『the water sky』
「緋咲ー!早く戻って来いッ」
うんざりした声が真昼のクソ青い空の下を空しく響いていく。
「まだ一本しか記録測ってないだろーがッ!」
「…無駄っスね」
ぼそりと呟いた平蔵に、三十路の体育教師は思わず溜息をついた。
「陣野、おまえちょっと言って来い!さっさと二本目飛べって」
「え〜」
平蔵と同じクラスの緋咲はほとんど学校に来てなかった。
たまに来ても体育なんか出席する人間でも無かったから、夏休みに入る前に
本日めでたく補習という形で昼休みに高飛びの記録を取る羽目になっている。
要は一回でも記録出せば体育の単位をもらえるのだが。
だるそーにグラウンドに出てきた緋咲は着替えてもいなかった。
それがこの体育教師は気に入らなかったらしく、
高飛びのバーの高さをいきなり1m50にした。
どうせ飛べねーだろうと思ったんだろう。
緋咲は中1にしては小っちゃくも大きくも無かったから
1m50なんて言ったら目線の高さと同じくらいだ。
それをいきなり飛べって言われたら普通ビビると思う。だいたい高飛びはチビチビ高さ上げてくもんだろ。
要はこの体育教師は緋咲をなめていたんだ。
空の高いところで風が鳴っていた。
グラウンドでは高飛びの隣で何人かが100mの記録を取っていた。
そいつらも高飛びの方を見物していた。
緋咲はやっぱり詰まらなそうに教師の顔とバーを見比べると
走り出した。
「だりぃ」
そんなコトを呟いて。
結果、綺麗な流線を描いてバーの遥か上空を飛んだ緋咲の身体はそのままマットに落っこちていった。
落っこちて、動かない。
マットの上にもう3分は寝転がっている。
飛んだ時に脱げた片方の靴もそのままに。
「…寝てんじゃないんスか」
平蔵がそう言うと額に汗浮かべた体育教師は唸った。
「薫ちゃん、さっきやっと起きたって言ってたし。もーいんじゃないっすか?一回飛んだし」
へらへら笑いながら言う平蔵が勘に触ったらしく、
「陣野、おまえもまだ100mの記録取ってないだろッさっさと走ってこい!」
体育教師の顔付きが少し変わっていた。
「んじゃ、その前に薫ちゃん起しに行きましょうかー?
二番、陣野平蔵くん飛びまーす」
制止する声を完全に無視して平蔵は走り出した。
緋咲はまだ寝転んでいた。
バーが近づいてくる。
綺麗に飛び越す気なんか初めから無かった。
踏み切って、それでも平蔵の身体はバーを掠めて飛び越えると、
ヒジを下に緋咲目掛けて落ちていった。
「げッ」
緋咲のその声を聞いた瞬間、平蔵は勝ったと思った。
次の瞬間、背中がマットに沈んでいる。
「平蔵!てめー…」
頭を殴られた。かなりかなり痛かった。
平蔵が予測したよりずっと早く身体を捌いていた緋咲が、
頭を抑えたまま笑ってる平蔵を睨んでいた。
「な〜んだ、フツーに起きてたの薫ちゃん。寝てんのかと思った」
「そー思ったら飛んでくんなよ!!」
「ココは飛ばなきゃいけないかなーって思って☆」
「何だよソレ」
もう一回平蔵を殴ると緋咲は疲れたようにまた寝転がった。
空を射る見開かれた目に、うつる真っ白な太陽。
黒目から色素が抜けたみたいで、なんだか違うものに見えた。
「…どしたの?薫ちゃん」
眩しさを感じないみたいな緋咲はずっと空を眺めている。
同じように見上げても、空はクソ青いだけ。
他には何にも無い。
「コレ……何」
緋咲の人差し指が空を目指して伸びた。
体育なんかまともに出ないから、全然日焼けしてない指先。
それが指す方向を見てもやっぱり何もない。
平蔵は首を傾げた。
「何見てるの?」
「そうじゃなくて、音」
言われて耳をすます。
空の高いところで風が鳴っていた。
旋回する低い唸り、に混じって、何かが。
「……ギター?」
空の青に引掻き傷をつけていくような、ねじくれて、閃いて、澄み渡る、音。
風に乗って途切れながらここまで響く。
緋咲はそれを聞いていた。
「ん〜、たぶん天羽って奴かなー。
薫ちゃんはあんまし学校にいないから知らないと思うけど」
「…知らねー」
「ヒマになると音楽室でギター弾いてる奴。…って俺もよく知らねーけど。
だって話したコトねーもん……なんか怖ぇの、アイツ」
「ふぅん?」
寝転んでいた緋咲はようやく身体を起こした。
平蔵の顔を覗く瞳に、面白そうな光が浮んでいる。
普段詰まらなそうにしてるわりに、興味が湧いたらしい。
「そんな奴いたんだ…」
緋咲がそう言ったのと、ほったらかしにされていた教師が叫んだのは同時だった。
「昼休みが終わってしまっただろッおまえら!!
放課後にまた記録とってやるから、もう教室に帰れッ」
時計を見たらもうそんな時間になっていた。
よほど呆れたらしく体育教師はさっさと校舎に帰っていく。
「んじゃ、戻るか……あれ?俺の靴片方どこ」
「そこに転がってるよ」
平蔵はマットの傍に落ちていた靴を取ってやると、緋咲が軽く飛び越したバーとを見比べた。
「薫ちゃん…何で学校来ねーの?そろそろあの先生キレそーだよ」
「何でって……うぜぇ、から」
靴を履いた緋咲はふと顔を上げて校舎の方を見た。
グラウンド側の校舎には3年生のクラスがある。
まだ授業の始まってないクラスで誰かが立ち上がってこちらを見ているようだった。
「知ってる?薫ちゃんって3年に目つけられてるよ。こないだも教室まで来てたし」
「へ〜?俺みてーな引き篭もり小僧、相手にしなくていーのになァ」
「…そーゆーの全然本気で言ってないからじゃないの」
緋咲は唇を吊り上げて笑ってみせる。
「あと天羽とかも目つけられてるみたいだけど…あいつは、あんまり……
良く分かんねー奴だから」
ギターの音はもう聞こえなかった。
緋咲はマットの上に立ち上がると空を見上げた。
冷たい色の瞳に逆しまの蒼穹が降りてくる。
砂埃を巻き上げて熱い風が吹き抜けた。
地平際で白い雲が生まれていく。
「早く夏休みになんねーかな…」
「薫ちゃんは毎日が夏休みみたいなもんでしょ。補習あんじゃないの?」
「…うぜぇな、やっぱり…あー、さっさと学校辞めてー」
「えーッ?!寂しいよ薫ちゃんいないと。
つーか今日は帰んないでよ、放課後俺一人で100mの記録取んのやだもん」
「…もう疲れたから帰る」
そう言ってマットから降りようとした緋咲は、
教室にも寄らずにそのまま帰りそうな感じだった。
「ちょっと待ってよーッ」
平蔵は思わず腕を伸ばす。
なんだよ。
緋咲はたぶんそう言いたかったんだと思う。
けれど振り返ろうとした瞬間、平蔵の腕が自分の腰に回されて
そのまま思いきり後に投げられたもんだから、
そんな呑気なコトを言ってられなかった。
緋咲の身体がふわりと浮き上がった瞬間、平蔵は勝ったと思った。
ふざけんなクソ野郎ッ
ぐらいなコトを緋咲は言いたかったかもしれないが、
見開いた視界は急激に縦方向に流転していく。
太陽が真っ直ぐに彼の目を射抜いた瞬間、背中からマットに沈んでいる。
「うわー、人間って結構楽に投げれるもんだね」
楽しそうな平蔵の声。
さっさと立ち上がり、けらけら笑ってる平蔵を緋咲は黙って見上げていた。
「…大丈夫?薫ちゃん」
ちょっとだけ心配になった平蔵に、緋咲はようやく口を開き
「……今耳ん中で脳味噌が動いた音がした……」
よく分からないコトを呟くと、起き上がりざまに平蔵を蹴った。
蹴りながら叫んだ。
「こン馬鹿ッ!!何が大丈夫だ!?ボケッ何いきなり投げてんだよ!!」
「いけると思ったら身体が勝手に動いてたんだ〜」
「てめぇは阿呆か!!だからってすんなよッさっきメチャクチャ怖かったぞ!?
てめぇ一回後から投げられてみろッ死ぬから!つーか今ッここで殺ってやる!」
「薫ちゃんが寂しいコト言うからだろ」
「俺のせいかよッ!」
「そ〜だねー」
びっくりはしたが、言葉ほどには怒っていなかった緋咲は
それでも平蔵の頭を一発殴っておいた。
その日の放課後、嫌になるほど晴れていた空はすっかり雲に覆われていた。
重苦しい色の空から突風が吹いてくる。
そんな天気になる前に緋咲はとっくに帰っていた。
平蔵も早く帰ろうと急いで廊下を歩いていた。
そんな時、ふと窓の外に目がいった。
どんどん暗くなっていく空の下、渡り廊下に誰かいる。
一人で突っ立っている。
なんとなく不思議な気がして、目をこらした。
廊下を歩きながらじっとそちらを見る。
天羽だ。
それが誰だか分かった瞬間、平蔵は立ち止まった。
が、次の瞬間また急いで歩き出した。
背中をぞわぞわと冷たいものが駈け抜ける。
天羽と目が合った気がした。
距離があったから錯覚かもしれない。
けれどあの緋い瞳が確かにこちらを見たような気もした。
そしてその時、血の匂いを嗅いだ気がした。
天羽の手が、両方とも赤く見えた。
平蔵はさっさと玄関から雨が降り始めた外に出る。
後を振り返る気も起きなかった。
台風が突然やって来たその日からしばらく経って、
「薫ちゃ〜ん!やっぱあいつ怖ぇよー」
平蔵は日影でぼんやりしていた緋咲に情けない声をかけた。
珍しく体育の授業に出てきた緋咲は、具合が悪いとかいう理由で見学していた。
いったいどこの具合が悪いのか教えてもらいたい。
「何が」
「だから、天羽!」
「…あぁ……、で?」
「怖いヨーあいつ、なんか3年の何人かが病院送りになったとか言ってるしー。
絶対ぇ天羽がやったんだよ!」
「ふぅん?」
緋咲は視線だけ平蔵によこすと、唇を吊り上げた。
「結構笑える奴だと思うんだけどな…」
「は?何ソレ。笑えるって何が?」
「あいつ」
可笑しそうに緋咲は言う。
平蔵の知らないうちに天羽に会ったらしい緋咲は、なんだか楽しそうに笑っていた。
いつか見た天羽を思い出し、平蔵は眉をひそめる。
どうも緋咲にはあれが面白いものに見えたらしい。
けれど平蔵にとっては、あっさりそんなことを言う緋咲の方が面白かった。
妙で、笑えてくる。
「…まぁ、薫ちゃんは変な奴だから…」
平蔵の独り言に、緋咲はそちらを見ないで頭を殴った。
夏休みに入るまであと一週間だった。
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中学生な緋咲さん。
体育の授業には出てなさそう。夏なんてもっての他。
この人は果たしてジャージを着る機会があるんだろうか。
とりあえず、学校には持って来なさそうだ。
が、しかし。
下がジャージで上が白のTシャツという夏の体育定番な格好も見てみたい気がする……。
ああ、夢なのか、それは。
もう帰ってやる!!