昨日の曇り空は今朝になって冷たい雨に変わっていた。
『動物の眠る場所』
雨が小さく窓を叩いている。
そんなものをぼんやりと聞きながら、秀人は紫煙を吐いた。
今朝は、本当は学校に行くつもりだった。
しかしアパートの部屋を出ようとした瞬間、いきなりの雨だ。
冷たいみぞれ混じりの雨は、まるで白い線のように降りしきっていた。
空も、街も、目に映るもの全てが深い霧の中のようで、
雨音に包まれ霞んでいく。
指を外しかけていたドアノブを握り直し、秀人は扉を閉めた。
そうして今、制服のままベッドに寝転んでいる。
こんな日に外に出るのは馬鹿らしかった。
だいたい、そこまでして学校に行くほど熱心では決してない。
しかし、FXを動かせないのは詰まらない。
そう思うと着替えるのも億劫になって、ただ煙草ばかり燻らせている。
滲む紫煙に雨音が混じった。
窓の外に目をやっても、空は妙に白々と明るいまま。
冷たい雨は降り続ける。
目をまた部屋の中に戻した。
見慣れた天井に紫煙が消えていくだけだった。
何か、と考える。
ぼんやりしたまま、何かないのかと考える。
このまま雨音に身体が浸っていくだけでは詰まらな過ぎる。
その時、玄関で鈍い音がした。
それは三度、重く響く。
一瞬に秀人の双眸は鋭くなった。
その音が、ドアを蹴ったものだということはすぐに理解した。
そして、わざわざそんな風に秀人を呼ぶ人間は一人しかいない。
「……あのバカッ」
そいつは今まで何度言っても、はた迷惑な呼び出し方を止めようとしなかった。
そうやって秀人に扉を開けさせるのを楽しんでいるのかもしれない。
「てめぇッ いい加減にしろ」
勢い良く開けたドアの向こう側に、緋咲の冷たい色をした瞳があった。
緋咲は、秀人が既にキレそうになっているのに感づくと、面白そうに唇を吊り上げる。
その目に悪意がちらついていた。
「……雨の音がうるせーから、あれくらいで丁度いいだろ?」
秀人は思いきりドアを閉めてやろうかと思った。
しかしそうしなかったのは、目の前に立つ緋咲がどんな様子なのか気付いたからだ。
どうやらここまで来る間、この雨の中を傘も差さずに歩き続けたらしく、
髪から服までズブ濡れになっている。
睫毛にかかった水滴が、瞬きとともに零れ落ちた。
一言でいえば、酷い有様、なくせに
その双眸はいつもどおり冷ややかな嘲笑を浮べている。
「バカか てめーは」
秀人は不機嫌に吐き捨てると、有無を言わせず緋咲の腕を引いて部屋に入れた。
「この雨ん中歩いてる奴はただのバカしかいねー」
「うるせぇよ」
緋咲もそれは充分理解しているようで、面白くもなさそうに言う。。
「こっちは単車乗ってねー時にいきなり降られたんだからしょーがねーだろッ」
「運が悪ぃ奴」
何気なくそう言った瞬間、秀人の鼻先を無造作な裏拳が通り過ぎていく。
本気ではないにしろ、食らったら痛いだけでは済まされない緋咲の拳を、
殆ど無意識で躱した瞬間、秀人は自分の足許に何かがいることに気付いた。
視線を降ろす。
その何かを秀人は危うく踏みそうになっていた。
「……緋咲、コレ何だ」
「猫だろ」
いつのまにか入りこんでいた小さな猫は、答えるように可愛らしく鳴く。
緑色の丸い目が秀人を不思議そうに見上げていた。
「んな見て分かるコト俺が聞くかッ。……コイツ、緋咲が拾ったのかよ?」
「バーカ。んな面倒くせーことすっかよ、この俺が」
それは妙に納得させられる答だった。
が、ではこの猫は何なのか。
「とにかく、風呂貸してくれ。寒ぃ……」
そう言って勝手知ったように風呂場に行く緋咲の後を、その子猫がくっついていく。
どう見ても緋咲に懐いていた。
「……ふぅん?あいつでもそんなコトすんのか……」
似合わねぇと小さく笑った秀人は、ふと開けっぱなしの玄関に目をやった。
ドアの向こう側から、小さな鳴き声が聞こえてくる。
そっと近づくと、そこにはまた猫が数匹くつろいでいた。
雨が当たらなくて丁度いいのか、濡れた体をぶるぶると震わせたりと、
好き勝手にミャーミャー鳴いている。
秀人は、静かにドアを閉めた。
「……何なんだ?」
結局、秀人は先ほどと同じようにベッドに寝転がり、新しい煙草を銜えている。
顔を上げれば子猫が床で丸くなってるのが見えた。
こいつと、玄関の外でくつろいでる奴等。
何が何だか知らないが、この雨の中、猫を引き連れて歩く緋咲の姿を想像すると、
思わず笑えてくる。
似合うんだか、似合わないんだか分からない。
不意に雨音が強まったので、秀人は窓を見た。
白く曇ったその向こう側は、少し風が出てきたらしい。
緋咲は良い時に来たのかもしれない。
床の猫が小さく鳴いて、駆け出した。
「なんだ、てめぇまだココにいたのか」
緋咲の声がした。
秀人の服を借りて部屋に入ってきた緋咲は、足にじゃれついてくる子猫を適当にあしらいながら、
「ふん……まだ降ってやがる」
外を一瞥し、ふと秀人の方を向き直る。
そうして自分と猫を面白そうに見比べている瞳を見つけ、柳眉を顰めた。
「なんだよ」
「別に。……つーか頭拭けよ、水たれてる」
言われなくても分かってる。
緋咲の目がそう言っていた。
無造作にタオルで髪を掻き回しながら緋咲はベッドに腰をおろす。
子猫もベッドに登ろうと苦心するが、爪が上手く引っ掛からない。
緋咲はその背を摘むようにして助ける。
秀人は煙草を銜えたまま、ほんの少し笑った。
「……で?こいつ、とまだ外にもいたか、こいつらは何なんだ?緋咲」
「ノラ猫だろ」
「だからンな見たら分かるコト聞いてねーよ」
冷たい色をした瞳がちらりと秀人を見下ろし、また窓の外を眺める。
「……あんまりヒマでこいつらかまってたら、いきなり雨に降られて、
しょーがねーからてめぇんトコ来たらこいつらまでついてきた」
「なんだソレ」
「雨宿りできると思ったんじゃねーの。俺についていけば」
淡々と緋咲は話す。
だから、そんなこともあるのかもしれないと思ってしまう。
他の人間が同じ話をしていたら多分信じないだろうが。
変な奴だ、緋咲は。
ベッドに登った子猫は今度は緋咲の膝に登ろうとしていた。
「で、こいつは外の奴より図々しいから中まで入ってきただけ。雨が止めば勝手に出てくだろ」
「ふぅん、その割に随分コイツ懐いてねー?
緋咲に」
「まだチビだから」
緋咲は簡単に子猫を摘み上げて秀人に放った。
「飼えば、緋咲が」
「なんで」
「チビで、懐いてるから」
秀人を見下ろす双眸に、冷やかな嘲弄が浮かぶ。
しかし緋咲はただ煙草を銜えた。
「……あ、ジッポ忘れてたんだ……」
そう言うと、秀人の襟首を掴んで上体を引き起こし、秀人の煙草から火を貰う。
秀人は、間近に自分を見下ろす、凍えたような眼球をじっと見据えた。
楽しそうに緋咲は目を細め、
「何だその顔……何いきなり怒ってんのかな?秀人クン」
ぞんざいに秀人の襟首を放した。
また仰向けに寝転んだ秀人は、静かに紫煙を吐いた。
そして、丁度自分の下腹あたりに乗って嘲笑う緋咲を睨んだ。
背筋にくるようなその視線を前にして、緋咲は艶然と唇を吊り上げる。
それから、声だけは穏やかに続けた。
「……こいつらノラは、別に飼われるの期待して誰かに懐くワケじゃねぇよ。
エサ貰えれば喜んで食うけど貰えなくても別に構わねーの、こいつら。
他にエサ貰えるとこ知ってるし、自分でも獲れるし。
だから誰かにわざわざ飼われる必要なんてねーんだよ。
俺についてきたのも、懐くのも、自分に都合がいいからやってるだけ」
子猫が小さく鳴いて、ベッドから降りた。
「そんな奴等飼おうとしてどーすんだよ。こいつはこいつで勝手に生きてるんだから」
緋咲は可笑しそうにそれを目で追う。
「で」
低い声で秀人は言った。
銜えていた煙草を手元も見ずに灰皿に投げ捨てる。
「別に?そんだけの話。まあ、まとめると秀人はバカってことだ」
紫煙を吐きながら嘲笑う緋咲が秀人を流し見る。
「……そんな顔すんなよ?今日は別に喧嘩しに来たんじゃねーからさ」
なだめるような言葉とは裏腹に、秀人の上に乗ったまま緋咲は悪意を微笑に変える。
「少なくともてめぇの阿呆面拝みに横浜まで来たんじゃねーよ。
この雨が降らなかったら絶対ぇここに来なかったな。
……てめぇんトコに来たのはついでのついでくらいか?
たまたま近く通ってて、雨宿りぐらいには都合いいから寄っただけ……」
秀人の強い光を放つ目を、緋咲は顔を寄せて覗きこんだ。
傷痕のある左手が首を抑え、頚椎を指で圧迫する。
「……の、つもりだったけど。あー、すげぇこの体勢って殴りやすいよなぁ……そー思うだろ?
なぁなぁ、秀人クン殴っていい?」
冷たい色の双眸は確信的な悪意に煌く。
それを黙って見上げていた秀人が、ふと笑った。
枕元の灰皿を掴むと、緋咲にそれを向ける。
「ちっと……煙草こん中いれろ」
突然どうでもいいことを言われ、緋咲は小首を傾げたが、
素直に右手に持っていたジョーカーを灰皿の中で消した。
それを枕元に戻した瞬間、秀人は逆の拳で緋咲の頭を殴った。
「いてっ」
痛いというよりびっくりして声を上げた緋咲に
「バーカ」
秀人は思いきり言い切った。
「結局てめぇは転がり込んできた野良猫と同じってコトだろ。
雨が止むまでここにいてもいーから、余計な喧嘩売んじゃねーよ」
悠々と言い切る秀人に、緋咲は思わず顔を顰めた。
それは人を馬鹿にした台詞のはずなのに、
秀人の声には侮蔑も嘲弄もありはしないから、却ってタチが悪い。
結果、妙に喧嘩する気を削がれてしまう。
そしてそのことに腹が立つ。
きつく睨んでも、秀人の顔にはもう喧嘩を買う気配は無かった。
……むかつく。
口の中で緋咲は吐き捨てた。
「……知ってたけどてめぇはホントむかつく奴だよな……」
「てめぇに言われたら終わりだな」
詰まらなそうに離れようとした緋咲の手首を、秀人は捉えて引き寄せた。
間近にある冷たい色の瞳は酷く不機嫌。
掴んだ手首は雨に打たれたせいか、風呂に入った後なのにひやりとする。
「もし、俺が部屋にいなかったらどうする気だった」
緋咲は暫く思案し、それから小首を傾げた。
「さあ? いると思ったからてめーのトコ来たし」
秀人はちらりと窓を見た。
外ではまだ冷たい雨が降っていた。
そっと緋咲に腕を伸ばす。
髪に指を通すとまだ濡れていた。
まるで雨の中にいるようだ。
「……俺がいてよかったな」
冷たい色の瞳が緩く瞬きして、睫毛が震えた。
髪から、少し冷たい頬へと指を下ろす。
そのまま耳を掠め、首筋に指を這わせていくと、緋咲は少し震えて瞳を閉じる。
「……てめーのトコ来たのはやっぱ間違いだったな……」
唇に触れた秀人の指を、緋咲は少し力をいれて噛んだ。
その唇を、艶かしい悪意に満ちた微笑が彩り、熱く濡れた舌が指を舐める。
背中をぞくりとする何かが這い上がった、瞬間
また色々と文句を言いそうなその唇を塞いだ。
「……ホントむかつく奴」
昨日の曇り空は今朝になって冷たい雨に変わり、
夜になっても青白い月は見えなかった。
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555HIT かなめさんリクエストでお題は『雨』でした。
が、むしろ「そこのけそこのけ おニャンコ様が通る」って感じでした。
いいのかなあ……。
ドアを三回蹴るのは、それなりに甘えてるんだと思います。
あくまでそれなりに。
お帰りはこちら。