猫はいつでもそこにいた。


大通りから幾つかの角を曲がり、二台並んだ自販機の傍、細い小路が前を通り過ぎていく人の流れを眺めていた。
暗い路地だ。
雑然と立ち並ぶビルの背中が日差しを鈍色に染めている。
黒いアスファルトはその下を静かに蛇行していった。
その途中に黒い木門が見える。
灰色のビルに囲まれて、場違いに古い家がひっそりと暗い小路に立っている。
瓦や土壁、木組みやらは、どこもかしこもくすんだ色をして、一つの寂しい影のようだ。
屋敷をぐるりと廻る色褪せた木塀は所々朽ちて板が外れかけ、野放図に伸びた草が覗いている。
そこにはもう誰もいない。
なのに、猫はいつでもそこにいた。





 『 白夢境々 』





「あ」

話の途中、秀人が唐突に立ち止まった。
何を見つけたのか、首を巡らせじっと視線を向けている。
そこは車がやっと一台通れる程度の細い道だったが、秀人の部屋に行くには丁度良い近道だった。
しかし、特に変わったものが転がっているような道でもない筈だが。
隣を歩いていた吉岡は煙草を銜えながらのんびりと聞いた。
「どした?秀」
秀人は答えない。
が、何か難しい顔をしているということは吉岡も雰囲気で分かった。
「何だよ、何かあんのか…?」
肩越しに秀人の視線の先を覗き込んでみると、
そこに、猫がいた。
青灰色した、まだ小さな猫は、朽ちかけた黒い木門を背中にし、置物のように座りこんでいる。
その丸い目が吉岡を捉え、不可思議な笑みを湛えた。
「……何だ、ただの猫か」
吉岡は拍子抜けして呟いた。
雑居ビルに挟まれてひっそりと佇む朽ちた家というのは確かに奇妙な光景かもしれないが、それと秀人の様子が結びつかない。
秀人は相変わらず眉根を寄せてその猫を見据えていた。
「ん?おまえもしかして猫嫌いだったか?」
犬は好きなのにな、と吉岡は動かない秀人をそのままにして猫に近寄ってみた。
冷たい色した瞳がくるんと動いて吉岡を追う。
間近で眺めるとなかなか品の良い顔をしていた。
滑らかな毛先が銀色に輝いていて、野良猫とも思えない。
「コイツ飼い猫かな。首輪してねぇけどノラじゃなさそうだし……」
喉でも撫でてやろうかと手を伸ばすと、猫は前脚をその上にポンと乗せてきた。
どうやらお手も出来るらしい。
「なんだ、馴れてるじゃねーか?ホラ、秀も触ってみ」
そう言った次の瞬間、爪が出る。
「痛ッ!」
掌を引っ掛かれた吉岡は慌てて手を戻した。熱い痛みが脈打つ。
猫は素早く後に飛び退いて吉岡から距離を取った。
そしてまた澄ました顔で座りこむ。
その不思議な笑みを見ると、最初から狙っていたんじゃないかと疑いたくなる。
「大丈夫か?思いっきりやられたみてぇだけど」
秀人に言われて自分の掌を見下ろすと、じんわり血が滲み始めていた。
「いってぇ……いきなり何なんだ?コイツ、俺は何もしてねーぞ?」
「ふぅん、やっぱりそうか……」
秀人は独り言のように呟くと猫に近付き、有無を言わせずひょいと後首を摘み上げた。
「秀?おまえ猫嫌いじゃないのか」
「別に嫌いじゃない。ただ、コイツはちっと違うんだよ」
暴れようとする猫に睨まれて秀人は苦笑いした。
「俺なんかな、最初ちょっと触ろうとしたら指に穴空けられたんだぞ?噛まれて」
自分の手を押えながら吉岡は顔を顰めた。
「そういうコトは早く言えよー?俺の手メチャクチャ痛ぇよ」
「悪ぃ。まさか誰彼構わず引っ掻くって思わなかったから」
謝る秀人を余所に、捕まっている猫は目の前に指が出されるとしきりに牙を見せた。
じゃれているのではなく、本気で噛もうとしているんだろう。
「この道通る度にコイツに会うんだけど、今でも全然懐かねぇんだよな。触るといっつも噛まれそうになる」
「懐かせようとしてたのか……」
「嫌いじゃねぇし」
「けど秀、コイツは懐かないと思うぞ?思いっきり唸ってるし」
秀人に捕まっていることが余程気に食わないようで、猫はさっきから低く唸りっぱなしだ。
その態度と言い、先ほど引っ掻いた時の鮮やか過ぎる手際と言い、とてもただの飼い猫とは思えない。
「……これは猫っつーか、害獣だな、既に」
吉岡の的確な判定に、秀人は当の猫を摘んだまま遠慮無く笑った。
「害獣って、随分ちっちゃい害獣だなー?普通クマとか言うだろソレって」
「クマとかイノシシとか。あとはなんだ?ワニか?」
「ワニは日本にあんまりいないしなー」
「だいたい、どんな家が飼ってんだよ?こんな狂暴な奴」
「さぁな、いつもここにいるみてーだけど」
ふと、二人は言葉を切って顔を上げた。
あの古びた、暗い家が二人を物言わずに見下ろしていた。
朽ちた木塀の向こうからは虫の音だけが聞こえてくる。
住人がいなくなって大分経つようで、そこにあるのはただ寂しい影ばかり。
秀人は黙って猫を地面に下ろした。
自由になった猫は勢い良く駆け出し、木塀の隙間から中に飛び込むと
一度も振りかえらぬまま青い花を揺らす露草の向こう側に消えていった……


「そう言えばアイツ、全然鳴かねぇ猫だな」
小路を抜ける途中、煙草を銜えながら秀人はそれだけ呟いた。







猫はいつもそこにいた。
古びた門の前にちょこんと座り、人気の無い小路をいつまでも眺めていた。
冷たい色の雪が降る頃、優しい色の桜が咲く頃、青い風が木々の間を吹き抜ける頃、
いつでも猫はそこにいた。
何故そこにいなければならないのか。
その理由はもうとっくに意味を成さないものになっていたけれど、猫は相変わらずそこにいた。

そのうち、小僧が一人小路を通るようになった。
小路に雨の匂いが立ち籠める頃、傘を差して通りかかった小僧。
生意気に手なんか差し出してきたから、猫はその指に思いきり噛み付いてやった。
胸がすっとして、笑ってやった。
なのにその小僧ときたら懲りずにまたこの小路を通る。
その度に噛みついたり引っ掻いたりしてやったのに、相変わらず何やかんやとちょっかいを出してくる。
阿呆だ。
そのうち偶に来る小僧の仲間のヒゲまで一緒になった。
阿呆どもめ。

「ちっちぇくせによく伸びるなー、こいつ」
猫を摘み上げた秀人は、華奢に見えたその身体が意外なくらい縦に伸びることを知って笑顔をみせた。
しっぽがゆらゆら揺れている。
楽しそうな秀人と不機嫌そうな猫を見比べ、吉岡も笑った。
「あんまし苛めんなよー。また噛まれっぞ」
「何言ってんだよ?いっつも苛められてんのは俺のほうだろ」
猫の瞳を覗き込みながら、秀人は心外そうに言った。

阿呆だ。
小僧は何を考えているのか、飽きもせずに小路を通る。
まったく、遊んでやってるのを光栄に思え。
座ってただ小路を眺めていた日々は小僧のせいで様変わりしてしまった。
あの薄暗く、密やかな時間。
それはもう遠い。
けれど過ぎ去った日々を返してくれと催促するのも面倒で。
今はただ、うずうずと爪を研ぐ。
あぁ、これも小僧が阿呆であるせいだ。
小路を涼しい風が吹き抜ける。
木塀の向こうでは鮮やかな紅葉や銀の芒が揺れている。
猫は門の前で微睡みながら考える。
次はいつ、この小路を通るだろう。







空も雲も光さえ、どこもかしこも冷たい朝。
小路は白い雪に薄っすらと覆われていた。
空気がぴんと張り詰めて、ビルや電柱の影も青黒く凍り付いて。
冬の匂いが辺りに満ちている。
猫はやっぱりそこにいた。
朽ちかけの木門を雪避けにし、出来るかぎり丸くなっていた。
青灰色した毛皮は厚いものだったけれど、寒気は猫をぴったり包んでいた。
ゆっくりと白い息を吐く度に、喉から笛のような音がした。
そしてまた雪が降り始める。
緩い風が吹き込んで、丸くなった猫の上に白い欠片を散らせた。
銀色の毛先が凍えて震えても、猫はその場を動かなかった。

そんな時、雪を踏む音が近付いてきた。
ぴくんと猫の耳が動く。
音は小路を進み、猫の傍で止まった。
顔をほんの少しだけ上げてみると、小僧がそこに立っていた。
今日の寒さに遊んでやる気も起きず、猫はまた顔を伏せる。
「おまえ、まだこんなトコにいんのかよ」
秀人は呆れ顔で呟いた。
まさかとは思っていたが、こんな冷え込む朝にまでこの猫は一体何をしてるんだろう。
試しに掌で猫の小さな頭に触れてみるが、いつもみたいに噛みついてこない。
丸くなって動こうとしない身体は冷え切っている。
猫を撫でたまま、秀人は空を仰ぎ見た。
全天を覆う厚い雲からは途切れなく雪が降ってくる。
「昨日より冷えるかな……」
秀人は猫を抱え上げ、歩き出した。
途端に猫が暴れ出すのを落さないように抱え直す。
「痛っ、爪立てんなよ」
どんなに手足を動かしてもその手にしっかりと抑えられてしまうので、猫は逃げることを諦めた。
すると、支える掌の心地良い温かさにようやく気付いた。
静かに雪を踏む音が響いていく。
猫は一度首を伸ばして後ろを振り向いた。
あの家が見えた。
木塀の隙間から寒椿が枝を伸ばしている。
白くぼやけた景色の中で、それはもう随分と遠くのように見えた。

一つ、猫は小さく鳴いた。







窓の向こう側は暗かった。
夜の雪が降っているのかもしれない。
柔らかな照明の下、テーブルに行儀良く座りこんだ猫は外の景色をじっと眺めていた。
暖房の利いた部屋の中と違い、外は寒いだろう。
秀人に連れて帰られて以来、猫はすっかり部屋に居付くようになっていた。
ふらりと出掛けてはどこかの猫と喧嘩して来ることもあったが、それでも秀人の部屋に帰ってきた。
相変わらず、あまり懐いているとは言えなかったけれど。
猫はさっきからぴんと耳を立てて、気配を窺っていた。
後では秀人が何かを探して部屋の中を歩き回っていた。
その眼差しがテーブルに座りこんでいる猫に行く。
「……おまえ、ちょっと退いてみろ」
秀人が猫を持ち上げてみると、その下に探していたジッポが転がっていた。
猫はガラス玉のような瞳に、あの不可思議な笑みを湛えて秀人を眺めている。
「狙ってやってんだろ」
秀人がジッポを取り上げると、猫は素知らぬ顔で丸くなり、眠るように目を閉じた。
煙草を銜えながら秀人はその気侭な姿を眺め、ふと気付いて指を伸ばした。
鼻の上あたりを軽く撫でてやる。
「この間やったトコ、やっぱり痕が残ったな…」
そこには真横に走る細い傷痕があった。
「ちっちぇくせに喧嘩好きなんだよ、おまえ」
秀人が笑うと、猫は牙を見せてその指に噛み付く真似をした。
「ホラ、やっぱりそーだろ?」
低く唸り始めた猫を慰めるように秀人は頭を撫でてやった。
その楽しげな声を聞きながら、掌の温かさを感じながら猫はまた目を閉じる。

そして遠い夢を見た。
薄暗い小路には朧な春が来ていた。
桜の花弁があの家の前にもひらひらと舞いこんでいる。
朽ちかけた木門の傍に、もう猫の姿は無かった。





















































ぼんやりと目を開けた。



柔らかな照明がテーブルに転がったジッポに鈍い光を差している。
見慣れた光景だ。
けれど目線の高さが違う。よく見ればジッポが違う。それを握っている指が違う。
拳には青白い引き攣れたような傷痕。
これは?
目の前の、見慣れたはずの光景が緩やかに色を変えていく。全てが塗り変えられていく。
これは俺の指だ。
頬杖をついていた緋咲は静かに顔を上げた。
そこは麓沙亜鵺が溜まり場にしている店だった。少し離れた辺りには主だった連中が固まって何か楽しそうに喋っている。
緋咲はソファーにぐったりと凭れ、小さく息を吐いた。
そこにあるのはいつもの光景だ。
なのに、全てはまるで見えない壁の向こうにある世界のようで、胸の内に訳もなく漠とした違和感が広がっていく。
それは掴み所がなく、一層切実に追い詰められ。
ただ、どうしようもなく途方に暮れてしまう。
緋咲は目を閉じた。
頬に落ちる睫毛の青白い影が小さく震えていた。
指が無意識に煙草を探り当て、銜えると
「緋咲さん」
傍らで声がした。
隣に座っていた土屋が火を差し出した。
土屋は、当たり前な顔をしてそこにいた。
ぼんやりしている緋咲に土屋はもう一度声をかけた。
その声や、言い方はやっぱりいつも通りで、何も変わっているものなど無くて。
緋咲は気怠げに身体を起こすと、意味の無い違和感を思考から切り捨てた。
土屋から火をもらい、細く吐き出した紫煙はゆるゆると流れ、やがて消えていった。
「俺……寝てたか?」
ジッポを握る指をぼんやり眺めながら緋咲が聞くと、土屋は首肯してちらりと自分の携帯を覗いた。
「だいたい3分くらいは」
「なんだ、それくらいか。……つーか、測んなよ」
土屋は少し笑ったきりで話を変えた。
「呼ばれた連中はだいたい集まってますよ。相賀はまだですけど」
「あいつはいいだろ、今日の事は後でおまえから話しとけ」
そして緋咲はゆっくりを顔を上げる。
切れ長の瞳には冷たい、けれど酷く楽しげな光が浮かんでいた。
酷薄な唇が艶かしい悪意に満ちた微笑を刻む。
「おい」
さして大きくも無い声だったが、その場にいた麓沙亜鵺の面子はその一言で従順な飼い犬のように緋咲の傍に揃った。
皆一様に、ある種剣呑な期待を抱きながら。
それらを見据え、緋咲は冷然と唇を吊り上げる。

「次の鳥浜な……」





















+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

結局、夢と現実が存在するのは、それらを区別する自分がいるせいで。
区別するのを止めたら、どちらも夢だし、どちらも現実でしょう。


蛇足かもしれませんが。
鳥浜は原作でゼロヨン大会があったトコです。
ここでモンスタードラッグがデビューしたとか龍也兄さんが天羽のせいでメチャ不機嫌になったとか、色々あるんですが。
それと同時進行していたのが外道と麓沙亜鵺の全面対決でした。

キリ番8000を踏んでくださった緋川さんからのリクエストで、
「鼻っ柱に傷のある野良猫を懐かせようと苦労する秀人くん」がお題でした。
…………撃沈!!
ホ、ホントに猫しか書いてませんね……(汗)
そんなわけでコレはキリリク8000(仮)ということで。
もう一つ書きますわ。

で、誰かに言われるまえに言いますが。
漢文のテキストにこんな話がありましたよね……
ええ、『△蝶の夢』とか。
いや、もう、ホントこれぐらいで勘弁してください。


さー、もう帰っちゃうぞ!!