そこで目が覚めた。



『夜行観察誌』




土屋は目を開けたまま3分間は寝転んだままでいた。
暗がりの中を視線と平行に床が伸びていく。
仄白い反射光を放つそれは突き当たりでテレビとぶつかっている。
そのテレビがどこかおかしい。
土屋はぼんやり顔を上げてその理由に気付いた。
砂嵐を映したままのそれは何故か90度回転して床に転がっていた。
…訳がわからない。
今何時なのか分からない暗闇はどうやら土屋自身の部屋のようだが
床にごろごろ人影が転がっている。
1…2……3…
テレビの反射光に照らされたその顔が麓沙亜鵺の面子だとようやく気付くと
土屋は緩慢な頭痛に顔をしかめてまた横になった。
昨日から飲んでいたコトは覚えている。
が、記憶では確か外で飲んでいた筈で、いつ自分が、こいつらが部屋に来たのかは
どうしても土屋は思い出せなかった。
眠る直前みたいに意識はとろとろと崩れていく。
ぼんやりする視界の片隅に相賀がいる気がする。
たぶん部屋に来てからもずっと飲んでいたんだろう。
周りの連中は完全に潰れていて身動き一つ薄闇の中から感じられない。
響くのはただ砂嵐。
脳味噌に染みこむようなその音以外に、あんまり何も聞こえないから
周りがみんな死んだように思えた。
屍の中、一人だけ目を覚ましている。
一瞬掠めたその考えはアホらしすぎて自分から消えていった。
どうもまだ酒が抜けてない。
記憶が無いほど飲むのは久し振りで
普段なら他の連中を潰す役の自分にしては不思議な気がした。
緩慢な頭痛が昨日どれくらい飲んだかを教えてくる。
それが煩わしくてテレビの明かりを頼りに煙草を探そうとした時
不意に、背中に軽い衝撃を感じた。
振り返って見上げた、冷たい色の眼球。
「悪ぃ、蹴った」
頭をタオルで拭いてる緋咲が立っていた。
薄闇の中、仄白く浮び上がる肌は血が通っていないようで
どこか人形のそれを思わせる。
テレビの反射光に透かされた片目がまるで硝子玉。
「…なんだ、まだ潰れてんのか?土屋」
「えぇ、まぁ……」
冷ややかな声は土屋の溶けかけていた脳味噌を鋭角に抉った。
曖昧な返事とは逆に土屋がようやく身体を起す。
風呂に入っていたらしい緋咲はタオルでぞんざいに髪を掻き回しながら
床にごろごろしている奴等を見回した。
「……こいつら全部ダメだな」
その物言いも仕草も素面、酔ってた雰囲気は欠片も無い。
それでいて確か一番飲んでたのも緋咲だった気がするんだが。
死んだように眠っている奴等の中を緋咲は一人悠然と歩き、
明らかに間違った倒れ方をしているテレビの傍に座りこんだ。
そこで煙草を咥えようとした指が、唐突に止まる。
薄闇越しに伝わるその空気を感じて土屋はそちらに近づいた。
緋咲は火のついてない煙草を咥えて自分の左手を見下ろしている。
「痛むんですか」
ジッポを握っている筈の、包帯を巻いた左拳は影になってよく見えなかった。
「別に」
端的な言葉は随分と冷ややか。
しかしいつまでもジッポは火を生もうとしない。
何か言おうとする土屋を鋭い視線が制した。
硬質な光を放つ双眸がきゅうと細められ自分への全ての言葉を拒否する。
そうしておいて、唇の煙草を摘んで投げ捨てた。
左手からジッポが重い音をたてて床に落ちる。
緋咲は何も言わずに土屋から視線を外した。
仄白い横顔はこちらの方を見向きもしない。
土屋は顔をしかめた。
どう見ても左の指が上手く動かないのは確か。
なのに、構うなと言う緋咲に少し腹が立ってくる。
そんな様子見せられたら構いたくなるのも普通だろ。
嫌なのは、腹が立つのは、
緋咲が強がりで構うなと言っているんではなくて、
おまえには関係無いから構うなと本気で言っている事だ。
それが分かってしまうぶん、嫌な時がある。
たぶん緋咲には決定的に欠けているものがある。
自分の身体への気遣いとかそういったものがまったく無い。
少しでもそんなのが頭の中にあってくれたなら、
壊れた拳わざわざ使って殴るとか
腹に穴開けたまま一晩中単車で走ってるとか
そんな頭悪いことしないだろ。
そうやって嫌になりそうなくらい他人を不安にさせておいて
平気な顔でそれを切り捨てる。
どうしろってんだよ。
「何シケた顔してんだ」
視界を投げつけられたタオルが塞いだ。
投げた本人は、さっきの事をもう忘れたように平然として土屋の顔を眺めている。
「……誰のせいでしょうね………別にいいですけど」
その声はぼそぼそと聞き取り辛く、緋咲は首を傾げた。
「は?」
「いいんです、それより」
土屋はそっと緋咲の左手首を掴んだ。
少し冷たい感触が伝わる。
自分の掌の方が熱かった。
「拳、触ってみてもいいですか?もう具合いいんでしょ」
間近にある緋咲の双眸が冷たさを増した。
テレビの反射光を浴びる片目がますます硝子玉めいて見える。
ふと緋咲が嘲弄混じりに笑った。
「触っても別に面白くねーだろ」
そう言って左手から力を抜く。
「ん、まぁ早く包帯取れたらいいなぁって……そーじゃないと、困りますよ」
あんたは、壊れている拳でも平気で使うから。
緋咲がその言葉をどう捉えたのか、分からなかった。
ただ黙って自分の左手を掴む土屋の指を眺めている。
土屋は慎重に指先で拳に触れた。
厚い包帯の感触。
そこから指の方に伝い降りる。
戯れに薬指を掴んだ時、触れられ慣れてないみたいに左手が軽く震えた。
ほらやっぱりまだ痛むんだ。
そういえば昨日もどこかで喧嘩してたみたいだったし。
また少し腹が立ってくる。
何か言ってやろうと、顔を上げた。
あ。
柳眉をほんの少しひそめる、その表情。
冷たい色の眼球で睫毛の影が揺れていた。
卑怯だ。
どんなに不満とか不安が溜まってても、
この人がちょっとこんな表情するだけで、流される。
気付いた時、冷たい色の双眸は間近にあって
そのまま唇を塞いでいた。


触れたのは一瞬、
すぐに緋咲は離れてしまう。
それはどうも反射的な動きだったみたいで、少し遅れてから初めて緋咲は驚いた顔をした。
次にその瞳は訝しげなものになり、それから酷く不機嫌な表情をする。
背筋を冷たいものが走った。
この展開は前と同じじゃないだろうか。
いや、状況は前より格段に悪いかもしれない。
今回は言い訳すら不可能。
まぁ、そんなのはこの人にとって無意味だけど。
「……この前といい、今日といい…てめぇはッ」
冷ややかな声は段々と重圧を増し、思わず顔を伏せていた土屋の肩に圧し掛かる。
白刃を突きつけられているような殺意の中、土屋は緋咲の拳が落ちてくるのを待ちながら口を開いた。
「……左手使うのは、止めてくださいね……」
それを聞いた緋咲は呆れたように小さな声で何か言う。
土屋はもう黙って床の一点だけ見据えていた。
視界に包帯を巻いた手が入る。
左は使うなって言ったのに。
その手が突然土屋の顔を上向かせた。
唇に感じたのは、さっきと同じ感触。
目の前で青白い肌に睫毛が影落している。
やっぱ睫毛長い、この人。
冷静にそこまで考えて、土屋はやっと状況を理解した。
緋咲さん?!
と言おうと開いた唇を割って舌が入りこんでくる。
それは首に絡んでいる緋咲の指と違って、熱く濡れていて
背筋をぞくりとするものが走る。
小さく濡れた音が響くのが酷く煽情的。
眩暈でもするみたいに頭の芯がくらくらして、何だかどうでも良くなってくる。
気持ち良すぎて。
首に絡む少し冷たい指の感触さえ快楽に変わった。
最後に緩く下唇を噛んで、緋咲は土屋から離れた。
濡れた赤い唇がゆるりと弧を描き、何か言おうとする。
その映像が麻痺状態だった土屋の脳味噌を揺さぶった。
「緋咲さんッ…!」
その左肩を掴んで押し倒そうとした瞬間、顎から脳天に向かって衝撃が突き抜ける。
緋咲のアッパーは見事に土屋をふっ飛ばしていた。
「俺とヤりたかったら、せめて俺くらいには上手くなれよな?」
辛うじて意識がある土屋を見下ろす冷たい色の双眸は、
思わず見惚れるほど艶かしい微笑を浮かべていた。
それは殴るより遥かに効果的で、土屋から「ひでえ」と一言洩らす気さえ奪ってしまう。
恨めしい顔をしている土屋を見下ろし、緋咲は楽しげに笑っていた。
そしてもう帰ると言って踵を返し部屋を出ようとする。
その背中に土屋は声をかけた。
「………緋咲さん」
「あ?」
「もう一回試してみません?さっきは意表を突かれてボーっとしてただけなんです」
「調子に乗んなよ」
それだけ言って緋咲は帰っていった。
最後にこちらを流し見た瞳は冷笑を浮かべながら、やはり艶かしくて。
軽い脳震盪を起してる土屋の頭の中に何度も浮んできた。
床に転がったまま目を閉じる。
そうすると緋咲の感触を思い出すような気がする。
「……俺ってあの人にスゲェ躍らされてる……」
口から零れた言葉はあんまりハマり過ぎていて反論も浮んでこない。
それでも、少し悔しかった。



薄闇の中、もう一度記憶をなぞり眠りに落ちる。





























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えー、相変わらずな土屋による観察誌第二弾です。
そして相変わらず緋咲さんが受けなんだか攻めなんだか、よく分からなくなってますな(泣)
小声でこっそり言うと、受けですよ。


とにかく全速力で脱出する