『ボタン』
玄関のドアを開けてから気付いた。
ボタンが取れかかっている。
袖口の一つ、糸がだいぶ緩くなっている。
緋咲はドアノブを掴んだまま、柳眉をひそめた。
直そうにも部屋には針も糸も勿論ない。
だいたいそれっぽいことは小学校以来やったことがない。
違うのに着替えるのも、玄関からまた中に引っ込むにはブーツの紐がどうも煩わしい。
どうせ朝飯を食いに行こうとしているんだから、ついでに土屋のところに寄ればいいのだが、
確か数日前から出かけているはずだ。
相賀なら捕まるだろうが、こんなときには役に立たない。
じゃあ他に誰がいるかと考えて、なかなか思いつかない。
こんなときにどうにかしてくれそうな人間は皆、午前には捕まらない。
緋咲はボタンを鬱陶しげに見た。
ほんの小さなものだが、気付いてしまったからには放っておくのも癪に障る。
じゃあ、どうするのか。
そう考えて、ふと思いついた。
時計を見ると、まだ間に合いそうな気がした。
そしてドアは閉められる。
暫くして、晩秋の空にFXの排気音が轟いた。
間に合うような気がしたといっても、根拠は何もない。
それでも緋咲は、自分の勘がこういうときには滅多に外れないことを知っていた。
目当てのアパートに着き、そこにパールホワイトのFXを見て、
知らずうち唇が綻びる。
錆の浮いた階段を上がり、奥のドアの前で足を止めた。
ドアの向こう側にいる人間は、そこにいる緋咲にきっと気付いているだろう。
しかし部屋は静かだ。
アパートも、街も、冬の近くなった空も。
少し冷たい風の中、どこからか遅鳴きの虫の音がする。
その静寂を破ったのは、酷く重いものがぶつかり合ったような音だ。
緋咲はドアを蹴った足を戻し、小首を傾げた。
もう一回ぐらい蹴ってやろうかと考えるうち、ドアが内側から開かれる。
「……緋咲、てめえ……」
すこぶる嫌そうな顔をした秀人とは逆に、緋咲は楽しそうに笑った。
「おはよー、秀人クン」
その唇には悪意が浮かんでいる。
「おはよー、じゃねぇよ! バカッ。てめぇ、いっつも言ってんだろうが
!?
ドアいちいち蹴んなっ、てめえはバカか? いい加減覚えろ!」
「朝からバカバカうるせーな、バカ」
緋咲は平気な顔で玄関に入ると、靴紐を解くために屈もうとした。
その襟首を掴んで秀人が立ち上がらせる。
「おまえな、今日は何しに来たんだか知らねーけど、俺はもう学校行くからな」
緋咲は秀人の学ランを一瞥した。
「今から行ってもどうせ遅刻だろ」
「いーんだよ、今日はそのつもりだったから」
「じゃあ、もう少し遅刻しろ」
そう言った緋咲は壁に背を凭れたまま、片足を曲げて器用に靴紐を解いていく。
秀人は呆れたような溜息をつき、ドアを閉めた。
小さく笑う緋咲の頭を軽く殴ると、取敢えず部屋の中に戻り、
「緋咲、おまえ何しに来たんだ」
今日はもう学校に行けないなと思った。
「大したことじゃねーよ」
ようやく緋咲は玄関から部屋に上がると、秀人のベッドの上に、
そこがまるで自分の定位置であるように腰をおろした。
「これ」
そして左の袖を秀人の方に突き出す。
「なんだよ」
「ボタン」
秀人は袖口の、糸の緩くなったボタンに気付いた。
「……で?」
「よろしく」
「俺に直せっていうのか」
「ん」
秀人はまじまじと緋咲の顔を覗きこんだ。
「……普通ねぇぞ、そのためにわざわざ横浜まで来る奴」
冷たい色をした瞳がきゅうと細められ、笑う。
「他にいねーんだよ、秀人クン」
針と糸は手際良く、眺める瞳はぼんやりと。
「ホントにやっちまうしな……」
「やらせてから言うな」
「あ、ついでに朝飯も」
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たとえ小さなボタン一つだろうが秀人くんちに行く口実として有効利用。
そんな緋咲さん。
でもその優先順位は最下位らしい。
秀人くんは、家事をやれてもいいと思ってるんです。
緋咲さんはやれないんじゃなくて、やらない。この違いは重要ね。
←もう帰る。