『 花曇 』




薄ら白い春の空から細い雨が降っている。
アスファルトに雨粒が割れ、溢れかえった水の気配。
傘のまばらな影は泳ぐように進んでいく。
そのうち、透明なビニル傘が一つ、歩みを止めた。
彼は何とはなしに顔を上げ、視線は行き交う傘の群れを越え
少し脇道を入った先の木陰に目がとまる。
雨にけぶる木の傍に知った顔を見、冷たい色をした瞳がきゅうと細められた。
「時貞」
取敢えず声をかけ、緋咲は小首を傾げる。
傘を持ち直す指が雨気で冷たくなっていた。
それなのに時貞は傘も持たずに立っていた。
降りしきる雨が枝葉を濡らし、こぼれ、木陰はもう雨宿りの出来る場所ではなくなっていた。
実際、時貞は酷い有様だった。
それなのに、びっしょりと濡れた顔は楽しげで、唇には笑みが浮かんでいる。
水煙の漂う世界で、その瞳だけに熱を感じた。
「何してんだ」
緋咲の物言いは独り言に近く、
呆れ顔すら浮かべずに、妙な場所で会った友人のもとに歩く。
午後の授業を早々に辞退して、ぶらぶらと歩いてきたが
同じように学校から抜け出したらしい時貞が、こんなところで雨に打たれているとは思ってなかった。
しかし、この酔狂な友人に物を問う気にはならない。
聞いたところで、まともな言葉が返ってくるだろうか。
雨音が耳を塞いでいる。
それが言葉にも紛れる。
けれど、それらが在ろうと無かろうと、今日の時貞には関係ないかもしれない。
緋咲は熱を孕んだような緋い瞳と向き合った。
奇妙な友人は唇を吊り上げると、ビニル傘の下に入りこみ、間近に囁く。
「血」
緋咲は自分の指を見た。
生乾きの赤いものが点々としている。
汚れたそれに、今頃雨にしとどな残骸を思い
緋咲は憂鬱な、けれど剣呑な微笑を浮かべる。
「別に、いつものことだろ。おまえは何してんだ」
時貞は薄く笑った。
乱れた銀髪の合間から雨粒がしたたり落ちる。
「待ってた」
随分と機嫌良い声は、一瞬だけ緋咲の眉を顰めさせたが
それだけだった。
「そりゃあ、ご苦労さん」
「うん」
「で、そんだけ?」
時貞は小首を傾げ、何も言わない。
唇に浮かべた微笑の理由は、眼球に映るだけの世界を少し解離しているのだろう。
時貞は強く雨の匂いがした。
どれほど長い間雨の中にいたのか分からない。
けれど緋咲は、時貞の待っていたという言葉を本気にするつもりは無かった。
夢と現を交じらせたような時貞にも、平然と他愛もない嘘をつく時貞にも
慣れていた。
適当に別れを告げ、帰ろうとした緋咲の腕を時貞が掴む。
雨に芯まで冷えた指だった。
「緋咲」
緋咲は掴まれた手首を一瞥した。
振り払えば、時貞の指は簡単に外れるだろう。
しかし、そうしようとは思わなかった。
「なんだよ」
「桜」
「は?」
「桜見たいと思って」
時貞はじっと緋咲を見詰めていた。
いつのまにか緋い瞳から笑みが消えていた。
桜が見たい。
もう一度繰り返し、時貞は傘から出た。
そして緋咲の手を掴んだまま歩き出す。
進む先、黒い木立の向こうに公園が見えた。
時貞はそちらには行かず、ぐるりと巡った木立の中を歩いていく。
緋咲も黙って歩いた。
傍らを雨気を抱えた風がゆったりと吹き抜ける。
すると、白い小さなものが流れ過ぎていったような気がした。
すぐ近くに桜が咲いているのだろうか。
緋咲は知らない。
ただ、いつか見た古い桜の木を思い出していた。
降りしきる雨が掴まれた腕を濡らしていく。
不思議と、冷たさはもう感じなかった。
木々の合間を行くのに邪魔で、緋咲は傘を捨てた。
「俺は、濡れんの嫌いだって言ってんだろ」
時貞が振り返り、笑う。
その笑顔や、機嫌の悪さを隠そうとしない緋咲の頬、
肩や手、或は踏み出す足の先に、
雨が降る。
頭上を覆う緑の葉からこぼれ落ち、枯葉の溜まった地面を打つ。
雨下の木立は黒々として、ぬるい空気が四肢に絡みつく。
雨の、土の匂いがゆるりと流れ出す。
芽吹いた新芽の、或は雪に折られた細枝の、匂い。
木々の陰鬱な影の下、虫が蠢きはじめ、
生まれたものと、腐っていくものが、雨に揃って息をする
このむせかえるような春の吐息。



いつか二人、木立の切れた先で











































桜が咲いている。



白い息を吐きながら、相賀がそう言ったので顔を上げた。
夜明け前の深い青に目を凝らすと、確かにそこには桜があった。
空へと高く張りめぐらせた枝に白いものがある。
緋咲は立ち止まり、ほんの少し首を傾げた。
「雪だろ」
土屋が、まだ酔いの覚めない相賀の頭を軽く小突いた。
機嫌の良い相賀の興味はすぐにそこから離れ、
何か楽しげに話しながら、止めていた足を進ませた。
少しふらつくその隣を、土屋が煙草を銜え直して歩いていく。
緋咲は、立ち止まったままだった。
空が白むにはまだ早く、雪の積もったあたりだけが微かに明るい。
春の遠い桜も、朧な花を咲かせている。
その様を、緋咲はただ眺めていた。




やがて一人、薄い雪明かりを行く。
































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桜。
梶井基次郎も好きだけど、坂口安吾も好きだったり。

春は色々びっくりしますね。
二日ぐらい放っておいた鉢植えを見たときとか。
もう知らない芽やら葉やらがズンズン育ってます。


さ、帰ろうかな。