『放射冷却』
「寒ぃ」
そいつはちっちゃい声でそう言った。
コンビニ前の駐車場。昨日の水溜りがぱりぱりに凍っている。
砕けた氷の青い朝。
寒いなんてのは当たり前。
なのにそいつはもう一回同じ言葉を繰り返す。
吐く息は真っ白。
声と一緒に漂って消えていく。
息と同じくらい白いそいつの指の中、小さな猫が鳴く。
灰色の生き物を抱いてそいつはまた、同じことを言った。
凍りついた水溜りを雲が横切る。
そんなのをぼんやり眺めていた秀人は、ようやくその声に答えた。
「うるせぇよ緋咲。それしか言えねーのか」
即座に不機嫌な声が秀人にぶつけ返される。
秀人は相手にせず、飲み干したコーヒー缶を捨てた。
温もりは離れ瞬時に指が冷気に晒される。
寒い朝だった。
緋咲の指の中で猫が甘えた声を出す。
あいつも多分寒いんだ。
「…見てるほうが寒ぃ…あいつらホントに人間か?」
緋咲の視線の先、道行く今日も元気な女子高生たち。
脚の太さ様々。制服も色々。
同じなのはスカートの短さ。
「…寒ぃ」
そう呟いた緋咲は俯く。口許近くまでマフラーの中に隠れるように。
立ててない長めの前髪が目許で揺れた。
あの女子高生たちと緋咲を見比べると、きちんとコートまで着てる緋咲のほうが寒そうなのはどうしてだろう。
白い横顔を眺めながら、秀人はそんなことを思う。
「ま、下にジャージ履いてるよりはいーんじゃねーの」
適当に言うと緋咲もマフラーに紛れた曖昧な返事をする。
小さな猫がくしゃみした。
空に冷たい風の渡る音が響いていく。
こんな晴れた日だってのに、肌が感じるのはぴんと張り詰めた寒気。
光の眩しさに騙される。
「緋咲」
名を呼ばれ、冷たい色の瞳が秀人に向けられる。
秀人は持っていたコンビニの袋から肉まんを一つ出すと、二つに割った。
「いるか?」
一瞬、びっくりしたような緋咲の目。
そこに映った寒空が覗けるくらい大きく開いた目でじっと秀人を見て。
やがて視線を前に戻し、首を小さく横に振る。
「あ、そ」
秀人は肉まんを渡そうとした腕をあっさり引っ込め、食べてしまった。
猫が鳴く。
緋咲はその小さな頭を撫でると、眉間のあたりを指で押し下げ面白い顔にさせた。
「…普通もう一回くらい食わねぇか聞くんじゃねーの、秀人クン」
「もう一回言ったらおまえ食ったかよ」
柳眉をひそめ緋咲は首をまた横に振る。
その不機嫌な顔を眺めて秀人は声を出さずに笑った。
手に持っていた肉まんの片割れを、寒そうな息をしている緋咲の前に出す。
「なんかおまえ色白いから寒そーに見える」
冷たい色の瞳が小さく瞬いて、細められる。
「…わけわかんねー」
緋咲は鼻先の肉まんを見、秀人と自分の手の中にいる猫を見比べる。
白い指は猫で暖を取っていた。
もう一度緋咲は秀人の目を見た。
それから暖かな湯気を立ててる肉まんに唇を寄せて
一口食べた。
「…………あったけぇ」
ぺろりと軽く唇を舐めて、ほんの少し微笑む。
急に血が通ったように唇が赤く色付いた気がした。
「…だろ」
一瞬、秀人の口からその言葉は出て来れなかった。
言葉を忘れた一瞬に感じたのは、不思議な緊張が腕を走る感覚。
その手に緋咲の指が触れた。
片手に猫を持ち替えた緋咲は秀人の手から肉まんを取った。
触れた指先が酷く冷たい。
「冷てぇ手してんな」
腕に走った不思議な感覚を忘れたふりして秀人は手を伸ばした。
長めの前髪を掠め、白い頬にほんの少し指先で触れる。
「冷てぇ顔」
肉まんを頬張っている緋咲の瞳がきゅうと細められる。
「…てめぇの指はガキのみてーに暖けぇな」
その目付きが唐突に不機嫌なものなる。
「つーか、何いきなし触ってんだよ」
秀人は少しも構わず掌で緋咲の頬を包んだ。
氷を触ったと思いそうなほど熱の無い肌。
感触はまったく違うけれど。
「おまえホントに生きてんのか?すんげー冷てぇぞ。血管凍ってんじゃねーの」
「はぁ?さっきからわけわかんねーコト言ってんじゃねーよ馬鹿面クン。てめーは脳味噌凍ってんだろ」
冷ややかな嘲弄はいつでも正確に脳を抉るものだ。
秀人はいきなり緋咲の耳を掴むと引き寄せて頭突きした。
「いてッ」
両手が塞がっていた緋咲の脳味噌を衝撃が揺さぶる。
それは多分きっと思いきりの頭突きじゃあない。
が、たとえ軽くやったにしろ仕掛けた人間が人間だから。
緋咲の脚にくる。
膝が崩れそうになり上体が沈む。その手から子猫と肉まんが滑り落ちる。
瞬間、緋咲は重い拳を突き上げ秀人の腹を抉った。
「ッ!……緋咲、いま思いきしマトモにいれただろ」
低く呟かれる声に緋咲は嘲笑う。
「てめーがトロイだけじゃねーの?秀人クン」
秀人は凶悪な笑顔で唇を吊り上げた。
次の瞬間、上がった叫びは異口同音。
「ぶッ殺す !!」
その日は寒さの割に晴れた日だった。
熱の無い陽光の下を近所のコンビニまで歩いた吉岡は首を傾げる。
「……何してんだ?秀」
そこに秀人がいた。
屈んだ足許に猫がじゃれついている。
「吉岡」
顔を上げた秀人を見て吉岡は唸った。
「何だその顔。誰とやったんだ!」
喧嘩したのがあからさまに分る顔が不機嫌になる。
「別に…こんなん大したコトねーよ。俺よかアイツのほうが酷ぇ面にしてやったし」
不貞腐れたようなのにどこか得意げな声で言うと、秀人は立ち上がった。
「で?何してんだ吉岡は」
その顔からはもう不機嫌さは消えていていつも通りの表情をしている。
「ん?お、おう…今俺んちで集まっててな、皆いんだよ。おっくんとか大介も来てんぞ?
秀んトコにも昨日電話したのにおめー出ねぇし」
「みんないんのかー…じゃあ俺も行こうかなー」
「!来いよ。みんな喜ぶべ?」
うきうきと言った吉岡の肩に腕を回した秀人は煙草を銜えた。
「悪ぃ、火貸して?俺の無くした」
吉岡は快諾する。
それを横目にしながら秀人は歩き出した。
「おい秀?俺コンビニ寄りてーんだけど」
「何すんだよ」
「おでん食いてー」
「んなの後々。寒ぃよ今日、早く行こーぜ?」
吉岡の肩を軽く叩きながら秀人は足を止めない。
「寒がりな奴」
笑って吉岡はジッポをつけ火をかした。
煙草に熱を移す間、ほんの一瞬だけ秀人は後を肩越しに振り返る。
逆方向に歩いていく人の流れの中、冷たい風に特徴ある色の髪がなびいている後姿。
無論それが振り返るなんてコトは無い。
前に視線を戻し秀人は紫煙を吐き出した。
「ま、寒くても人にくっついてりゃ暖けぇのにな…」
自分も煙草を銜えながら、吉岡はどこか楽しそうな秀人を眺め小首を傾げた。
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寒い季節=くっつけ期間。
そう教えられたのですがね……。
なかなか上手くいきませんねえ。
もう戻る。