だから、結構な分からず屋だったりするわけだ。




 『 前言撤回 』




整わないままの吐息は耳の傍。
秀人はその背に回していた手を上に伸ばしていく。
掌に背骨を感じた。
撫で上げれば、秀人の首に腕を回して縋っていた身体が小さく震える。
視界の隅、紫色に染めた髪が揺れた。
項まで指を伸ばしてその髪を絡め取る。
秀人は、そうやって髪に指を絡ませるのが、わりと好きだった。
指と指の間をしなやかに通りゆく感触は楽しいような気がした。
たぶん、普段やらない分だけ、なおさらに。

やらないっつーか、やれねー。

今、殊勝にも、それなりに大人しく、秀人に凭れかかって、乱れた吐息を抑えようとしながら、
されるがまま、髪を梳かれている人間の、昨日の行動を知っていたら、
(それはまったく"血の海"が比喩ですらないのだ)
まともな神経の持ち主ならこんな呑気なことをしてやろうとは思わないのだろう。

そこまで考えて、つまり自分はまともな神経ではないのだと気づき、
秀人はそれも間違いではないのだろうと思った。
たしかに、頭のどこかがきっといかれている。
否定したいところだが、それは無駄な足掻きになるのだろう。
(ただし頭のいかれているのは向こうも同じ、だ。いや、むしろ自分より)

指先に髪は遊ぶ。
それすら汚した昨日の血はもうどこにも見られない。
洗い流してしまえば、まるで、無かったかのように。
おキレイな顔にはまった、あの底冷えするような色をする眼球もまた
今日は目蓋の向こう側で大人しくしているつもりらしい。
少し強く髪を引っ張る。
人の肩口に額をつけていた奴が顔を上げる。
伏せた睫毛の影は青白く揺れていた。
柳眉を僅かに顰めて吐息をつくその顔はやっぱり"お"キレイなんだろうが、
(実際間近にあると眺めるしかないんだが)
白い目蓋を下ろしたままのそれがどこか作り物めいて思えるのは、
いったい、こいつの感情が一番見えるのがやはりあの眼球だからなのだろう。
髪を掴んだまま名前を呼んでやる。
答えない。
長い睫毛がほんの少しまた震えただけ。
その下にある筈のガラス玉は色を見せない。
その奥で何を考えているのか教えない。
感じ取れないものを察するほど付き合いは長くないし、深くもない。
(けれどその薄さは剃刀のようなんだろう、きっと)
知っていることといえば頭のいかれ具合くらいだ。

それがわかっているなら後はどうでもいいとさえ思うが。

もう一度名前を呼んでやる。
ようやく息の整い始めた唇が何か言うように動いて、それだけで止まる。
下唇を舌でなぞれば薄く開かれたそこから濡れた舌が顔を出す。
緩く腰を突き上げた。
途端に息を詰める。
けれどやはりそれだけで、声を喉の奥で見事に殺してみせるこいつについてもう一つ知っていることは、
月の上を遥かにいくプライドの高さか。
まったく、可愛げがない。
やはり開こうとしない目がなにか癪で、頭突きでもかましてやろうかと考えながら、
(それはそれで多分面白いんだろうが)
掴んでいた髪を放して頬なんか撫でてやるのは、
もう片手で抱えたこいつの足がさっき派手に跳ねたせいだと思っておこう。


そうしたら。
可愛げがないと思った人間が、少し首を傾げる。
まるで自分から頬を摺り寄せるように。
その睫毛が掌に触れた。
顰めた眉のあたりが穏やかになったような錯覚。
目が開く。
こちらを流し見たその色は。









まったく、前言撤回。





















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なんか色々よく分かってなさそうな秀人くん。
互いに互いを「こいつアホだなー」と思ってるんだとおもいます。


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