『通い路』




まさかただのお使いがこんなに遅くなるなんて思わなかった…。


拓は息切れしながら日の落ちた路地を駆け抜ける。
空が濃紺から漆黒に塗りなおされるころ、吉原は店々の華やかな灯で彩られる。
様々に意匠をこらされ煌くとりどりの炎。眩暈をもよおす光の海。
けれどそれは同時に、灯火の差さない影を生み出す。
吉原客を誘う光が強くなればなるほど、それだけ闇は濃くなって。
闇もまた誰かを誘うようにそこに佇む。
その中を赤い振袖がひるがえる。
宵になって賑やかになってきた路地を拓はあわただしく走っていた。
ほぼ全速力で走る振袖姿なんてなかなか見れないもんだから
もう充分出来あがった遊客がからかってくるけれど、拓には答える余裕が無かった。
“店”が開いてしまう。
いやもう開いてしまったかもしれない。
姐さんのお使いは簡単なものだったのに、こんなに帰りが遅くなったらきっと叱られる。
僕の姐さん、吉原で一番怖い花魁だし。
そのコトを思うと、腕に力が入ったみたいで胸に抱いていた白い生き物が不機嫌な声を上げる。
手の中を覗きこむとその白い猫は緑のよく光る目を細めた。
「君のせいでこんなに遅くなったんだろ…?」
猫は低い声で鳴いた。
余所見してると誰かにぶつかりそうで拓は顔を上げる。
その目にようやく目的の“店”が映った。
拓の生活の場であるそこは吉原でも格式ある妓楼、らしいけど
まだここに来て一ヶ月も経ってないから良く分からない。
要は大手の女郎屋なんだと思う。言葉はどうあれそんなもんだ。
店の前に人が大勢集まっていた。
店の大通りに面した部分は朱塗りの格子になっていて、外から中の座敷が見えるようになっている。
そこに遊女が客に顔を見せるように並ぶことになってるから、人が集まるのは当然なんだけど。
今日はなんだか集まり過ぎみたいに混んでいた。
店の人間が、客があんまり格子に近づき過ぎないようにやんわり注意している。
「………はぁ」
けれど拓にとってその異常な賑わいよりも、“店”がとっくに開いていたコトと
そしてこれで姐さんに怒られるのが決まったコトの方が重大だった。
溜息つく拓の手の中で白猫が大きくもがく。
ぼんやりしてる間にそいつは拓の手から逃れて店の前の人だかりに突っ込んでいった。
「あ!ダメだ待ってよ!!」
拓が連れていた猫は姐さんのだ。
誰かに踏まれて怪我でもしたらホントに恨まれてしまう。
いそいで拓は後を追った。
「すみません!通してください…お願いします」
切羽詰まったその様子に客達は脇に退く。
どうして格子の内側にいる筈の女郎がココにいるのかと思いながら。
声をかけてくれる数人の顔見知りに謝り、拓はやっと格子の前まで来れた。
白猫はそこにちょこんと座って格子の向こうを見上げている。
「いきなりどうしたんだよ…」
今度は離さないようにしっかりと抱え上げると、拓は顔を上げた。
目の前の、朱塗りの格子。
その向こう側の華やかに飾り付けられた座敷。
艶やかな微笑の姐さん達。豪奢な着物に光が波打つ。
そんなのを眺めながらなんだか、こういうのが客の立場なのかなと思う。
格子の向こう側が違う世界に見えた。
眩暈に似たその思いは一瞬で、拓はすぐに目を見開いた。
居並ぶ姐さん達の中に、そこにいるはずの無い人を見た。
その人は随分前から拓に気づいていたみたいで、
冷たい色の瞳がひたりとこっちを向いている。
煙管をもてあそんでいた白い指が止まった。
僕の姐さん、緋咲は滅茶苦茶不機嫌そうだ。
だるそうに紫煙を燻らせるその姿はガラが悪い一歩手前で、よく見ると周りの姐さんたちの笑顔が引きつってる。
「な、なんでソコにいるの…?」
そんな風に格子越しに顔を見せるのは、店の中でも安く買われる遊女がするものなのに。
思わず拓が洩らした声に緋咲が立ち上がる。
結ってない髪がさらりと流れ、拓の後ろで野次馬のような客達が溜息みたいな声を上げた。
まだあんまり“遊女の格”の事とか良く分からないけど、僕の姐さんって人間は
どんなにガラが悪そうに見える時があっても
逃げ出したいくらい不機嫌な時があっても
あからさまに客に喧嘩売っても
何故か、つく客みんな“いい人”みたいで店の中でも別格で、
こんなトコに出てくる人じゃないのに、て言うか出てきちゃいけない人。
何で今日こんなに店の前に人がいるのか分かった気がした。
格子のすぐ傍まで近寄ってきた緋咲はそこに座りこむと、
逃げ腰になっていた拓を煙管で呼ぶ。つられて客まで動きそうになっていた。
「てめー何たかがあんな使いぐらいでこんなに時間かかってんだよ。
俺は“店”が開く前に帰れって言っただろ」
格子に顔寄せる拓にだけ聞こえるような囁き声。
この凄まじく不機嫌な声が客にも伝わればいいのに。
と思った瞬間、頭を煙管で叩かれる。
「だって…」
「だってじゃねーんだよ」
客の手前、緋咲は微笑していた。
けれどそれは、話にまったく関係無い客にしてみれば多分とても魅力的で、
そそられるとか、抱きたいとか思っちゃうのかもしれないけど
間近でさっきから不機嫌な空気ひしひし感じちゃってる僕にしたら
怖い、としか言えない。
泣けてくるくらいには怖い。
「………ごめんなさい…」
半泣きになりそうな拓を緋咲はしばらく黙って眺めていたが
やっぱり煙管で軽く頭を叩く。
そして、ようやく拓が抱いてる猫に気づいた。
「なんだ…てめーそんなトコにいたのかよ」
白猫は上機嫌に鳴くと格子の間を通って主の元に戻った。
指にじゃれつく飼い猫を眺めて、緋咲はほんの少しの間だけ、売り物じゃない微笑を浮かべる。
肌刺す不機嫌な空気がふと消えた。
「お使いの帰りにコイツ…また野良犬と喧嘩してて怪我したら危ないから捕まえようとしたら
時間かかって、それで…」
拓はようやく店に遅れた理由を言えた。
「ふぅん?」
煙管を銜えた唇がゆるりと弧を描く。
「丁度良かったな、今日の客はこいつを俺に押し付けた奴だ。
貰いもんの顔ぐらい見せてやらねーと煩いからな……
拓、さっさと上がって来い。もうとっくに客が来てんだよ」
「え、じゃあ、お客様待たせてるってコト…?なのに何でこんなトコに??」
まさか、待っててくれたとか?
目を丸くした拓に緋咲は喉の奥で笑った。
「てめーはチビでトロくせーから、またどこかで転んで誰かに踏まれてんじゃねーかなって…
で、どんな顔して帰ってくるか見てよーと思った」
「う……」
性格悪い。
言い返してなんとかなるワケでも無いけど、それでも何か言おうとすると
緋咲はさっさと立ち上がって、
「早く上がれ。俺もそろそろ行かねーとだし」
冷たい色の瞳に面白くもなさそうに見下ろされる。
「……はぁい……」
思わず声が拗ねた。
すると緋咲はもう一度拓の傍に座り込んだ。
そして真っ直ぐに瞳を覗かれた。どうしてか、息を飲んでしまう。
視線を逸らす事も出来なくて、ただ見返すしか出来なくて。
囁くような声が名を呼んだ気がした。
格子の間から白い腕が伸びてくる。
少し冷たい指先が前髪に、額に触れた。
身体の奥で何かがぞくりと震えた、瞬間

「てめー、デコに格子の跡がついてる」

慌てて拓は額に手をやった。
きっと顔を格子にくっつけすぎたせいだ。
その様子を緋咲は楽しそうに眺める。
恨みがましい目付きの拓と目が合った瞬間、堪えきれなくなったように
肩を震わせ爆笑した。
何事かと思ってる周りを完全に無視してムカツクぐらいに気持ち良さそうに笑う。
「…そんなに笑わなくてもいいのに…」
「あん?だったらてめーのその性格直せよ」
その台詞、そっくりそのまま返したい。
そう言うとまた笑われた。






























+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
遊廓といえば、やはり朱塗り格子とおネーちゃんの白い腕。
そんなイメージで書いてます。あくまでイメージです。


壁紙は「篝火幻燈」様。

激しく帰りたい。