させる必要があったんじゃないでしょうかね。
そのための一つの触媒が時貞の単車だったんではないかと。
だから最終回に天馬だって空飛びますよ。龍神がいるのは空なんですから。
…と、まぁ適当な事を言ってお茶を濁しておきましょう。



さーって、全速力で逃げちゃうぞッ♪