『えぷろん』 それはある日のこと。 平蔵はカバンを覗きこむと数学の教科書がないことに気付いた。 途端に担任の嫌味ったらしい顔を思い浮かべる。 教科書を忘れたと知ったら、きっと一ヶ月はそれをネタにちくちく言われるだろう。 平蔵の様子に気付いた周りの連中が冷やかす。 「うっせーよ!しょーがねーな、薫ちゃんから借りてくっか…」 隣のクラスにいる友人なら、きっと全教科を学校に置いたままだろう。 廊下に出ようとすると後から声をかけられた。 「でも隣って確か調理実習だろ。クラスん中誰もいねーよ」 「うそ?」 廊下に立つとその言葉の通り、隣の教室は休み時間なのに静かだった。 「なんだよ…。んじゃあ他の奴んとこ行こうかな」 ぼやきながら歩き出す。 隣のクラスを通りすぎようとして、ふと足を止めた。 誰もいないと言われたの中を覗きこむ。 窓の外、憎らしいくらいの青空。 太陽の光がきらきら反射する机に両足を乗せ 椅子に寄りかかり、うつらうつらとしているのは。 「薫ちゃん?」 濃紺のエプロンをした緋咲だった。 左胸のあたりに“第三実習室”の白い縫い取りがある。 たぶん調理実習の途中で一服しに戻ってきたんだろう。 少し長めの髪までご丁寧に白い三角巾でまとめられていた。 窓から差しこむ溢れんばかりの光は 濃紺と白とを鮮やかに浮かびあがらせる。 それはなんだか、清々しいまでに胸抉る衝撃だ。 「薫ちゃん」 平蔵が近づくと緋咲はようやく目を開ける。 「…なんだ、平蔵か」 ぼんやりしている緋咲を尻目に、平蔵は遠慮なくその頭を撫で回した。 「うわぁー、うわぁー、頭超面白ぇー!!」 「触んなよ!」 邪険に腕を払われても構わない。 平蔵は満面の笑みを浮かべると、緋咲の机に腰を下ろした。 「へぇー、エプロンねぇー、真面目に調理実習出たんだー。 薫ちゃんて何すんの?包丁とかちゃんと握れんの? 無理でしょ。薫ちゃんが包丁持つと回りの奴ひかない? つーかぶっちゃけそういう格好似合わないね」 何気に失礼なことを捲し立てる平蔵に、緋咲は鼻でせせら笑ってうそぶいた。 「バーカ、俺に出来ねぇコトなんかねーよ」 濃紺のエプロンに白い三角巾。 椅子の上にふんぞり返った姿は、細く紫煙をくゆらせガラ悪い。 その白い指に包丁を持っている絵を想像してみる。 してみる。 ……無理だった。 頭の中で包丁はあっさりもっと恐ろしいものに挿げ替えられる。 思案の末、平蔵は徐に頷いた。 「よし。じゃあこれから薫ちゃんがちゃんと実習してるか見に行こうかな」 「あん?来んのかよ。……もう帰ろうかって思ったのに」 「いいからいいから。なかなか無いし、こんなコト。うん」 言いながら平蔵はいつまでもエプロンを摘んで弄んでいた。 緋咲は小首を傾げて一言。 「これ着たいのか?」 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++ やはり『えぷろん』は…夢かと… お帰りはこちら。 |