『桜にて 休憩中』
「…困ったな…」
拓は二階の座敷を見回して溜息をついた。
障子は大きく開け放たれ、西に傾いた太陽が座敷を茜色に染めている。
他の女郎は皆下の階にいるのか姿はなく、拓は一人座敷を歩き回った。
探し物が、見つからない。
「どこにいったんだよ…もうすぐ店が開いちゃう時間なのに」
呟いたところで、誰もいない座敷では応えもなく。
拓は焦燥にかられて窓辺に近寄った。
「まさか、また外に出て帰ってこれなくなってるとか…?」
夕陽がその柔らかな頬を淡く染めて。
潤んだような大きな瞳に映りこみ、揺らめく。
お仕着せの赤い振袖が夕闇に映えた。
まだ幼さの残る眼差しは、朱に染まる空の下、だんだんと騒がしくなっていく吉原を見渡す。
夜が近づき、吉原の空気はざわざわと震えていた。
もう少ししたら吉原客で廓は賑わう。持て成しの準備で人々は忙しい。
昼間の、どこか気怠い午睡に浸っていたような吉原が
華やかで艶かしい夜の顔を作り上げていく。
拓は目を転じた。
吉原の真中を貫く大路、仲之町では桜が薄紅の雲のたなびく様。
その下を優美な装いの遊女が歩いていく。
紅差した口許に妖しい微笑を浮かべて。
一瞬、そんな夕景に見惚れてしまう。
いつもなら拓もあそこにいるのだ。
“姐女郎”について回り、仲之町の茶屋をぷらぷらしたりするのだが。
今日はちょっと姐さんの都合が悪いのだ。
だからこんな風に遠くから眺めることが出来る。
どうしてか、目の前の夕景は水面で揺れる幻のようで。
自分からは酷く遠い気がした。
階下から聞こえてきた自分を呼ぶ声に拓は物思いから覚めた。
本来の役目を思い出し、拓は慌てて返事する。
「も、もう少ししたら行きますから」
拓はある猫を探している途中だった。
吉原に廓入りしてまだ間も無い拓は、見習いの見習い、女郎とも言えない立場で
主な仕事は姐さんに言いつけられる雑用。
その一つに、姐さんの猫に餌を与えるという仕事がある。
もう少しして客が入ってくるようになれば廓中が忙しくなり猫には構っていられなくなる。
拓はその前に餌を与えなければいけないのだが。
これがなかなか、大仕事なのである。
姐さんが客から贈られたという猫は、艶やかな毛並みのなかなか品のある白猫だ。
しかし生来の性格なのか、一旦ふらりと出掛けるとなかなか戻ってこない。
吉原の細く入り組んだ道に迷って帰れなくなったこともあるし
他の猫や、酷い時は野良犬と喧嘩してくることだってある。
要は、まだやんちゃな子供なのだ。
今日はいったいあいつはどこまで行ったのだろう。
拓は溜息をついて思案し始めた。
その時、ふと猫の鳴き声を聞いた気がした。
慌てて座敷を見回す。
けれどあの小さな姿は無い。
空耳、かな。
そう思った瞬間、また聞こえた。
今度は鳴き声の出所が分かった。
窓辺に駆け寄り欄干を掴んで思いきり身体を外に出し、下を見下ろす。
夕闇の迫る路地に立つ、見知った姿。
それに気付いた拓は思わず声を上げた。
「秀人くん!」
下にいた秀人が顔を上げる。
その片手に白い猫を抱えて。
「…よぉ、そんなとこで何してんだ?。落ちたら痛ぇぞ」
そう言って笑う声には人を落ち着かせる響きがあった。
つられるように拓も少し笑い返し、安堵の息をつく。
「君がその子を見つけてくれたんだ……ありがとう」
「ん?なんだ、やっぱりコイツおまえんとこのか。他所の犬に喧嘩売ってたぞ」
秀人の手の中で白猫が低く唸る。
何だかまだやりたいないといった風だった。
それを見て秀人が苦笑いをする。
「コイツ飼い主に似過ぎだな、きちんと見とけよ?」
まったく同じことを考えた拓は思わず笑ってしまった。
吉原に来たての頃、拓は偶然秀人と知り合った。
けれど拓はあまり秀人について知らない。
どこに住んでいるのかも、何をしているのかも知らない。
吉原に顔は見せるけれど特定の誰かの客というわけでもないらしい。
それなのに、顔が広いのか道を歩けば大抵誰かが寄って来るし、凛とした男振りが女郎にも人気がある。
拓にも良くしてくれるのだけれど、一つだけ大きな問題があった。
秀人は、姐さんと異常に仲が悪い。
というか姐さんが異常に秀人を嫌っている。
そのせいで、何かと面倒が起こるのだ。
「…で、あのバカは」
そう言う秀人の声が微妙に低くなっている。
そのバカが誰を指すのか、拓はすっとぼけてみたかった。
「えっと、昨日お客蹴って…いやそうじゃなくて、転んで足痛めちゃって。
それで今は下に医者が来てるんだ」
しどろもどろな説明を聞き、秀人が鼻で笑う。
「何やってんだ?あいつは…」
それはこっちが聞きたい。
だいたいあの姐さんがコケているところが想像できなかった。
そう言えば。
拓はどうして姐さんがコケる羽目になったのか聞いていなかった。
どこで、何をしていたんだ?あの人は。
押し黙った拓を見上げ、秀人が怪訝そうに声をかける。
「どうした。まさかそんなに具合悪ぃのか?」
「いや、そんなんじゃないけど……でも」
「でも、何だよ」
その声が耳のすぐ傍で囁かれた時、拓は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
決して聞き間違えることのない、その声。
恐る恐る振り返ってみる。
姐さんが、緋咲がそこに立っていた。
もうすっかり仕度は終わり、お勤めが出来るような姿をして。
冷たい色の双眸がきゅうと細められ、硬直した拓を射貫く。
「なに阿呆面してんだ」
そう言って緋咲は楽しそうに微笑んだ。
突然の出現に動転しかけていた拓は、その微笑に呆気に取られた。
もしかしたら、緋咲は下にいる秀人に気付いていないのかもしれない。
だとすれば上手くこの場を切り抜けられる、かも。
緋咲と秀人が会ったら、と思うだけで冷汗をかきそうになる。
拓は何とか落ち着こうとした。
「…あ、あの、足はもう大丈夫なの?」
「ん、別にどーってことねぇよ」
拓はちらりと緋咲の足許を見た。
包帯でもしているのかな。
しかしそれを確かめる前に緋咲が欄干に手をかけて下を覗きこんだ。
「あっ」
拓は思わず声を上げてしまった。
しばらく、緋咲は黙っていた。
結わぬままの長い髪が流れる。
白い指がそれを掻き揚げて、緋咲の横顔が露わになる。
「…よぉ、秀人…」
緋咲は、笑っていた。
酷薄そうな唇が赤く塗れて艶然と微笑する。
よかった。
今日は随分と機嫌がいい。
これなら平和に事が進むかもしれない。
拓がそう思って脱力しかけた時、緋咲が手に持っているものが目に入った。
青磁の香炉。
子供の頭ほどのそれを緋咲は軽く持っているけれど、実は意外に重いことを拓は知っていた。
「そ、それはだめだよ!!」
拓は慌てて緋咲の腕にしがみついた。
緋咲はあの微笑を浮かべたまま言い放った。
「あ?こんなもんどうせまた客が持ってくるから心配ねーよ」
「そうじゃなくてッ!」
「何だよ、おまえ俺の腕を疑ってんのか?一撃で終わらせるから黙って見てろ」
「全然違うよッ」
「…うるせーぞ?拓。あんましガタガタ言ってんならてめぇが投げ落とされてみるか?」
緋咲は微笑んだままだった。
この人なら、やる。
やると言ったらやる。
拓は青くなって首を横に振った。
しかしどうしたって緋咲をこのまま放っておくわけにいかず。
拓は緋咲の腕にしがみついたまま、思いきり体重を後にかけた。
「って、バカッ何しやが……あ!?」
意外と簡単に緋咲は体勢を崩し、拓の視界がぐるりと回転する。
天井が映った瞬間、拓は目を閉じた。
「痛たた…」
背中に衝撃を感じた数瞬後、拓はのろのろと身体を起こした。
派手に後頭を打ち付けたせいでじんじん痛む。
「拓ッ、てめぇ…」
傍らで怒気を孕んだ声がした。
仰向けに倒れたまま緋咲は拓を睨んでくる。
「後で憶えとけよ…?」
「う…ごめんなさい」
ひたすら拓が謝ろうとした時、
「何やってんだ、おまえら」
呆れたような声が後から響いた。
同時に猫の鳴き声も聞こえてくる。
「秀人!てめぇいつのまに上がって来やがったッ」
寝転んだまま緋咲が叫んだ。
冷たい色の瞳が上目遣いに、自分を見下ろしている秀人を睨む。
「おまえらが上でごちゃごちゃやってる時」
秀人は悠々と答えると、片手に持っていた猫を放した。
白猫は飼い主に走り寄ると嬉しそうに顔を摺り寄せる。
その頭を軽く撫でてやりながら、
「なんでてめぇがコイツ連れてんだよ」
緋咲の声は不機嫌極まりなかった。
拓が慌てて二人の間に入る。
「あ、あのさ、僕そいつに餌やらなくちゃと思ってずっと探してたんだ。
でも見つからなくて、外に探しに行こうと思ったらね、秀人くんが見つけてくれたんだよ」
必死に言う拓の顔を緋咲はしかめ面で見上げた。
「だから、秀人くんのおかげなんだよ」
拓がそっと秀人を見ると、当の本人は泰然としていた。
猫が小さく鳴く。
緋咲はようやく上体を起こすと、不貞腐れた顔で乱れた髪に指を通した。
「…てめぇに礼は言わねぇ」
「おまえにそんなもん期待するほうがバカだろ」
そう言って秀人は拓に笑いかけた。
拓は思わず頷いてしまった。
「あっ」
「…拓、ホント後で憶えてろよ…?」
緋咲は機嫌の悪い眼差しを拓から秀人に転じた。
「もう帰れよ。客でもねぇのに勝手に上がって来やがって」
「さっき裏口でここの主に会ったら上がってくれって言われたんだよ」
「あの野郎…ッ」
忌々しそうに舌打ちする緋咲の前に何気なく秀人は座りこみ、
「で、足がどうしたって?」
投げ出された足に軽く触れる。
秀人は痛んだ方の足を正確に選んでいた。
その瞬間拓は、緋咲が小声で何か言うのを聞いた気がした、けれど。
緋咲の脚は秀人の手を払いのけると白い蛇のように伸び、秀人の鳩尾を抉ろうする。
「危ねぇだろッ」
秀人は間一髪で躱した。
「痛ぇんだよ!馬鹿力で掴むんじゃねぇッ」
「だったらその脚で蹴んなッ!こんバカッ」
秀人は少し強引にその足首を取った。緋咲が舌打ちする。
鮮やかな裾からすんなりと伸びる白い足を見た時、拓は小首を傾げた。
「あれ、医者に見てもらったんじゃないの。包帯とかはしなくていいの?」
白い足首には特に何か治療したような跡が見られなかった。
「んなもんしてたら仕事になんねーだろ」
緋咲は面白くもなさそうに答える。
冷たい色の瞳はじっと秀人の手を見詰めていた。
「……緋咲、おまえ」
足首を掴んでいた秀人が何かを言いかけた瞬間、
「拓!」
緋咲はその手を払って立ち上がった。
「てめぇはいつまでぐずぐずしてんだ!さっさと仕事しろ」
急にぴしゃりと言われて拓は慌てて立ち上がった。
その手に緋咲が白猫を渡す。
「とりあえずコイツに餌やっとけッ」
「うん」
「あと下に行ったら相賀探せ。なんか手が足りねぇとか言ってたから」
「うん、分かった」
「じゃあ行け」
拓は素直に頷くと、赤い振袖を翻して駆け出した。
その後姿を眺め、緋咲は小さな溜息をつくと秀人の傍らを通り過ぎようとする。
「おい」
背中に掛けられた声を緋咲は無視しようとした。
「緋咲」
その声は低く静か。
けれどどうしても無視できないものがある。
仕方なく緋咲は面倒そうに秀人を振り返った。
「…なんだよ」
「おまえホントは歩くの辛いだろ」
緋咲の双眸がきゅうと細められ、秀人を真っ直ぐに射貫く。
秀人は黙ってその眼差しを受け止めた。
しばらく二人の視線が絡み合う。
「……何言ってんだ?」
やがて緋咲の酷薄な唇が吊り上った。
「医者でもねーのにあんまし適当な事言ってんなよ」
「……そりゃあ、悪かったな」
艶かしい悪意に満ちた微笑に秀人は平然と答えた。
「で?」
「なにが」
「今日は客ついてんのか」
「当たり前だろ、今日明日は大川で夜桜舟遊び。てめぇみたいにヒマじゃねーんだよ」
「大川まで行くのか…」
秀人はちらりと緋咲の足に目をやった。
「だったら、今日だけ俺が一日買ってやろうか」
一瞬、緋咲は何も言えなかった。
切れ長の瞳が瞬きして睫毛の長い影が揺れるのを、秀人は黙って眺めていた。
緋咲の唇が小さく動く。
その時、座敷に拓が駆けこんで来た。よほど急いだのか息が切れている。
「もう出掛けないといけないから、呼んで来いって…」
「ん、分かった」
そう返事した時、緋咲はもういつもの表情に戻っていた。
結っていない髪を気怠そうに掻き揚げ緋咲は拓の方に歩き出す。
ふと肩越しに振り返ると、秀人は煙管でも取り出そうとしているようだった。
「おいコラ」
秀人が顔を上げる。
「その気もねぇのに見栄張んな、甲斐性無し」
棘のある言葉を緋咲がどんな顔をして言ったのか、
拓にはよく見えなかった、けれど。
いつも通り悪態で切り返す秀人の口許がほんの少しだけ綻んでいる気がした。
そうして、吉原に夜がくる。
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あ、あははははははは……ハァハァ(滝汗)
とりあえず黄昏の日本海に土下座しに行きます!!
大川って隅田川っす。
でも果たして吉原のおネーちゃんと一緒に舟遊びが出来たかどうかは分かりません。
どうせなら御座船とかでお大名みたくパーッと遊んでみたいものです、ハイ。
秀人クンの素性がなんだか謎ですが、謎のまま放っておいていいと思います。
イメージは旗本の三男坊あたりで。
敵襲がありそうなので退散する