『 代替不可要因 』




その囁きは、酷く掠れていた。
声が聞き取りづらいのは携帯越しのせいではなく、そんな声しか出せないのだろう。
何か言いかけた喉を、ただ細い空気が抜ける音がする。
声を出すこと自体がつらそうに聞こえて
「じゃ、今すぐ行くんで。そこにいてくださいね」
土屋はそれだけ言うと携帯を切った。
見上げれば、青褪めた雲が空を厚く覆っている。
このまま雪さえ降らなければすぐにでも目的の場所に着けるだろう。
ただ、嫌な事に。
急ぐほど時間はゆっくりと流れていく。
さして掛からない筈の距離を酷く長いものに感じさせる。
土屋の携帯に緋咲から電話が掛かったのはほんの十数分前。
話の内容も良く分からないまま家を出たのがその一分後。
出来るだけ急いだ筈なのに、酷い遠回りをしたような気分で緋咲の寝室に入ったのが、つい先程。
そして今。
土屋の前で、緋咲は意外と元気そうな顔をしていた。
ベッドに寝転がり、茫と天井を眺めていた緋咲は
息せききった様子の土屋を眺め、逆に不思議そうな顔をした。
「緋咲さん……」
思わず洩れるのは安堵の声。
何をそんなに慌てているのか。
良く分からない様子の緋咲は煙草を口から摘み取った。
「で?どうしたんですか?」
答えようとして緋咲の唇が動く。
しかしそれは何の音も生まないまま、細い空気だけを吐いた。
舌打ちした緋咲は気怠るそうに手招きし、土屋を近づけさせた。
間近に覗きこみ、土屋はその顔に血の気が無いことに気付いた。
ただ、煙草を銜えた唇だけに色がある。
「声、出ないんですか」
小さく頷く仕草が不機嫌。
どうもかなり不本意らしい。
「どうしたんですか、風邪でもひいたんですか?」
土屋は緋咲の額に手を置いてみた。
掌に伝わる熱が高いのか低いのか、良く分からない。
そのまま頬に触れても、寧ろどこか冷たいような気がした。
「熱は無いみたいですけど」
緋咲は曖昧に頷き、そのまま眠るように瞳を閉じてしまった。
蝋のような青白さが、その顔を一瞬作り物めいて見せる。
頬にある手を首に滑らせた。
大分速い血の流れが掌の下を走っている。
そんなことで、少し安心した。
緋咲はくすぐったそうにその腕を外させると、何か言った。
相変わらず音にはならないが、それでも耳を近づければ聞き取れる。
『なんか作ってくれ』
「食ってないんですか」
『食いたくなかった』
「こんな時に食わなかったら余計悪くなるでしょうが」
呆れた声で言っているのに、緋咲は平然として、冷たい色の瞳で見上げるだけ。
自分の身体に構わないその性分を、少しはどうにかしてほしいと良く思う。
「じゃあ、今は何か食えるんですね」
『別に、食いたくはない。けど、そろそろ腹に何か入れねぇとまずいんじゃねーかなって』
「……緋咲さん、いつから食ってないんですか」
緋咲は少し考えて、それから面倒そうに言った。
『一昨日かな』
「あんたね」
身体を起こした土屋は呆れるのを通り越し、腹立たしそうに緋咲を見下ろす。
「何でもっと早く言わないんですか。何そんなへろへろになってんですか。バカですか」
緋咲の唇が吊り上ったのは、それを自覚しているからかもしれない。
土屋は言い募る甲斐も無くして、代わりにあからさまな溜息をついた。
「まあ……いいですけど。で、何が食えそうですか」
緋咲はまた少し考えるようにした。
そして煙草を銜えなおす。
その時、何故か歯応えの良い音がした
「……緋咲さん?」
まさか、煙草をかじった音じゃないだろう。
「何ですか、ソレ」
良く見ると緋咲が銜えているのは、ポッキーだ。
その事に、今まで気付かなかったこと自体にも驚いてしまう。
だいたい、イメージが合わない。
思わぬ事に愕然としている土屋を見、緋咲は小首を傾げると、枕元にあったポッキーの箱を指差した。
「いや、俺はいりませんよ」
すると、今度はサイドテーブルの灰皿を指差す。
吸殻が山になっていた。
普段なら、緋咲がそういうのを放っておくことは、まず無い。
捨てる気力も無かったらしい。
「煙草無くなったんですか」
緋咲は軽く頷き、今度は自分の喉を触る。
「で、喉も痛いしってことですか。それで代わりがポッキー?相賀でも来たんですか」
面白くも無さそうに緋咲は首肯する。
その顔を土屋はまじまじと眺めた。
「前に甘いのは苦手って言ってませんでしたっけ」
『今、味が全然分かんねぇ』
どうも舌が麻痺しているらしい。
そうでなければ、目の前の人間がポッキーなんかを銜えていることも無いだろう。
「だったら、別にそんなもん銜えてなくても……」
ふと緋咲の視線が言葉を探すように揺れる。
ポッキーを口から離し、形良い眉を暫し顰めていた。
代わりに、土屋は思いつきを口にしてみた。
「もしかして、口寂しいだけ、とか言います?」
冷たい色をした瞳が数回瞬きする。
自分では思ってもみなかったらしいが、どうやら他の理由も無いようだ。
赤い舌が小さく覗いて唇を舐めた。
「意外と、緋咲さんって……」
ガキっぽいんですね。
と、言いかけて土屋は口を閉ざした。
幾ら何でもそれを言ったら緋咲を怒らせるような気がした。
反射的に背筋を冷たいものが駆け下りる。
慌てて話を逸らそうとしたが、見ると緋咲は別に気に障った様子も無く
ただ唇を少し吊り上げただけだった。
取敢えず、土屋はほっとした。
「あー、俺ちょっと買い物行ってきますよ。どうせ冷蔵庫ん中ろくなもん入ってないでしょうから」
土屋はさっさと寝室から出ようとした。
すると、後ろから声を掛けられたような気がしたので、なんとなく振り返ってみた。
緋咲が手招きしている。
「どうしたんですか」
何か言いたそうにしているので近寄ってみると、緋咲は気怠るそうに身体を起こして
土屋の耳に唇を寄せた。
「……緋咲さん?」
緋咲は何も言わない。
ただ、柔らかなものが耳朶に触れる。
土屋が息を飲んだ瞬間、
「痛ッ」
いきなり鋭い痛みが突き抜けた。
慌てて身体を離すと、噛まれた耳朶がじんと熱を持っていた。
緋咲は、笑っている。
きゅうと細めた双眸が艶かしい悪意に煌いて、実に楽しそうに微笑んで。
青白い指先が、もう用は無いと言うように払われる。
土屋は耳を押えながら顔を顰めた。
「酷ぇ……やっぱり怒ってんじゃないっすか」
恨めしい声で言ったところで、相手はそんなものを意に介すような人間でもなく、
逆にその微笑に見とれてしまうから性質が悪い。
まったく、頭が痛くなりそうだ。
架空の頭痛に耐え兼ねて、土屋は思わず零してしまう。
「そういうトコが……」
そしてまた口を噤んだ。
緋咲はサイドテーブルに腕を伸ばし、そこに転がっていたジッポを掴み取っていた。
土屋を流し見、長い指がそれを弄ぶ。
「あ、別に何にもありません。何も言う気無いです。
つーか、それは止めてください。投げないでください。それ、多分本気で痛いです」
今度こそ、土屋はさっさと部屋から出た。
後ろも見ずにドアを閉め、一言。
「……ガキっぽい」
何か硬い物が勢い良くぶつかるような音がした。


























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季節外れになったんで、バレンタインネタではなく、単なるチョコネタです、ハイ。
ポッキーとジョーカーの誤認率ですが。
普段からジョーカーしか吸わない人の場合なら、六割は騙されると思います。
煙草を逆に銜えてる可哀想な人だと思われるかもしれませんが。

チイさんのおかげで、緋咲さんちの冷蔵庫の中にはおかしなものが入っている、というイメージがありまして。
今ならビールの横にポッキーが縦積みされているのかもしれません。
全部、相賀のせいだと思われます。

ところで。
何気に罵倒されてる緋咲サンが、僕はわりと好きだったりするんですが。
それはどうなんでしょうか?

さっさと帰る。