『12月25日』



息を吐く。
柔らかな白い塊は戸惑いがちに流れていく。
呼吸を止め、瞳を閉じれば、意識はすーっと澄んでいく。
妙なくらいに気分がいい。
目を開ければ、深い、暗い、紺青世界。
雪が降る。
きんと張り詰めた寒さの中、この意識はどうしてか雪のように柔らかだ。
触れた途端に溶けていく。

「酔った……」





はたと足を止めた。
そして、秀人は何気なく携帯を取り出し、画面を見た。
見る前から、着信が無いのは分かっていた。
しかしそれでも確かめてみた理由を、秀人は自分でも上手く説明出来ない。
――何となく。
そんなものが結局のところ全てなんだ。
けれど、その「何となく」がさっきから頭の片隅に陣取って足を止め、グズグズさせている。
何かが引っ掛かっている。
何かを忘れている。
「どした?秀」
少し先を歩いていた吉岡が振り返る。
「いや……なんでもねぇ」
何かを気にしていることは確かだったが、じゃあそれが何なのか、というと分からない。
秀人はもう一度、なんでもない、と繰り返すと携帯を仕舞った。
足を止めた二人に向かって、また少し遠くからオっくんが怪訝そうに声をかける。
普段から声はでかいが今日は酒が入ってる分いつもの倍だ。
隣にいる大介がそれをからかって笑っている。
秀人もちょっと笑って、それから歩き出そうとした。
すると白いものが目の前を落ちていく。
雪だ。
仰ぎ見れば街路灯の明かりの中、雪は柔らかに照らされる。
「寒ぃな……」
思わずそんな言葉が出た。
その瞬間、秀人は足を止めた。
青白い何かが頭の中で閃いた気がした。
そして、さっきから何となく引っ掛かっていたものの正体に気付く。
しかし同時に、そんな筈は無い、とも思う。
あいつは、そんな事をしないだろうと思いつつ、あいつだったらやりそうだとも思ってしまう。
頬に雪が触れた。
冷たさが撫で落ちた。
「吉岡」
振り向いた吉岡に、秀人はパンと両手を合わせた。
「悪い、もう俺抜ける」
きょとんとした吉岡にどう説明しようか困る。
胸の内でもやもやしていたものは半ば確信になっていたが、確証は無い。
だいたい吉岡に説明できる話でもない。
珍しく歯切れの悪い秀人を眺め、
「なんか他に用事あったんか?だったらそっちにも顔出さねーとなんだろ」
吉岡は言った。
その理解ある言葉がありがたい。
実際は、用事とは少し違うのだけれど。
「ホント悪い。もし何も無かったらソッチに顔出すから」
もう一度丁寧に両手を合わせて、秀人は踵を返した。
背中で吉岡が笑っている。
たぶん、否きっと勘違いしてる。
吉岡が思うほど面白いことじゃあない。

詰まらないことではないけれど。





視界は、深い、暗い、紺青世界。
雪は柔らかに、けれど途切れなく降り、アスファルトに触れて溶けていった。
きんと冷えた夜気の底を秀人は足早に行く。
自分のアパートまで戻った時、辺りは静まり返っていた。
深夜も過ぎているから、どの部屋も明かりはついてない。
その何割かはこんな日だから何処かに出掛けているのだろうけど。
錆びた細い階段を上がると、自分の部屋の前に誰かいるのが分かった。
ドアに背を凭れて座り、足を投げ出している。
それが誰なのか分かっていたから別に驚きはしない。
「おい」
その声が聞こえなかったのか、そいつは顔も上げようとしない。
秀人は近付き、屈んでその顔を覗きこんでみた。
「緋咲」
青白い目蓋は伏せられて、睫毛の影が微かに揺れた。
寝ているのかもしれない。
「おーい、雪山遭難じゃねーんだからな。何してんだよ、変なとこで寝てんなよ」
頬に触ると、ひやりとした。
薄く、緋咲が目を開ける。
「……寝てねぇよ」
「ウソつけ」
「寝てねぇ。ちっと酔っただけだ」
「ふぅん?珍しいじゃねーか」
「……ん。そんな事ねぇよ」
物言いはどこか曖昧で、確かに緋咲は酔っていた。
それは多分、やっぱり珍しい。
「足がねぇんだ、今日」
「だからって人んちのドアの前で寝んなよ。すげぇ邪魔だろ」
呆れたような声に、緋咲は顔を上げた。
茫としていた双眸にいつもの嘲弄が煌く。
「秀人クンは」
艶然と微笑する唇が楽しげに囁いた。
「何でここにいるんだろうな?他に約束あったのになぁ」
緋咲は別に秀人の行動を知っていたわけじゃない。
ただ、それがそうあることには確信を持っていた。
「うるせぇな」
秀人はぶっきらぼうに答える。
「だいたい何でこっちにいんだよ。足がねぇんなら適当に何処かに転がり込んどきゃいいだろ。
わざわざ人んちのドアの前にいそうな奴がいると思ったから帰ってきてやったんだよ」
「ご苦労な事で……」
「俺も本当にそう思う」
悠々として言いきる秀人を緋咲は鼻で笑った。
秀人は腰を上げる。
「ま、いいや。いいからそこ退け。ドア開けっから」
「ん……秀人」
「なんだよ」
「ちょっと」
自分を見下ろしている秀人を、緋咲は座りこんだまま手招きした。
「これ、なんでこんなグダグダなんだ」
緋咲は秀人が首にしているマフラーを軽く引っ張った。
それが大分緩くなっていたことに秀人は始めて気付いた。
「もう中入るから別にいいだろ」
「気になる」
秀人はマフラーの端を摘んで弄んでいる指を眺め、意外と几帳面な緋咲の性格を思い出した。
「もう少し屈め」
言われた通りにすると、慣れた手付きでマフラーを直していく。
その時、緋咲の瞳が冷たく煌いた気がした。
「待った」
次の瞬間、秀人はマフラーを持つその手首を掴んでいた。
「緋咲、今おまえ絞めようとしただろ」
「だってグダグダだから」
「そうじゃなくて、首絞めようとしただろ」
「……グダグダ言うから」
緋咲は艶かしい悪意に満ちた微笑を浮かべると
「ホラ、手放せよ?できねぇだろ」
素知らぬ顔で綺麗にマフラーを直した。
秀人は難しい顔をしてマフラーと緋咲を見比べた。
「これ、中に入ったらどうせ外すんだからな」
「勝手にしろよ」
そのどこか満足そうな顔を一瞥し、秀人はドアのカギを開けた。

「変な奴」


























++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
密やかにマフラーネタ第二弾でした。
クリスマスに日記で書いてたものです。
ちなみに。
マフラーネタと聞いて僕が真っ先に思うのは、
一つの長〜いマフラーを二人でするというネタか、↑の殺人マフラーネタです。

緋咲さんが几帳面かは微妙な話だと思いますが、28巻によるとどうやら潔癖症ではあるらしいですね。
……まあ、意味が少し違いますが。


さ、帰ろうかな。