『ボーナストラック3』に続きまして、高校生×予備校講師ネタです。
パラレルが苦手という方はご注意ください。


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そしてまた木曜日がやってくる。








 『木曜の図書館』




土屋は学校にいる間、ぼんやりしてはそのことばかり考えていた。
木曜には予備校で数学がある。
それを思うと気が重い。
別に数学なんてものはどうでもいい。
だいたい予備校も自分から行くと決めたわけでなく、親との一種の妥協案であり、
やはりどうでもいいのだ。
今更行くの行かないので、ぐだぐだと迷う必要はない。嫌ならサボればいい。
それなのに、土屋の気は重かった。
頭に思い浮かぶのは、行けば必ず会わねばならない人間の顔。
そうすると心底から重苦しくなる。
強いて考えないようにしても、頭のどこか深く、あの瞳が掠める。
そうすればもう居ても立っても居られなくなる。
それがとにかく嫌で、何も考えたくなくて。
だから先週の木曜はサボって相賀とぶらぶらしていた。
それから一週間。
気分は何も変わらない。
今日もサボろうか。
けれどこれ以上下手にサボると、もしかしたら向こうから何か言ってくるかもしれない。
それは、嫌だ。
そんなことをああだこうだと考えながら、土屋は学校を出た。
家に帰って、さっさと着替えて出かける。
母親の顔は見ずにすんだ。

土屋が向かった先は、予備校の近くにある図書館だった。



空いた席を一つ見つけて鞄を下ろしながら、それでもまだうだうだと考える。
今日はサボらないとは決めていた。
けれど、こんなのはまったく柄じゃない。
自分が図書館なんかにいることも、その理由が勉強するためだということも。
土屋は重い溜息をつきながら、数学のテキストを出した
先週サボった箇所はまだ何も手をつけていなかった。
勿論、他の教科だったら復習やら予習をするほど殊勝でない。
たとえ指示された範囲分の勉強をしてこなくても、それを注意されるような授業は滅多になかった。
もっとも、何か言われたとしても土屋はまったく意に介さないが。
しかし、数学は。
いや、あの講師もやはりそんなことはしないだろう。
そんな面倒なことはせず、ただ、あの冷たい色をした瞳をきゅうと細め、
柳眉を僅かに顰めるだけに違いない。
けれどそんなことが、今は何よりもこたえる。
顔を見ることすら気まずい相手に、これ以上突き崩させる隙を与えたくはない。
どうせ今日の授業に出るのならと、土屋は意を決してテキストを開いた。
煙草が吸えないことを少し後悔した。



あの講師とは、それなりに口をきく関係になっていた。
そうなった切っ掛けは、あまり大声で言えないことだったけれど。
それを理由にあの人間を避けようとは、不思議と思わなかった。
正直なところ、興味があった。
テキストを片手に喋るときは澄ました顔をしているくせに、
授業が終われば馬鹿話にもつきあってくれるし、ちょっと楽しそうに笑ったりもする。
ありふれた黒フレームのレンズ越しに眺めるその瞳が時折、
予備校の講師に似つかわしくない毒を孕む。
淡々と数式を組み上げる唇が、酷薄な微笑を浮かべて剣呑な台詞を囁く。
いったいどういう人間なのか、少し付き合ったぐらいでは計りきれなくて。
だから興味が湧いた。
そういう類の、興味だった。

先々週の木曜も授業が終わってから、二人でずっと話していた。
向こうも後に授業が入ってなく、気付けばかなり遅くなっていた。
その場のノリで一緒にメシを食いに行くことになり、だったら部屋が近くだと言うので、寄ることにした。
予備校名義の部屋らしく、確かに殆ど歩く必要がなかった。
ピザ頼んで、ビール飲んで、煙草吸って。
普通に話をしていたんだと思う。
引越しの次の日みたいに殺風景なリビングで寛ぐうち、テレビの前に積まれたDVDに気付いた。
その中に、いつか話に出てきたのがあったから、見てもいいか聞くと、
おまえいつ帰るんだとは言われたが、嫌とは答えなかった。
部屋の電気消して、新しいビール出して、二人してソファーに座って、DVDを見ていた。
そのうち、隣にいる存在が気になりだした。
ふと見た横顔がテレビの明りで青白くて、あの時のことを思い出させた。
違いといえば眼鏡の有無くらいで、頭に浮かんだ気まずい画面を振り払うために、
どうして自分の部屋なのにまだ度無しの眼鏡なんか掛けているのか、からかった。
それでも外そうとしないから手を伸ばすと、あっさり躱された。
軽くあしらわれたのが癪で、思いきり押し倒した。
本当に、単に、ふざけていただけだ。
けれど自分の下にいる人間の目を見た瞬間、どうしようもなく身体が熱くなった。
何故と、考える余裕はなかった。
血に昇った熱に気付かないように、気付かせないように、黒フレームに指をかけて外した。
露になった冷たい色の瞳は、呆れたような視線をくれて、
もういいだろ、どけよと苦笑いした。
まるでガキ扱いで、相手にされてないのに、身体の奥で燻る熱が冷めなくて、
唇をふさいだ。
柔らかな感触にじんと痺れがきた。
押し退けようとする片手を捕まえてソファーに押えつけた。
こっちが上なら、体躯が同じくらいの人間に力負けするつもりはなかった。
顔を背けようとしたから、顎を掴んで、薄く開いた唇に舌を入れようとした。
その瞬間、がつんと脳が揺れた。
視界がぐるりと上に回り、天井が目に映ったその時、自分が殴られたことを知った。
今思い出しても、いったいどちらの腕で殴られたのかも分からない。
次の瞬間にはまた視界が巡り、左腕に激痛が走っていた。
ほんのさっきまで自分が上だったはずなのに、いつのまにかうつぶせに押えつけられ、
左腕を捩じ曲げられていた。
関節をぎしぎし軋ませながら、頭の上で楽しそうに言われた。

ガキはここまでだ。

後はもう本当に軽く叩き出され、色々凹んだ挙句、木曜の数学をサボった。
それが、先週までの話。

あまり思い出したくない。



図書館は静かだった。
土屋は黙々とテキストの問題を解いていく。
しかしともすれば、その静寂を打ち壊すような気分に陥った。
あの日のことが頭を掠めるとじっとしていられなくなる。
すぐにこの場を走り出て今日の数学もサボってしまいたくなる。
その衝動をどうにか宥め、また問題を解いていく。
そんなことを繰り返しながら、頭の片隅では、あの講師は何なのかとぼんやり考えていた。
只の予備校講師に自分がああも簡単にあしらわれるとは、どうしても思えなかった。
左拳にある大きな痕といい、度無しの眼鏡に隠れた細い傷痕といい、
得体の知れないところが確かにある。
数式を変形させながら、土屋は自棄になったようにあれやこれやと想像した。
けれど、次々と浮かぶそれらの疑問は、本当は、一番厄介な問題から目を背けるためのものだ。
そうと分かっているから、土屋は無駄に脳味噌を使い続けた。
今、何よりも厄介なのは、そんな得体の知れない、しかも自分の数学担任の講師に、
自分が欲情していることだった。
反論するための一分の隙もないほど完璧に。
その結果が先々週のあれだ。
そう思うともう、どうにも頭を抱えたくなる。
あんまり自分の柄じゃなくて、溜息しか出てこない。
人のに手を出すほど熱心な性質でもなかったはずなのに。
もう幾度目か分からない溜息をついたとき、土屋は小さく舌打ちした。
ぼんやりしていたせいで設問を読み違えた。
まったく見当違いの式を書いている。
うんざりしてシャーペンを放り出すと、隣に誰かが座った。
他にも空いてる席はあるだろうと、そちらに目をやって、
土屋は妙な声を上げそうになった。
隣にいたのは、そもそもこんな不本意な、気に食わない状態に陥らせた張本人だった。
あ、の口で固まった土屋を眺め、緋咲は小首を傾げた。
それから人差し指を立てて唇に当てる。
酷薄そうな唇が、にっと笑った。
「あ、あんた!……」
土屋の喉からようやく絞り出された声は大分掠れていたが、それでも周りの視線が集まる。
土屋は大きく息を吐くと、取敢えず声を落とした。
「あんた、こんなとこで何してんですか」
「俺がいたらおかしいのか」
「……まあ、割と」
緋咲は心外そうに柳眉を顰め、
「おまえこそ何やってんだよ」
土屋の手許を覗きこむ。
そこに広げられたテキストを見、ふぅんと小さく笑った。
「こないだサボったとこか」
その声に土屋は心の中で固く身構えた。
しかし、緋咲は唇に浮かべた笑みをあっさり消した。
長い指がテキストの一部を指す。
「それは?」
「……今直すとこですよ」
土屋は思い出したように、先程ルーズリーフに書いた式を消していく。
緩慢なその動作を、緋咲は頬杖をついて眺めていた。
夕方の図書館は静かなように見えて、人の流れに空気がざわざわと揺れる。
そんな様にちらりと目をくれたりもした。
土屋は放り出していたシャーペンをまた掴んだ。
けれどそれを使う気にはどうしてもなれなかった。
隣に緋咲がいることが苦痛に近い。
この間の言い訳でも何でも、とにかく何か言うべきなのか。何も言わないほうがいいのか。
どうして緋咲は平気な顔をしてるのか。
そんなことばかり頭に浮かんで、指が動かない。
その様子に気付いた緋咲は、つっと身体を土屋に寄せた。
顔を間近にし、声を落とし、土屋が間違えた問題を解き始める。
秘め事を囁くように傍で、いつものように淡々と話す。
その様子を、土屋はまじまじと眺めた。
緋咲には少しも変わったところがない。
まさか忘れたわけじゃないだろうけれど。
そんなことがあったら、それはただの馬鹿だ。
つまり緋咲は、本当に、ちっとも、欠片ほども、あの時のことを気にしていないのかもしれない。
土屋は乾いてしまった唇を小さく舐めた。
まったく、割に合わないと思った。
自分ばかりがどうして、こんなに。
緋咲は話し続ける。
薄い、度の入ってないレンズの向こう側で、長い睫毛が揺れる。
テキストに落とされた眼差しには何も浮かんでいない。
レンズの人工的な冷たさに遮られ、凍えた湖のような瞳の底がどんな色をしているのか分からない。
その取り澄ました顔が、あの時は、背筋がぞくりとするほど艶かしかった。
不意に緋咲が言葉を切った。
「おまえ聞いてないだろ」
土屋はすぐには答えられなかった。
曖昧な言葉のようなものを吐きながら、ふと気付いた。
「眼鏡変えたんすか」
あの黒フレームでなくなっていた。
緋咲はきゅうと目を細め、土屋を見た。
「あん時、踏んで曲げたんだよ」
そういえばあの時自分が外したその後を、土屋は覚えていない。
そんな余裕は無かった。
緋咲は、少し下にずれてしまった眼鏡を直すと、何気なく言った。
「この間の続きがしてぇとか言うなよ」
言葉を失った土屋を冷たい瞳が嘲笑う。
いつか見た、神経にくる毒の混じった蠱惑がその瞳に浮かんでいる。
「……むかつく」
土屋はそれだけ呟いた。
どうして、自分ばかりがこんなに追い詰められているんだ。
なんでこいつはこうも簡単に人を突き落とす。
どうして、こんなに、俺は。
土屋は自分の血の中で火花が散っているように思えた。
そうして神経が麻痺していく。
土屋は腕を伸ばし、緋咲の手首を掴んだ。
「続き、したいです」
白い指がぴくりと動く。
緋咲は少し驚いたように目を見開き、しげしげと土屋の顔を覗きこんだ。
それから捕まれた手首をぞんざいに払う。
「ガキのくせに」
不機嫌な声だった。
土屋は空になった手をぐっと握り締めた。
「……あんまりガキ扱いすんなよ」
冷めた目で人を見下ろすこいつを、自分が足掻いている場所まで引き摺り落としたいのに。
そのための手がない。
「てめえこそ、ガキだからって甘えんなよ」
斬り捨てるような言葉に竦んでも、それでもまだ諦めることすらできずに。
逸らせない眼差しをただ見返した。
甘えるなという言葉が重く圧し掛かった。
緋咲は、そんな土屋を面倒そうに眺めていた。
ほんの小さく息をつくと、ちらりと腕時計を確かめる。
土屋は口を開きかけた。
しかし言葉になるよりも早く、緋咲の指が上がる。
それだけで何故か声が出なくなった。
緋咲の眼鏡が外され、露になった双眸が土屋に向けられる。
間近にその目を見た瞬間、土屋は冷水を浴びせられたように感じた。
緋咲は表情を変えてはいない。
ただ射貫くその眼差しが、今は氷の刃となって突き刺さる。
目の前にいるのは、緋咲と同じ顔をした、何か別の生き物だ。
「……ガキはここまでだって、あん時言っただろ」
あのとき触れたはずの唇に、臓腑が潰されていく。










いい加減、仕事に行く時間になっていたので、緋咲は席を立った。
眼鏡はとっくにかけ直していた。
ふと目をやると、向こうの書架の間を歩く姿があった。
そもそも図書館にやって来た理由を思い出し、そちらに向かおうとすると、
後に残した奴が何か言った。
散々凹ませた自覚はあった。
それを哀れむつもりはないが、少しだけ惜しいような気もした。
面倒だなと思いつつ振り返ると、案の定、地獄に片足を突っ込んだような顔をしていた。
それなのに、
「……あんまりガキ扱いすんなって言ったでしょうが」
打ちひしがれたのをうざいほど漂わせる声で、言い切った。
酷い顔をしているくせに、生意気にまだ目を合わせてくる。
頭の悪い奴だ。
緋咲は唇を吊り上げた。
「また、後でな」
頭が悪くて、結構面白いと思った。












頭が悪すぎて、最悪の気分だ。

土屋は机の上に広げていたものをのろのろと片付けた。
気分はまったく最悪で、そういえばあの時もそう思ったような気もするが、
今日のはその上を遥かにいく最悪だ。
あんまりすぎて、もうこれ以上落ちることもないかもしれない。
たとえ、あの性格の悪い数学講師が追おうとした、書架の陰に消えた後姿に、
見覚えがあったとしても。
今更、だ。
図書館を出た土屋は煙草を銜えた。
夕暮れの光の中、ぼやけた白が滲んで消えた。
好き勝手にぶつけられた言葉が、じわりと浮かんで。

 『甘えんなよ』

また消えた。
はまったのは確かにこっちで、それを後悔してもいる。
けれど今日、止めを刺したのはやっぱりそっちなんだから、少しぐらい責任取れよ。
そんな風に考えるからガキと言われるんだろうか。
取敢えず、今日の数学が終わったら嫌味の一つでも返してやろうと思った。






























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高校生×予備校講師、調子に乗りまして第二弾。2004年秋のメガネフェアでした。
年の差、じつは好きだったり。

図書館という空間がとっても似合わない人間が三人いますが、
ちなみに、このあと数学講師は先に図書館から出ていこうとしていた物理(世界史かもしれない)講師の頭を、
いー気分のまま蹴り飛ばしてしまい、しこたま怒られる予定です。

それにしても、数学講師の人は本当に裏で何をやっているのか分からない人ですね。
むしろ裏稼業ですか、そうですか。

……DVDって、何かなあ。


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