呼吸を止める青空の下
『妄想シミュレーター』
第五回
お題
「あの空のように爽やかに」
……無理だ!
廃ビルの屋上。
緋咲はぼんやり紫煙を燻らせる。
それはゆるゆると立ち昇り、空の白雲に重なって見えなくなった。
日は高く、空は青く、風まで穏やか。
冷たい色をした瞳が空を見上げる。
呼び出された事を暫し忘れ、緋咲はその青色に見入っていた。
背後でドアの開く音がした。
緋咲は振り返らぬまま言い捨てる。
「遅ぇ」
本当は緋咲の方が早く着いていたから別に遅くはなく、寧ろ時間通りだった。
しかし、緋咲にとってそんな事は関係無く、
呼び出した本人が自分よりも遅れて来るのが許せなかった。
ただそれだけなのに、相手は律儀に頭を下げる。
「すいません」
顔を上げた土屋は、こちらをようやく振り向いた緋咲が
さして機嫌が悪い訳でも無い事を見て取った。
それでも丁寧に謝れば、緋咲は面倒そうに頷いた。
「で、話ってなんだよ」
フェンスに気怠く寄り掛り、土屋を見上げるように聞く。
「こんな所に呼び出して。大事な話なんだろうな」
「えぇ、まあ……」
土屋はすっと視線を逸らしてしまう。
曖昧な返事に緋咲は柳眉を顰めた。
「はっきりしねぇ奴だな?何なんだよ」
すると土屋は一度小さく息をついた。
そして今度はしっかりと緋咲の目を見据える。
「緋咲さんに、ちょっと確かめたい事があるんですけど」
どうも真面目な話のようなので、緋咲は身体を起こすと土屋の前に立った。
「……どうした?」
土屋は目の前にあるその硬質の瞳を眺め、
冷たく煌くその表面でゆっくり揺れている睫毛の長い影を眺め、
心を決めた。
「緋咲さん」
「ん?」
「すいません」
意味が分からなくて緋咲は小首を傾げた。
その肩を土屋がポンと軽く突く。瞬間、
「失礼します」
土屋は身体を低く沈め緋咲の足を蹴り払った。
ふざけんな
と叫ぶ暇は緋咲に無かった。
不意をつかれた事と、相手が土屋だった事が緋咲のバランスを容易く崩させる。
フェンスにぶつかるように倒れた緋咲の左腕を土屋は素早く捉え、
取り出した手錠でフェンスと手首を繋いでしまった。
その冷たい感触に緋咲はぞっとする。
「土屋!てめぇまた……ッ」
土屋は暴れようとする緋咲に圧し掛かるようにして押えこんだ。
自由に動く方の肩に思い切り体重を掛ける。
「少し大人しくしていてもらえますか」
「……どけ」
緋咲の双眸が燐火のように燃える。
土屋はその瞳と怒気を孕んだ声に一瞬動きを止めた。
土屋に躊躇が無かったわけではない。
今、組み敷いているのは何と言ってもあの緋咲薫なのだ。
普段ならば土屋が決して逆らわない、逆らえないただ一人の存在。
緋咲にこんな事をして、ただでは済む筈がない。
それを土屋はよく知っていた。
しかし、掠れた声で短く断りを入れ、緋咲の服に手を掛けた土屋は
そんな躊躇を忘れさせるものに突き動かされていた。
痛みが走る程緋咲の肩を押えつけ、空いた片手でシャツのボタンを手早く外していく。
日の光を知らぬような肌が土屋の前に晒された。
緋咲は肌に外気を感じ身震いした。
圧し掛かる土屋の向こう側にあの青空を見、更にぞっとする。
「ふざけんな……ッ」
赫怒が全身を包み、四肢に力が込められる。
戒められた手首が外れてしまっても構わない。
今すぐ、土屋の横っ面を殴り倒したかった。
緋咲が思い切り腕を動かそうとした時、土屋が小さく息をついた。
まるで、何かに安堵したように。
緋咲は柳眉を顰めた。
「おい土屋、てめぇ……何なんだ」
すると土屋の手が緋咲の脇腹の辺りをそっと撫でる。
「この傷、ちゃんと治ってたんですね」
それは来栖に刺された痕。
他の肌とは少し艶が違って青白い星のようになっていたが
それでもすっかり癒えているようだった。
「ずっと気になってたんですよ」
土屋は満足そうに言うと、緋咲を押えつけていた腕を外した。
緋咲は自由になった肩の具合を確かめながら、
何か珍奇な生き物を見るように繁々と土屋の顔を見上げた。
「……土屋」
「はい?」
「てめぇ、まさかこれが知りたかったから、わざわざこんな事したのか」
「えぇ。だから最初に謝ったんです」
緋咲は土屋を下から殴った。
「馬鹿かッ。だったら普通に聞けよ!」
「あんたに普通に聞いても答えてくれないからでしょうがッ」
それもそうだ、と緋咲は一瞬思った。
「……普通わざわざ言うか?自分の怪我が治ったなんて。面倒くせぇ」
「言わないと回りの人間は分からないでしょうが」
「別に分からなくていいだろ。腹に穴が空いててもやることは変わらねぇんだから」
「それだと困るんですよ!」
「俺は別に困らねぇよ」
平然と言われ、土屋は思わず溜息をついた。
「……俺が困るんです」
怒ったような、呆れたような声。
それでも諦めないで言い募ろうとする土屋を眺め、緋咲は面倒そうに口を開いた。
分かった、と小さく呟く声が土屋に届く。
「土屋には言う」
土屋は少しだけ驚き、それから満足げに頷いた。
その顔を気怠く見上げ、緋咲はきゅうと目を細める。
「で、話はそれで終わりか?」
「まぁ」
「……どうすんだよ」
土屋はその言葉の意味が分からなかった。
しかし改めて視線を降ろし、自分の下にある緋咲の乱れた姿を見た時、思わず欲が生まれた。
途端にまた殴られる。
「そうじゃねーだろ!さっさと外せって言ってんだよ」
緋咲の片手が自由である以上、土屋がどうにか出来そうに無かった。
結局、その言葉に従う。
二発殴られてそろそろ頭が朦朧としてきたが
それでも手錠を外してやり、立ち上がらせる。
ようやく自由になった緋咲は赤く擦れた手首をさすり、冷たい瞳を土屋に向けた。
凍り付いた湖面のようなそれに射貫かれつつ、土屋は胸の内で覚悟を決める。
経験上、この後何が起こるのか知っていた。
簡単な事だ。
しばらく歩けなくなる程度で、大した事じゃない。
そう思いつつ、土屋は情けない気持ちに包まれていた。
殴られるのは構わない。
ただ、目の前にものすごく欲しいものがあって
手を伸ばせば触れられる距離にあるのに
どうしても指が触れない、届かない。
欲しい、と言う事も許されていない。
この状況が何だか酷く情けない。
捨てられた犬のようだ。
自嘲的にすらなれずに土屋は視線を降ろす。
青空が屋上の床を白く輝かせている。
二人の影がくっきりとしていた。
犬はまだいい。
飼い主に尻尾を振る事ができる。
土屋はそこまで器用になれない。
眩む視界に土屋はなんとなく目を細め、床の影が動く。
ふと、唇に柔らかいものが触れ、すぐに離れた。
あまりに何気無く過ぎ去った一瞬。
土屋が顔を上げたのはしばらく経ってからだった。
「……緋咲さん?」
緋咲は相変わらず冷たい色をした瞳で土屋を見ていた。
睫毛の揺れる影を眺められる程、傍にいた。
「緋咲さん」
名前を呼ぶ唇が熱を持つ。
触れ合った僅かな感触を思い出し、その熱は全身を巡る。
驚きと困惑と、火のような熱が混じり合って土屋の動きを止めた。
緋咲はまた何気なく唇を寄せる。
唇に柔らかく触れ、軽く食み
開いた歯列の隙間から舌を差入れて土屋を誘ったかと思うと
すっと土屋から離れた。
土屋は、まだ動けずにいた。
緋咲がどうしてこんな気紛れをしたのかが分からない。
いつもならここで殴り飛ばされている筈で
緋咲はいつも通りの冷たい瞳でそれを見下す筈で。
なのに。
背筋が痺れるような快感の余韻に悩まされながら、土屋はまだそこに立ち尽くしていた。
緋咲が笑っている。
困ったような土屋を眺める笑顔は
何がそんなに楽しいのか
澄み渡るこの青空のように晴れやかで
見惚れてしまう。
土屋は、視界の右隅で風を切る気配を感じた。
青い。
目を開いた時、あまりの青に
それが空だという事に気付かなかった。
全天の片隅を一片の白雲が流れていく。
土屋はぼんやりとそれを目で追った。
頭を横に倒せば、視線と平行に屋上の床が伸びている。
緋咲は、最初のようにフェンスに寄り掛っていた。
銜えた煙草から紫煙がゆるゆる漂っている。
「……緋咲さん」
「ん」
「思ったんですけど」
「何だよ」
「一日三回緋咲さんに殴られたら、頭イカレるんじゃないですかね」
「良かったな。おまえまだイカレてねーだろ」
「……やばいかもしれません」
緋咲は喉の奥で笑って、屋上の床に伸びている土屋に近寄った。
その頭の脇に持っていた手錠を投げる。重く硬い音がした。
「それで繋いどいて屋上のカギかけて帰ろうとしたんだけどな、
なんか性に合わねぇから止めた」
「そりゃ……どうも」
土屋は横になったまま、鈍く冷たい光を放つ手錠を見、
性に合わないと言った緋咲を見上げる。
「さっさと起きろよ。俺まだ昼食ってねーんだから」
「はぁ」
土屋は身体を起こそうとした。
しかし身体はまだ動きそうもない。
「緋咲さん……もう少し待っててもらえます?」
諦めて、土屋は目を閉じた。
昼寝でもしているような土屋を緋咲は足で小突く。
「甘えんなよ」
そう言った緋咲は、青空の下に座りこんだ。
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第五回 妄想シミュレーター
課題 『青空拘束』
敗因 拘束が片腕のみ
一部、想像すると「ありえねーッ」と叫びたくなるところがあるかもしれませんが
そこらへんは上手く胸の中に収めてください。
今までで一番ぬるいのは、たぶん青空のせいです。
あと、
拘束話というよりは、『ヘタレ攻めに対する調教話』と言う方が相応しいのは秘密です。
しかし、ちっとも正調式拘束話に展開しませんなぁ……あっはっは。
さ、もう帰っちゃうぞ。