『solid spiral 4』




夕刻の空を風が吹く。
くすんだ雲、散らされて
油絵の具を塗りたくったように強烈な青が空を支配する。
明るい青だ。
なのに、決してその奥を見透かさせないような、ただ青。
濃厚に色を重ねて、星すら塗りつぶしてしまうように。
地平際に沈んでいく夕陽はぼやけた黄。
片雲は朱に流れ。
もう雲はあんな色をしているのに、どうして空はこんなに夕暮れが遠い。
その明るい青から細い雨が降ってくる。
夕闇に沈む街に。
暗いアスファルトに。
音もなく、密やかに雨は降っていく。
街燈がつき始めた道で、時貞はふと立ち止まる。
ぼんやりしていた緋咲はしばらく気付かずにすたすた歩いた。
それからやっと振り返る。
「なに」
緋い瞳は上を見ていた。
「雨が降ってる……晴れてんのに」
緋咲もちょっと空を見てみた。
青天から降る雨は白糸の様。
ぽつり、白い頬に雨粒落ちた。
「こういう天気ってなんか困る。傘差すのもめんどーとか思うし…」
呟くような声。
時貞は空を眺めて小さく笑う。
「もともと傘なんて無いだろ」
どこかぼんやりしている緋咲は曖昧な返事をする。
雨が降るとこいつは大抵こんなだった。
ほんの少し柳眉をひそめ、空から落ちてくる雨を眺める緋咲。
「それに」
時貞は緋咲に近づくと、
「もう濡れてるから関係ないし」
そのしっとり濡れた髪を掻き回した。
「やめろっつーの」
緋咲はその手を外させて、時貞の頭を軽く殴る。
更に、夕陽に透けるような銀髪をわざわざ掻き揚げると、その額を叩いた。
ぺちん、と不思議な音が響く。
「いたっ」
緋咲が笑ったから、時貞も笑ってみた。
雨が降る。
降る。
「…虹が出るかもしれない」
次第に暗くなっていく建物は、見上げた空を不定形に切り取るけれど。
時貞はじっと天を仰いでいた。
緋い瞳に色彩が滑らかな層を描いて流れていく。
だんだんと空は色を変え。
気狂いめいた青から、透き通る藍へ。
影の濃くなった雲が虹色の光を乱反射していく。
「明日、晴れるかな」
そう言うと、緋咲は煙草を銜え火をつけた。
空へと真っ直ぐに立ち昇る紫煙。
「雨降ったらさぼるつもりなんだろ」
時貞も煙草を銜え緋咲から火を貰った。
緋咲はしばらく何も言わずにその火を眺めていた。
そして、
「雨なんか降らなくても明日は学校いかねーよ」
小さな声。
けれど、冷たい。

その理由を、時貞はすぐに理解した。
明日は三者面談で親が公然と学校に呼ばれる日だ。

「絶対、いかねー」
囁くような、けれど明瞭とした声はそう言いきった。
緋咲はぼんやりと紫煙をくゆらせる。
その目は時貞を見ない。


今まで、一度でも緋咲は自分の親について時貞に話したことは、無くて。
家での話も決してしない。
だから時貞も聞かない。
緋咲は、それをどうしたって喋りたくないのを知っているから。
緋咲も時貞にそんなことは聞かない。
聞かれても、時貞にはもう話すべきことが無いのだけれど。

もし誰かに、あなたのご両親はどんな方ですか、なんて聞かれたら
たとえば、
父親は後ろから撃たれて死にました
母親は暴動に巻き込まれて知らないうちに死んでいました
みんないい人でした
とでも言うしかない。
誇るべき優しい記憶はこの手の中にしっかり掴んでいたとしても、儚くなって。
脳味噌に鮮明な映像を焼き付けているのは、死。
だから
やっぱり、言わないでおこう。


明る過ぎた空は次第に夕闇濃く。
気付けば、雲間に星が煌き始めていた。
仄白い緋咲の横顔を眺めながら、時貞は呟いた。
「ふぅん…じゃあ、俺もさぼろーかな」
「なんで。おまえんトコ、そーゆーの出ないとジジイがうるせーとか言ってたろ」
「いいんだ」
緋咲は視線を上げ、時貞の瞳を真っ直ぐに射貫いた。
血液よりもずっと鮮やかな緋色をじっと眺める。
時貞は軽い口調で言った。
「めんどくせーから」
緋咲の瞳がきゅうと細められる。
「…ま、確かにな…」
煙草を唇から摘んだ指は青白い。
細く紫煙を吐き出して、緋咲は唇を吊り上げてみせた。
「やってらんねーよ」
その顔に浮かぶのは、随分と冷ややかな微笑。

「…親なんて、いないって言っておけばよかったんだ…」

雨音と響きあい、けれど聞き逃すことは出来ないその声。
凍てついた眼差しはただ雨の降り落ちる闇だけを見据え、
そして
「うそ」
緋咲はいつも通りに笑ってみせた。
時貞の方を向いた瞳には、もう冷たい翳が消えている。
「濡れた、さっさと帰ろう」
髪を指で梳きながら緋咲は足早に歩き出す。
その背中に時貞は声をかけた。
「緋咲」
「…ん?」
肩越しに緋咲は振り返り、夕闇の中まるで別のモノのように煌く時貞の双眸を見る。
「なに」
「…じゃあ、さ。何て言うの」
その問いに緋咲は小首を傾げてみせた。
「なにが」
「親のこと。これからは何て言うつもりなんだよ」
「…何て言おうかな」
「死んだコトにでもすんの」
ほんの少しの間、緋咲は押し黙った。
時貞は煙草を燻らせながら近づく。
互いの顔がよく見えるように、間近に瞳を覗きこんだ。
「……さぁ?」
緋色の眼球は熟れて零れ落ちた柘榴の様。
その芯に食らいついて揺れているものを、真っ直ぐに見据えた緋咲は
「始めからいない奴は、死なないんじゃねーの」
ほんの小さく笑う。
その声は静かに時貞の耳朶をうった。
時貞はじっと緋咲を眺めて
「…あぁ、そういうコト」
柔らかな微笑を浮かべた。


たまにコイツは本当に勘が良くて、酷くあっさりと人を抉るから
困る。

……親なんて、いないって言っておけばよかったんだ……


親を
自分を
生まれてしまったことを
ここまで生きてしまったことを

否定することには意味が無い。
拒否することには意味が無い。
じゃあ、どうすれがいいのか。
泣けてくるほど綺麗な説教でもあればいいけれど。
震える神経細胞を全滅させるほどの陶酔原理がこの身体には存在しない。
だから、
もしもそんなものが慰めになるのなら
この手に知らずに握らされた
血と記憶の螺旋を
今のこの一瞬だけでも断ち切って
世界にただ一人の、宙ぶらりんな空しい存在になりたい
この一刹那だけでいいから



煙草を銜えた口許が笑う。
「“自分はある日、仕方なく、一人っきりで生まれてしまいました”って話にしておこう」
「何それ。おまえ人間じゃないねぇ。そーゆー風に生まれるのってどんな生物?」
時貞は笑う。
「知らない」
緋咲も喉の奥で可笑しそうに笑う。
雨の雫が睫毛を揺らした。
もう二人とも随分と濡れてしまって、
時貞は濡れた髪を掻きあげ空を仰いだ。
そうして笑う。
「…明日は、学校さぼってどこかに行こう」
小さく笑いあう声は雨に沈んでいく空気を漣のように揺らめかせて。
夜色の空に虹は見えない。


振りかえれば銀盤の月。
藍の雲に顔を隠して。
夕闇静か。
雨が降る。
優しい雨が降り注ぐ。
「帰ろうか…」
「…帰ろう」
どこに帰るのか、何も考えていなかったけれど

雫に目蓋を閉じて、また歩く。































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時貞にとって緋咲は“兄弟”じゃないらしいんです。よって“お友達”に確定です。
でも 兄弟>お友達 ってわけでもないようです。
なんじゃいそら。

人との付き合い方を、前向きか、それとも後向きかというように、非常に単純化して捉えるならば
時貞と緋咲さんの関係は、僕の中では後向きです。
どこまでも享楽のみを考えて、それを脅かすものは立ち入れなくしているような。
まぁ、あくまで私見です。
が、今回はそんな風に解釈して書きました。