月は薄ぼんやりと。
風は緩やかに。
雲はのろのろ這い進み、背高すすきがゆらりゆらり。
柔らかな腕を戦がせて、あの朽ちた寂しい壁を指し示す。
青褪めた建物だ。
どこもかしこも色褪せて、崩れて。
ぼんやり月の光の下 不規則不定な影で泣いている。
身を震わせてむせび泣いても、誰一人だって聞いてやしない。
いつだって夜は真っ黒だ。
その風景には見覚えがあった。
偶々つけたテレビに映っていたのは夜。
闇の中に黒々とした影でそびえ立つ建物は、もとは病院のはずだ。
生温い風が草を渡り、頬を撫でていくような気がする。
そしてあの匂いだ。
『………××病院は10年前に閉鎖され、今も放置されたまま………』
逃げ場がなくて空気が淀んでいるんだ。
その中に微かな匂いが混じっている。
もう随分と前に閉院されたくせに、どうしてまだ消毒の匂いが染み付いているんだろう。
あの時、瓦礫の散乱した廊下に立ち、奥へ広がる闇を見据えながら
考えていたことはそんなものだったような気がする。
煙草を銜えながら、秀人は思わず笑い出しそうになっていた。
テレビ画面には“死者が呼ぶ!呪われた病院”という赤いテロップがあったからだ。
我慢できずに笑いながらベッドに腰を下ろす。
そこに寝ていた人間が身動ぎしたが気にしない。
テレビ画面ではリポーターが後ろを指差し、夜闇に浮かぶ廃墟の影に怯えている。
ここだけ空気が違うだとか地元の人もここには近づかないとか、心霊もののセオリーを忠実になぞった喋りは滑稽。
だいたいそんなとこに用がないから近寄らないだけだろ。
そう思いつつ、秀人の視線は画面の上にあった。
リポーターはようやく廃墟の中に入ってみるらしい。
背中に蛾が一匹とまっていた。
「……ぇ……」
その時、秀人の背中で小さな声がした。
脇腹に軽い衝撃がくる。ベッドで寝ていた人間が布団を被ったまま肘鉄を食らわせたらしい。
唸るような不機嫌な声がした。
「どけ、クソバカ野郎」
布団から顔を出したソイツの細い鼻梁には真横に走る傷跡があった。
「人に体重かけて寄りかかってんじゃねぇよ、デブ」
緋咲は寝惚けた声で言うとまた眠ろうとする。
「悪ぃな」
秀人は軽く腰を上げようとして、そのまま勢いをつけて肘を緋咲に落とした。
小さな声が漏れる。
「おまえさー、ホント口悪いな?だいたい俺がデブならおまえもだろ」
お遊びの証に秀人はずっと笑っていた。
「人の布団でずっと寝てたくせにエラソーなんだよ。ま、いいからさっさと起きて…」
そこまで言った瞬間、突然背中が突き上げられたかと思うと後頭部に重い一撃を食らった。
衝撃でつんのめりそうになる。
「何してんだ?」
緋咲は緩慢に身体を起こすと、素知らぬ顔で乱れた前髪を掻き上げた。
「……緋咲、おまえ本気で蹴ったな?」
「当然だろ」
秀人はゆっくり立ち上がる。緋咲はそれを小首を傾げるように見上げた。
二人は剣呑な笑みを交わした。
互いに悪態をつこうとした瞬間、音がした。
さして大きな音ではない。けれど、何故か二人とも口を噤んでしまう。
そしてテレビの方を向いた。
『……聞こえましたか……』
リポーターの愕然とした声。
画面は闇夜。リポーターが高く指差す。
『……今、確かに音が……あの廃墟の方から音が……』
まただ。
声に被さるようにもう一度。
濁った低い音だ。
不規則に間延びしたそれが濃密な闇の中に澱のような沈黙を垂れ流す。
赤い陳腐なテロップは染み込むように消えていった。
「……おい」
先に口を開いたのは緋咲の方だった。
立膝に頬杖ついた白い指が苛々とこめかみのあたりを叩いている。
「つーか何こんな悪趣味なもん見てんだよ。寝起きにくだらねぇもん見せんな」
「ヒマなんだよ。しかもどっかの誰かは俺の布団でずっと寝てやがるし」
呆れたような溜息をつく緋咲とは逆に、秀人はどこか楽しげで。
「緋咲」
「なんだよ」
「××病院の話、知ってんだろ」
銜えた煙草に火をつけぬまま手の中のジッポを弄ぶ。
視界の端で緋咲がちょっと嫌な顔をしていた。
「……地下が閉鎖病棟になってるって奴か?そん中にいた奴等が全員殺し合いしたって話の……」
首肯してテレビの方を指差す。
緋咲はゆっくりそちらを向き直り、そして
「……秀人、てめぇまさか」
同じように画面を指差した。
秀人は一つ頷くと
「××病院って、ソレな」
煙草に火をつけて、にっと笑ってみせた。
テレビ画面ではカメラが廃墟の中に入ったらしい。
照明が割れた窓ガラスや散乱した瓦礫の上に心細い光を揺らめかせる。
「……くだらねぇ話」
「緋咲は行ったときねーんだ?」
「無い」
言い切る声は不機嫌。
けれど冷たい色した眼球の表面にはテレビの光が映りこんだまま。
睫毛の長い影がゆっくりと揺れている。
秀人はまじまじとその表情を眺めると、
「じゃ、行くか」
あっさり言った。
「は?」
「言ったろ、ヒマだって。おまえだってさっきのちょっと気になってんだろ?」
「なってねぇよ!決めつけんなッバカ」
「ま、ホント言うと行ってもつまんねーと思うけどな。何もねーもん」
「行ったことあんのかよ」
「中坊んときな」
緋咲は柳眉を顰めて秀人を見上げると、口の中だけで呟いた。
「……つまんねーなら行かなくてもいいだろ」
その声は、なんだか少し歯切れが悪いみたいで。
睨むような冷たい瞳の底で仄かな影が揺らめいている気がする。
秀人は思わず、頭に浮かんだ事をそのまま口にしてしまった。
「緋咲、おまえ怖いんだろ」
緋咲の双眸がきゅうと細められ、そして。
月もなく。
星もなく。
目玉を食われたような闇だ。
秀人がFXのエンジンを切ってしまうと、生温い沈黙が肌にひたりと吸いついてくる。
虫の音も聞こえぬ夜の底、物言わぬ大きな影がそこに立っていた。
秀人は単車に跨ったまま、朽ちていく廃墟の影を見上げ煙草を銜えた。
口の端にまだ血が滲んでいるようで、少し痛む。
「緋咲」
ふと後を見ると、そこにいた筈の奴がいない。
緋咲はさっさと降りて歩き出していた。
壊れかけた門を通りぬけ、闇より暗い入口に向かう足取りに躊躇がない。
どうやら心底怒っているらしい。
「よー、緋咲くーん?」
軽く言うと、ものすごく冷めた目で見られる。
秀人は肩を竦めて後についていった。
ぬるい夜風が傍らを吹き抜け、辺り構わず生えていた雑草が低く囁く。
黒い風は大きく廃墟を廻ると奈落のような空に吸い込まれていった。
廃病院の中に一歩足を踏み入れた途端、秀人は閉口した。
闇はどこまでも広がり、空間を掴む感覚が狂いそうになる。
とりあえず深く紫煙を吸い込んだ。
「遅ぇ」
不機嫌な声が意外と傍から聞こえた。
「おまえがさっさと行ったんだろ。煙草くらい吸わせろ」
来る前にコンビニで買った懐中電灯をつけると、すぐ隣にいた緋咲が眩しそうに瞬きする。
「向けんなッバカ」
その目はまるで色の冷たいガラス玉だ。
「向けんなつってんだろ」
緋咲は秀人の持つ懐中電灯を辺りに向けさせた。
小さな光の輪が動き、瓦礫や割れたガラス、壁一面の落書きを照らし出す。
かなり荒れていた。
乏しい明かりが及ばぬ先には濃密な闇が続いている。
緋咲はじっと暗がりを見据え、
「嫌な匂いがする」
呟くように言った。
「もとが病院だからな」
黴臭い空気に混じって病院特有の匂いがした。
塗装のぼろぼろに剥がれた壁には消毒臭が染み付いているのかもしれない。
閉院されていた年数を忘れさせるほどに。
堆積した空気の中を紫煙が緩やかに流れていく。
緋咲は軽く秀人の胸を叩いた。
「一本くれ」
「自分のは」
「……部屋に忘れたみてぇ」
煙草をもらった緋咲は、秀人が小さく笑っているのを見て顔を顰めた。
「なんだよ」
「いや?……なーんか余裕ねぇなって」
その笑顔に向けて細く紫煙を吐き出した緋咲は、殺意のこもった微笑を浮かべた。
「三万回死ね」
そして一人でさっさと歩き出し、すぐに懐中電灯の明かりが届かない先に消えた。
夜目がかなり利くのか、瓦礫につまずくような音は聞こえない。
だが一度、明らかに何かが壊れる音がした。
「おいおい。おまえ、ちっと怒りやすいよ」
秀人が歩いていくと無残に蹴り開けられたドアがあった。当の本人はもういない。
試しに入ってみる。
元々何の部屋だったのか分からないが、瓦礫の中で壊れたロッカーが幾つか横倒しになっていた。
壁は所々崩れて中身を見せ、錆の浮いた配水管がとっくに役目を終えたくせにじっとりと空気を濡らしている。
それらを懐中電灯でぐるりと照らすと、秀人は床に視線を転じた。
散乱した瓦礫の間を小さな明かりでなぞっていく。
「……何やってんだ」
振返ると、ドアのあたりで緋咲がちょっと顔を覗かせていた。
秀人が中々来ないから戻ってきたらしい。
真っ暗な廊下を一人で歩くのは確かに気持ちの良いものじゃないだろう。
「緋咲」
手招きすると緋咲は嫌な顔をした。
「いいから、ちょっと」
「なんだよ」
渋々部屋に入り、床を照らす乏しい明かりと秀人を見比べる。
「……中坊んときな」
秀人は唐突に話を始めた。
「一緒にここ来た奴の一人がどっかの部屋で昔のカルテ拾ったんだよ。
で、面白ぇからソレ家に持って帰ったんだ、そいつ」
圧し掛かるような闇の中、小さな明かりの輪をじっと見下ろす秀人の声は淡々としている。
「そしたら夜中に電話がかかってくんだよ」
「……どこから」
「この病院から」
緋咲の口許がほんの少し引き攣った。
「カルテが必要になったから返してくれって電話が来た。
でもソイツはその電話が一緒にここに来た奴がふざけてんだって思ったから、返さねぇって答えたんだよ。
そしたら、取りに来るからって言われた。で、その電話切れちまったんだけどな」
秀人はフィルタ近くまで短くなった煙草を踏み消した。
「俺、それからソイツに会ってねーんだよ」
「……嘘だろ」
秀人はゆっくりと顔を上げ、間近にある緋咲の瞳を覗き込み、囁いた。
「ウソ」
そして素早く言葉を続ける。
「そいつが俺のダチってのは」
にっと笑うと、緋咲は何か言おうとしたが結局上手く言えず、ただ短く罵倒した。
「てめぇホントむかつくな?」
「まぁ、そんな噂もあるって話……」
その時、携帯が鳴った。
場違いに着メロが闇の中へ響き渡る。
聞き慣れたそれに秀人は口を閉ざし、自分の携帯に触れてみた。
ふと顔を上げると、緋咲も同じように携帯を出そうとしている。
数瞬、視線が絡む。
緋咲は切れ長の瞳を大きく見開いていた。瞬きもしないそれは造り物めいている。
鳴っているのは、緋咲のだ。
緋咲はゆっくり視線を下ろし、誰からの着信なのか確かめた。そして
「……土屋かよ……」
思い切り溜息をついた。
よほど脱力したらしく、緋咲は一度切る素振りすら見せた。
「……いきなり電話すんなッバカ!」
面倒そうに電話に出る声は溜息の余韻を未だ引き摺っていた。
「おまえ、それ八つ当たりだろ」
「うるせぇよッ……あ?土屋に言ったんじゃねーよ。おまえも充分うるせぇけどな……」
秀人は新しい煙草を銜えながら密かに笑った。
緋咲の声は機嫌が悪いのか安心してるのかよく分からなかった。
「――分かった」
電話を終え、携帯を仕舞った緋咲はちらりと秀人を見た。
「俺はもう行くからな」
「何かあったか?」
緋咲は気怠く首を横に振る。
「ふぅん。ま、いいけど……さっきのはちっとタイミング良すぎてビビったな」
「別にビビってねーよッ」
「そうか?俺は結構ビビったぞ」
紫煙を燻らせる秀人の笑顔を睨み、緋咲は憮然として言った。
「んなコト全然思ってねーくせに言うんじゃねーよ」
それが更に秀人を機嫌良く笑わせる。
緋咲は先に歩き始めた秀人の背中を無言のまま蹴った。
その拍子に懐中電灯が秀人の手から滑り落ちる。
「あ」
床に落ちたそれはどこかの接触が悪くなったんだろう。弱く明滅して明りが消えた。
途端に何も見えなくなる。
目を開いても閉じても変わらないような闇がどこまでも広がる。
「……緋咲、おまえいきなし蹴んなよ」
秀人の傍らで闇が嘲笑った。
「懐中電灯、てめぇの左足の前に落ちてる」
「見えねぇよ」
秀人はとりあえず声が聞こえる方に腕を伸ばした。
指に何かが触れる。ひやりとして少し冷たい。
「触んな」
掌に唇の動きが伝わる。頬を触っているらしい。
「見えねぇんだよ」
そのまま指を滑らせると柔らかい唇に触れた。
そっとなぞるうちに軽く食まれ、濡れた舌が指先を舐めた一瞬後、
「痛ッ!」
鋭い痛みが走る。
「今、本気で噛んだろッ」
「てめぇが突っ込むからだろ?バーカ」
艶かしい悪意が闇の中で微笑んだ。
瓦礫を踏む音がした。緋咲が懐中電灯を拾おうとしているらしい。
すると細い光が一瞬だけ視界を明るくした。
その時秀人は、緋咲の手が床に落ちていた懐中電灯にまだ届いていないのを見てしまった。
すぐにまた部屋は暗くなる。
そして足音がした。
緋咲は一歩も動いていない。
足音は近づいてくる。
また一瞬だけ視界が明るくなった。ドアの方から光が入るらしい。
立ち上がった緋咲の双眸は、透明な冷たさを孕んでいた。
秀人は銜えた煙草を摘んで床に落とす。
「……足音がするなら」
「足があんだろ」
「だったら身体もあるな」
「それなら殴れるな」
「だったらいつもと変わんねーな」
次に光が視界に入った瞬間、秀人は壊れて外れかけたドアを完全に蹴り飛ばした。
刹那、声にならない声が響き渡る。
「バカーッ!いきなり何すんだよ!?死ぬほどビビったじゃねーかッ」
秀人は、目を大きく見開いて怒っている少年、真里を見て驚いた。
「おまえ何してんだ」
真里は、懐中電灯を持ってやはり青い顔をしている秋生にしがみついたまま半泣きに近かった。
マトモに喋れない真里に代わって秋生が話す。
「賭けしてんだよ、マー坊は」
「賭け?何の」
「ここのもんだってちゃんと分かる何か持って帰れたら、俺の兄貴がマー坊にアイスおごってやんだよ」
どうも秋生はそれに付き合わされているらしい。
真里は困った顔で秋生を見上げ、小さく謝った。
「ゴメン、アっちゃん」
「気にすんな」
「でも、ハーゲンダッツ一週間食べ放題って言われたら賭けに乗らなきゃだろ!?」
一週間分のハーゲンダッツを秀人は想像してしてしまった。
ちらりと秋生の方を見ると、同じような想像をしたらしく真里から目を逸らしている。
「夏生さんてば絶対無理だと思ってんだよ!?だから俺は絶対!夏生さんにおごらせてやるッ」
元気良く宣言した真里は、それでも秋生の肘を掴んだままだった。
「それでさ?来たら秀人のFXがあったから、いるとは思ったんだけど……秀人は何してんの?」
秀人が何と言おうか迷った時、緋咲が部屋から出てきた。
面倒そうに三人の顔を見ると、持っていた懐中電灯を秀人に渡す。
「緋咲?」
真里は小首を傾げて冷たい双眸を見上げた。大きな目を丸くして、秀人と緋咲を何度も見比べる。
そして言った。
「おまえら、仲良し?」
秀人は一度、ぐっと堪えた。
が、すぐに堪えきれなくなり背中を向けて大笑いし始める。あんまり笑って苦しくなりながら、
「あ、ありえねぇ……」
それだけ何とか口にした。
緋咲は暫く愕然と立ち尽くしていたが、ふと自分の首に手をやって呟いた。
「鳥肌立った」
笑い過ぎてむせていた秀人がその腕を取る。
「あ、ホント」
「だろ。あぁもう今日一番怖ぇのはコイツだ、コイツ。いきなし何言いやがんだよッ」
「俺、笑いすぎで喉痛ぇよ」
「てめぇはそのまま笑い死ね」
二人の遣り取りを眺めていた真里は難しい問題を解いているような様子で言った。
「だから、やっぱり仲良しなんだろ?おまえら」
すると二人は顔を顰めて真里に向き直り、
「違ぇよ、バカ」
異口同音に断言した。
廃墟の外、夜空では雲が柔らかに千切れ、細い月が白々とした光を振り撒いていた。
秀人から煙草をもらった緋咲はぼんやりと紫煙を燻らせ、思い出したように呟く。
「さっき言ってた夏生って、爆音の六代目だろ」
FXに寄りかかっていた秀人が顔を上げる。
「何かあんのか?」
「いや…どうでもいいんだけど、ソイツもさっきの話知ってんのかな」
「病院から電話がかかってくるアレか?……知ってるだろ、俺等より上の奴は大抵知ってるし」
言いながら秀人は緋咲を見た。
どうやら緋咲も同じことを考えていたようで、冷たい色の瞳には珍しく哀れみに似たものが浮かんでいる。
「ま、頑張って欲しいな。アイツには」
二人は、月を背負ってそびえ立つ大きな影を見上げ、小さく笑いあった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
えー、実存する特定の建築物に基づいて書いたわけではありません。
ただ、病院から電話が来るというネタは全国津々浦々の廃病院にあるらしいので、一種の都市伝説だと思われます。
あ、あと一部ネタをパクってます。元ネタは新井理恵の×っす。誰かに言われる前に言っちゃいます。
夏にやってる心霊モノって何故か見てしまいませんか?しかも時間的に晩飯時なんすよね、そういうのって。
とりあえず遁走する