『桜にて 準備中』






僕が女郎として、この吉原に廓入りしたのが去年の秋で。
今はもう春の弥生か。
最初は何も分からなかった。
それこそ右も左も分からないと言ったところだろう。
勿論今だってそんなに偉くなった訳じゃない。
知らないことや、出来ないことの方が多い。
けれど分かったこともある。
ここで与えられた僕の仕事って奴だ。
僕の役目は。

「……痛っ」
小さな声に拓は慌てた。
正座した拓の膝の上には白い足が乗っている。
形の良いそれは、鮮やかな藍色の裾からすんなりと伸びていた。
その足首は拓の手の内にある。
「あ、ごめん」
拓は慌ててその手を放し、恐る恐る顔を上げる。
拓の膝の上に足を乗せ、脇息に気怠く寄りかかっていた相手が身体を起こしていた。
不機嫌な、冷たい色の瞳。
緋咲は足をするりと自分の元へ戻すと、指をそっと足首に這わせた。
「やっぱりまだ痛ぇな」
「うん、少し腫れているみたいだし…今日は無理しないほうがいいと思う」
「別に。こんなのどーってことねぇだろ」
緋咲は詰まらなそうに言うと、煙管を取り上げた。
開け放った格子窓から春の光が差しこむので、二人のいる座敷は明るい。
高く昇りきらない太陽が、無造作に投げ出された緋咲の脚を仄白く輝かせている。
その脚で、昨日緋咲は客を蹴った。
女郎として拓が生活している“店”は、広い吉原でも伝統も格式もある妓楼。
要は大手の女郎屋、と緋咲は言うけれど。
緋咲はその“店”でも一番客がついている花魁だ。
けれど、どうにも無茶というか御無体なところがあって、
下手なことにならないために誰かが見ていないといけない。
それが拓の役目なのだけれど。
大抵の場合、この見張りは役に立たないことが多かった。
昨日も酒に酔って暴れた上に遊女を一発殴った客を
蹴って蹴って蹴りまくって、後悔する暇すら与えないほど蹴っていた。
あれだけやって客が死ななかったのは僥倖だったと思う。
その客にとっても、緋咲にとっても。
挙句脚を痛めるんだから、困った人だった。
太夫になれないのは、その素行の悪さのせいだと拓は思っている。
「とにかく」
拓は意を決して顔を上げた。
揺らぐ紫煙を眺めていた緋咲が拓の方を向く。
その眼差しに射貫かれ、拓は緋咲から見えないところで強く拳を握った。
冷たい色の瞳は、人の胸を酷くざわつかせる。
「……とにかく、昨日みたいにお客を蹴っちゃうのは、いくらなんでも…まずいよ」
「ふぅん?俺が悪いって言いたいのか」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ何だ」
拓は小さい、けれどはっきりした声で言った。
「…心配するから」
緋咲は目を小さく瞬かせた。
小柄な身体に細い手足。
普段気弱そうに人を見上げる、潤んだような大きな瞳。
自分と同い年とは思えない童女のような奴が、“心配”?
それは緋咲にとって、爆笑に値した。
堪えきれなくなって緋咲は脇息に突っ伏した。
肩が小刻みに震えている。
あまりの態度に温厚な拓でさえ少しむくれた。
「真面目に言ってるんだよッ」
真剣な声が更に笑わせるらしく、緋咲は畳を叩いて苦しがっている。
「ちょっと、ねぇ、ちゃんと話聞いてよ!」
不貞腐れた顔で拓が近寄ると、いきなり緋咲の腕が伸びた。
襟を掴まれ、顔を引き寄せられる。
囁くような声が耳をくすぐった。
「おまえに心配されなきゃいけねーことは、何もねーよ」
耳に良く残る声が心を絡めとる。
反論を唇から奪い取る。
「何も、ない」
間近にある冷たい色の双眸を、拓は息を飲んで見詰めていた。
冬の湖に似た瞳の底に沈んでいるものから目を逸らすことが出来ない。
「いいな?」
だから思わず、頷いてしまう。
「……うん」
その答えに緋咲は艶やかな微笑をする。
拓を放すと、白い指で窓を指した。
「じゃ、何か外が煩いから見てくれよ。俺はあんまし立ちたくねーから」
「…その脚だってやっぱり昨日の喧嘩のせいじゃないか」
拓は憮然として立ち上がろうとした。
不意に拓のふっくらした頬を緋咲がつねる。
「バーカ、おまえ何か勘違いしてねーか。
たかが昨日みたいなことでどうにかなる程俺の脚はやわじゃねーぞ」
「じゃ、じゃあなんで?」
「コケたんだよ、その後で」
色白の柔らかな頬を引っ張りながら緋咲は面白くもなさそうに言う。
『…ドジ』
拓はそう言おうとしたが、口が上手く回らず緋咲を笑わせるだけだった。

確かに外から何か騒がしい気配が伝わってきていた。
拓は開け放った格子窓から顔を出してみた。
二階から外を覗くと、吉原の真中を貫く大路、仲之町に人が集まってきている。
行き来する大勢の人足と、揺れる柔らかな雲のような…
「桜?」
拓は目を凝らした。
八分咲ほどの淡く色付いた桜が次々と運び込まれてくる。
「ねぇ…」
振り返ろうとした拓は思いがけず緋咲が傍にいてぎょっとした。
春の穏やかな風が結っていない髪を躍らせる。
面倒そうにその髪を掻き揚げる緋咲は、冷たい色の双眸でじっと桜を見据えていた。
「あれは何をしているの」
「ん…そーか、おまえここの春は始めてか。
あれは桜植えてんだよ。
吉原の大門から真っ直ぐに端っこまでを、花の咲いている間だけな」
「へぇ…すっごいんだね」
拓は素直に感嘆の声を洩らした。
話には聞いたことはあったが、直に吉原の桜を見るのは初めてだった。
運ばれてくる桜はそれぞれ見事な枝振りで、重なり溶けあう花弁が春霞と混じり合う。
柔らかな風が吹き抜ければ、小さな花弁はひらひらと
その下を行き来する人達の着物に色をそえていく。
桜色の薄雲に包まれていく吉原の姿を、拓は夢見心地に眺めていた。
「くだらねぇ」
その呟きはほんの小さなものだった。
しかし拓の背筋を何か冷たいものが駆け上がる。
「……どうしたの」
問いかける声が掠れてしまった。
緋咲は答えずに紫煙を燻らせていた。
きゅうと細められた双眸に冷たい光が宿っている。
厳しい眼差しは桜を見据えたまま動かない。
拓は掛ける言葉を見つけられずに、ただ緋咲の袖を軽く引いた。
緋咲の横顔には何もかも拒絶するような冷たさがあったが、そうせずにはいられなかった。
一陣、風が舞いこむ。
踊る髪を押え、緋咲はようやく拓の方を向いた。
「別に。あんなのはただの客寄せだから、くだらねぇって言ったんだ」
詰まらなそうに話す緋咲はもういつもの顔に戻っていた。
「……うん」
だから拓は頷くしかない。
「あの桜は、花が咲いている間だけ吉原に置いておくんだよ。散ったら、それで役目は終わり。
…で、吉原に春の間だけ桜を咲かせる金が、どこから出てるかぐらいおまえでも分かるよな」
緋咲は唇を吊り上げる。
そこには悪意に似たものが浮かんでいた。
「全部元は女郎から搾り取ってんだよ。だから…俺は、あの桜の下を歩くのが好きじゃない」
遊女の血を吸ってるからな、祟られそうだ。
ふざけるようにそう付け足した、緋咲の眼差しにあるのは憎悪だけでなくて。
あの桜のように、淡い影が揺れていた。
思わず拓は手の中にある緋咲の袖をぎゅっと握った。
目の前の緋咲は確かに悲しそうなのに、どう声をかけていいのか分からなかった。
それが、悲しい。
唇をついて出るのはただ短い言葉。
「ごめん」
緋咲は虚をつかれたように、目を見開く。
その顔をしっかりと見据えて拓は言った。
「でもね、やっぱりあの桜を綺麗だと思ったんだよ」
それが客寄せのためだとしても、客が来る前のこの一時、吉原の桜は遊女のために咲くのだと思う。
廓の中の遊女のために。
緋咲はしばらく拓の大きな瞳を眺め、やがて
「トロくせー考え」
煙管で軽くその頭を叩いた。
「痛っ」
その声に構わず、緋咲は窓から離れさっさと歩き出した。
少し片足を引き摺っているので直ぐに拓が追いつく。
「待ってよ」
いきなり緋咲は立ち止まった。
そして拓の方を振り向く。
「…そんなに桜が見たいんなら、仲之町の茶屋にでも行くか?
まだ店開けてねぇかもしれねーけど、どうせ俺もまだ時間あるんだし」
拓はまさかそんな事を緋咲が言うとは思っていなかった。
その気配を察し、緋咲の柳眉が少し吊り上る。
「どうするんだ」
微妙に不機嫌そうな声に、拓はにこりと笑ってみせた。
「行こう」




























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え、えぇっと……わ〜い、やっちゃったやっちゃった〜♪(汗)
なんか色々やらかした気分です。

吉原の真中に、花が咲いている間だけ桜を植えたというのは史実らしいですが。
この遊廓ネタに関して、僕はとんでもない嘘をついている場合があるので、お話だと思って受け止めてください。
むしろ正しい知識を教えてください。

壁紙は「ぐらん・ふくや・かふぇ」様。

さっさと遁走する。