『浸透圧』
携帯を閉じて秀人は机に突っ伏した。
風を感じて窓を見る。
秋晴れの眠気を誘う青い空。
柔らかな風吹き抜けて雲を漂わせる。
ただ、眠かった。
瞬きをして視線を教室の中に戻す。
青い。
目の奥に空が染みついて、並んだ机、前の黒板、白いチョークの色を変えた。
“10:45〜11:35 生物”
開けっ放しの窓、青い風が舞いこんで
カーテンが一斉に翻った。
その音で、前の椅子にいたソイツが顔を上げる。
こっちを向いて頬杖ついて、膝に乗せた教科書のページが風で捲れていく。
妙に冷たい色の眼球。
瞬きして睫毛の青白い影揺れた。
間近にあるソイツの顔はなんだか滅茶苦茶不機嫌。
まぁ、いつものことか。
コイツの機嫌イイ顔なんか見たコト無い。
薄い唇が少し動いてソイツは何か言おうとした。
けど結局何も言わないまま、膝の上の教科書に目を落とす。
長めの前髪が風に揺れた。
そういえばどうしてコイツは今日髪の毛おろしてるんだっけ。
下を向くたびに落ちかかる髪を長い指が押さえるのを眺めながら、
俺はやっぱり眠くて目を閉じる。
遠く、街の音が霞んで聞こえる。
学校の中は静かだった。人間の音がしない。
他には誰もいないのかもしれない。
寝そうになった瞬間、頬杖ついてた机がガクンと跳ねた。
重く、鈍く響いた音に目を開けたら、窓の向こう
青。
窓枠付きの空が視界を完璧に占領。
青に網膜が侵食される。
誰かが笑った。
机の脚を蹴ったソイツ。酷薄な唇が弧を描く。
考えるより早く動くのは腕で、ソイツの襟首掴んで引き寄せたら
ソイツはまだ嘲笑っていたから、
下唇に噛みついた。
見開いた眼球の、冷たくつるんとした表面を青白い空が撫でていた。
「起きろバカ」
突然後ろ頭を吹き飛ばされた衝撃に、秀人は3秒ほど机に突っ伏していた。
おかげで、夢の狭間をうろうろしていた意識が戻ってくる。
ぼんやり顔を上げるとまず黒板の文字が目に入った。
“10:45〜11:35 生物”
そのまま視線をおろす。
机の上、ほとんど手付かずの白い解答用紙。
それを眺め秀人はようやく自分が何をしていたのか思い出した。
この前の定期試験の存在を脳味噌からすっきり消去してしまっていた秀人は
土曜の学校で再試験を受けるはめになった。
それで朝から真面目に、いや本当はそれが普通なんだけど、登校して
今日二つ目の試験を受けてる最中だった。
で、寝た。
とにかく眠かった。
別に“生物”という教科のせいじゃないと思うが、静かな教室に一人でいると
意識はあっさり溶けて夢の中にいってしまう。
これはもう仕様が無いコトだ。
今日はなんでこんなに眠いのか。
考えてる間にも目蓋が閉じる。
まぁ、いいや。
瞬間、秀人はもう一度後ろ頭に鈍い衝撃を感じた。
椅子からずり落ちそうになって今度こそはっきり目を覚まし、後ろを振り向く。
ソイツがいた。
「緋咲!?なんでおめーがココにいんだ?」
いるべきでないものを見て驚く秀人に、冷たい色の双眸が不機嫌そうに細められる。
「あ?てめーが呼んだんだろーが」
そう言われて思い出した。
あんまり眠くて、試験やる気なかったからコイツにそんな電話した気がする。
が、まさかホントに来るとは全然思ってなかった。
半分寝てたような緋咲に一方的に喋ってこっちから切ったから。
だから少しも期待していなかった。
ただ、してみたかっただけか?
「…ったく何なんだよ?」
緋咲は待ってる、秀人が何か言うのを。
冷たい色の瞳は真っ直ぐに人を射抜く。
仕方なく秀人は、はっきりした声で言った。
「呼んだだけ」
言った瞬間に殴られる。
「っ痛ぇだろうがッ!!さっきから何回殴ってんだッ」
「一回しか殴ってねーよ。あー、わざわざ来てやって損した」
「どうせ昼まで人の布団で寝てるヒマな奴が何言ってやがるッ」
緋咲はその声を鼻先で笑い飛ばすと、秀人の前の席に座った。
頬杖をついて秀人の机にのってるほとんど白いままの用紙を覗きこむ。
「ふぅん?阿呆面で何寝てんのかと思ったら……全然やってねーな。さすが大バカ」
「うるせぇよ。やる気ねーんだからしょうがねーだろ」
憮然とした秀人をちらりと眺め、緋咲は机の上にあったシャーペンを手に取った。
「こんなもん、適当に答え書けばいいんだろ?
さっさと終わらせとけよ……俺は腹減ってんだ」
そう言って緋咲は問題文のほうをろくに見ずに解答欄を埋めていく。
少し驚いたが秀人は放っておいた。
どうせ自分がやろうが緋咲がやろうが同じコトだろうから。
コイツの気紛れに反対する理由も無い。
「腹減ってるって…何か食ってくればよかったろ?冷蔵庫ん中なんか入ってたはずだし」
「自分でやんのがめんどくせー」
「…おめーって、すっげぇワガママ。…んじゃソレ終わったら何か食いにいくか」
解答用紙を眺めていた緋咲が少し顔を上げ、上目遣いに秀人を見る。
「てめーが作れ」
ちょっと虚をつく言葉だった。
今から家に帰って昼飯を作ったとしても、どうしたって時間がかかる。
だったらテキトーにどこかで食ったほうが早いし楽。
多分それが分かっていて言ってるコイツ。
「……すっげぇワガママ」
さっきとは少し違う声で、秀人はもう一度同じ言葉を繰り返した。
シャーペンを握った白い指は聞こえなかったように動いていく。
緋咲が何かを書くのを見たのは初めてだった。
結構整った文字が解答欄を埋めていく。
きっとコイツのことだから、問題見ないで勘だけで書いてる気がする。
「けどまぁ……それ終わらせて家帰ったら美味いもん作ってやるか」
秀人が眺めてる前で、緋咲の唇がほんの少し弧を描いた。
それは何だか満足気で、今まで見たことなくて。
目の錯覚だったかもしれない。
頬杖ついた緋咲の横顔を秀人はじっと眺めた。
風呂に入ったみたいで、おろしたままの髪がしっとりしている。
長めの前髪の向こうで冷たい色の瞳が光っていた。
瞬きとともに睫毛の影が揺れる。
頭のどこかを青白い何かが掠めた気がした。
「あ」
秀人が小さく洩らした声に緋咲が顔を上げる。
「何だよ」
「……いや別に……ただ、変な夢見ただけ」
「あん?どんな」
「覚えてねーけど…なんか恥ずかしー夢だったような気もする…」
冷笑が秀人の耳を掠めた。
「てめーはもともと恥ずかしー人間だから別にいいだろ」
緋咲はいつも至極簡単に他人の怒りを引き摺り出す。
視線を解答用紙に戻したその横顔に秀人は剣呑な眼差しを送った。
「…さっきも言ったけどよ、緋咲おめー今日俺のコト何回殴った?」
「だから、一回」
「思いっきり嘘だろ」
緋咲は首を横に振った。
それから唇を吊り上げる。
「最初の二回は蹴っただけ」
喉の奥で緋咲は笑ってみせた。
「そうしねーと、てめーは起きねぇと思ったから」
シャーペンの頭を下唇に軽くあてて、緋咲はじっと解答用紙を眺めている。
冷たい色の瞳はまったく秀人の事を気にしていないようだった。
「……ふぅん?」
喉の奥に溜まった怒気が秀人の声をほんの少し低くする。
秋晴れの柔らかな風が吹き抜ける教室に、張り詰める静かな何かを
気付いていないように緋咲は最後の解答欄を埋めた。
「終わった。あとココ、自分の名前書いとけ」
「…どこ」
白い指が指してる欄を覗き込むようにして、秀人は緋咲に顔を寄せた。
窓からの風をはらんで紫に染めた髪が揺れる。
その間から白い耳の先っぽが見えたから、
噛んでみた。
「っあ…」
小さく上がった声に秀人が笑う。
瞬間、鬼のような目付きになった緋咲は持っていたシャーペンを秀人の顔に突き刺そうとした。
尖った先端が眼球に接触する寸前、緋咲の手首を掴んで止めてしまった秀人。
その顔を睨む冷たい色の双眸に凍てついた光が閃く。
「てめぇは……何してんだッ」
「何だよ?別に痛ぇほど力入れて噛んでねーだろ」
平然と言う秀人に、緋咲はシャーペンを握った拳に力をいれた。
だが、突き刺そうとする力と押し戻そうとする力が均衡しているのでシャーペンの先端はそのまま動かない。
「そーゆーコト言ってんじゃねーよ!!こんなトコで何いきなし耳噛みやがんだボケッ」
「ちっとむかついたから」
「あ?」
「緋咲耳弱ぇし」
秀人の漆黒の双眸は悪びれもしない。
噛み合わない会話は緋咲を脱力させるのに充分だった。
手からシャーペンが乾いた音を立てて転がり落ちる。
飄々としてる秀人を恨めしい目付きで睨む緋咲は小声でぼそりと呟いた。
「…やっぱ恥ずかしー奴……」
「別にいいっておめーが言ったんだろ」
緋咲の拳が握られるのを横目に、秀人は帰り支度をする。
「……あー、やっぱり来て損した」
極上に不機嫌な声が秀人の笑いを誘う。
「緋咲、だったら何で来たんだよ?どーせ寝てる気だったんだろ」
「コレの、ついでだ」
緋咲は取り出した煙草を指で軽く叩いてみせた。
秀人も煙草を銜えた。
秋晴れの眠気を誘う青い空に紫煙が透き通って流れていく。
緋咲は静かに立ち上がると、他には誰もいない教室の中を珍しそうに見回した。
が、すぐに飽きたようで、冷たい色の瞳が秀人を捉える。
「腹減った。早く帰って何か作れバカ」
「……ちっとは物の頼みかた覚えてから言え」
窓から飛びこんできた風に紛れてもよく響くその声。
冷笑で返し、緋咲は少し眩しそうに窓の外を眺めた。
外は
秋晴れの、どこまでも透き通る
青の浸透圧
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タイトルはそのまま高校生物の範囲から。
あー、僕の中の秀人くんって、↑なイメージの人です。
実は俺様な方で、周りのリズムを崩しまくりな感じ。
なのに逞しい生活力が備わっているというのを激しく推奨!
緋咲は逆に何もしません。出来ないっつーか、しません。そんなワケで人の世話になってる率高し。
……自分の家に帰りなさい。
以上、餌付け話でした!
素早い動きで退却する。