仰ぎ見れば空はまったく高すぎた。
昨日の雨の名残なのか、若草の透き通る翠は
ひそやかな雫に濡れ、清らな一滴をアスファルトの上に落す。
蒼く燃える空も、水溜りに反射する気狂いめいた陽光も、そろって時貞の緋い瞳を焼こうとしていた。
肺に吸い込む風が穏やかに身体を突き抜けていく。
世界は、空は、あんまり静かだ。
その下を歩くものを無視して。











 『the scar』




麓沙亜鵺が初めて外道とまともにやりあったらしい。
それを耳にした時、時貞は特に感想も無かった。
頭をはってる奴の性格を考えれば当然の結果だ。
けれどそういえば、もう随分とあいつの顔を見ていないかもしれない。
お互いに一人で好き勝手にやるほうだから、会わなければ会わないでそのまま。
最後に会った時、何の話をしただろう。
思い出すより簡単なのは、あいつに会いに行くことだ。




久方ぶりに歩く太陽の下は、なんだか酷く静かで、そして綺麗で
何もかも真白なキャンパスの上に、たった一人、自分の色彩だけが焼きつけられたようで
不愉快になる。
静かな空
静かな街
気狂いめいた自分
呼吸を凍らせるようなこの断絶が

ただ嫌いだ。



前を歩いていたルーファスが振り返った。
隣を行くアービィも足を止める。
そこは何処にでもあるようなアパートだった。
だいたい、緋咲は捕まえにくい。
朝とはいえ、横須賀のマンションにいつもいるわけでもなく、
だからといって、いくつかある巣のうちのどれかに必ずいるわけでもない。
とりあえず手近な巣に来てみたが、ここにいなかったら探すのを止めよう。
それは無駄なことだ。


カギは開いていた。
何か声をかけるでもなく中に入ったが、誰もいないように静かだった。
アービィとルーファスは時貞の脇をすり抜け奥の部屋に行く。
ふとキッチンを見ると、丁寧にラップを掛けられた皿がいくつか置いてある。
朝食の準備のようだった。
緋咲は、そういう面であまりまめな人間ではないから、他に誰かいたんだろう。
奥からルーファスの呼ぶ声がした。
そちらの部屋に足を踏み入れた時、窓の隙間から風が吹き込んだ。
カーテンが捲り上がり、部屋の中に光が溢れる。
ベッド以外、何も無い空間だ。
白い壁に囲まれてそいつが眠っている。
アービィは布団に足を掛け、しきりにその顔を覗きこむが、起きる気配はない。
特徴的な色をした頭の横に、煙草が転がっている。
そういえば煙草を変えると言っていた。
理由は、なんだったかな。
時貞はそれを一本失敬すると火をつける。
微かに甘い薫りが溶け出した。
緋咲はまだ起きそうもない。
紫に染められた髪は、寝ているのだから当然立てられているはずもなく
時貞はその柔らかな髪に指を通すと、こんなときぐらいしかやれないので、思いきり掻き回してみた。
途端に白い目蓋が開く。
冷たい色の瞳が時貞を見上げた。
「……あ? てめえ何してんだ……」
ぼんやりした声でそれだけ言うと、緋咲はまた目を閉じる。
相変わらず寝起き悪い奴だ。
安らかな惰眠に沈もうとする緋咲の上に焦れたアービィが乗っかる。
「……重いんだよッアービィ!! てめぇ自分が何キロあるか言ってみろッ」
無茶な言い分に時貞は小さく笑った。
アービィが降りると、ようやく緋咲はのろのろと身体を起こした。
乱れた髪に指を通しながら時貞のほうに向き直る
その白いシャツが赤く汚れていた。

何もかも白い部屋の中で、それは鮮やかに浮び上がる。

「緋咲……何だソレ」
見ればシーツにも大きな赤い染みがある。
左の拳が手首までペンキに突っ込んだように染まっていた。
緋咲は時貞の言葉に答えぬまま布団の中へ手を入れると、白い地の方が少なくなった包帯を引き摺り出した。
「フン……寝てるうちに自分で取ったんだな」
引き千切ったような赤い包帯。
右指の爪に血がこびりついている。
時貞は静かに口を開いた。
「左、潰されたのか」
緋咲は答えない。
代りに、壊れた拳を壁に叩き付けた。

「…あんまりバカばっかすんじゃねーよ…」

堅く握った拳から新しい血が零れ出す。
時貞が一瞬早くその手首を掴んでいなかったら、白い壁が赤く染まっただろう。
そしてまた、壊れ物が増える。
掴んだ手首は微かに震えていた。
緋咲は腕から力を抜かない。
時貞もその手首を握り潰すつもりで力を込めたまま、何も言わない、顔を上げようとしない緋咲の、
白い項を眺めていた。
しばらくぶりに会った友人は、拳の他にもどこかが壊れていた。

俯いていた緋咲がゆっくりと顔を上げる。
笑っていた。
酷薄な唇を吊り上げ、きゅうと細めた両の目に冷たい燐の焔が揺れる。
「……何だよ? 時貞……」
吐息とともに伝わるのは憎悪。
時貞は目を見張った。
初めてかもしれなかった。
自分に向かってこんなにも、怨嗟を露にするのは。
剥き出しの激情が白い部屋を飽和させていく。
魂の奥底を射殺すような双眸に、一瞬闇が揺れた。
それは時貞の見知らぬものだった。
「使いモンにならねー拳は、いらねえだろ?……」
怒りで声が掠れる。
刹那に垣間見た、暗く冷たい何かは、憤激に飲まれて消えた。
そしてただ、燐の焔のような瞳だけが残り、時貞を見上げる。
時貞は掴んだ手首をゆっくり放し、言った。
「……頭悪ぃ奴……」
緋咲の眼光が鋭くなる。
その時、ルーファスが緋咲の左肩を後ろから引き倒した。
「って、おいルーファス!」
そして仰向けに倒れた緋咲の左肩の上に座りこむ。
アービィも加わったので緋咲は呻くしかなかった。
「……てめぇら、マジでキレっぞ!」
ルーファスが一声咆える。
「ホラな?頭悪ぃって」
「うるせぇ!」
いくら怒鳴ろうが二匹は平気な顔で座りこみ、自力で抜け出す気力もない緋咲は溜息をついた。
「……分かった、もうやらねぇから退け……」
すると二匹とも大人しく緋咲から降り、時貞の足許に戻った。
それを恨めしい目で見る緋咲は寝転んだまま起きようとしない。
気怠く煙草を銜えるが、ジッポを握る左の指が上手く動かない。
舌打ちした緋咲に、時貞は自分の火を貸してやった。
「……で?てめぇは何しに来やがったんだ」
「別に。近く通ったから」
緋咲は訝しげに目を細めた。
「俺ってココにそんな良くいる訳じゃねーぞ」
「でもいただろ、今日は」
「……横須賀の自分んとこは今うぜぇんだよ、色々と。五月蝿いのが良く来るから」
思い出したように顔を顰める緋咲は、ベッドに前足を掛けて尻尾を振っているアービィの顔を撫でた。
絹糸みたいな毛の合間から覗く指先が赤い。
「緋咲」
赤い指先はアービィの耳を摘んで遊んでいる。
「“外道の秀人”はどうだった?」
横から顔を出してきたルーファスを撫でていた指が止まった。
「おまえの拳潰したのソイツなんだろ」
緋い瞳を見上げた眼差しは、底冷えさせるものだった。
しかし時貞は問い続ける。
頭のどこかを、先程見た暗く冷たい何かが掠めた気がした。
あれは何だろう。
あの憎悪は。
「最悪だ」
吐き捨てるように言って緋咲は冷たく笑った。
「顔がキライだ、声がキライだ、態度がムカツク、見るのも嫌だ」
悪意を煌かせて嘲笑う瞳がだんだん鋭さを増していく。
天井をじっと睨む双眸は、そこにいない誰かに向けて、千切れそうな憎悪を注ぐ。
「アイツは……」
凍りついた熱を内包した眼球。
時貞の見知らぬ瞳をした友人は言葉を続ける。
「……理由なんざ無くていい。アイツは“敵”だ」
囁きは既に嘲笑すら浮べず、ただ研ぎ澄まされた憎悪だけがある。
「敵なら、潰さないとな…」
握り締めた左の拳から、血が止まらない。
溢れて零れて、シーツを汚す。
きっと酷い傷痕が残るだろう。
いつまでも、ずっと。
時貞は、掌を緋咲に向けて開いてみせた。
「敵なら」
そこには赤い血がついていた。
「おまえが敵って言うのなら、俺が“秀人”殺っても別にいいだろ」
「……あ?」
「血がついたから、俺にも」
そして憎悪も。
時貞の掌を、緋い瞳を、緋咲は柳眉を顰めて見上げていた。
暫く考え、それから目を丸くしてまじまじと時貞を眺め、急に眉根を寄せる。
「……セロニアス、てめぇバカか? 俺がやらねーと意味無ぇだろ」
「何で」
「これは初めから“族”としての問題だ、おまえは関係無ぇ」
「ふぅん……“族”ねぇ」
「それにこれは俺の喧嘩だ、横から取んな。
だいたいおまえはアブねー喧嘩好きなんだよ! おまえが絡むといつも話がややこしくなる」
緋咲の目からはもう先ほど見せた冷たさは消えていた。
そして、いつものように笑っていた。
時貞はふと名案を思いつき、唇を綻ばせた。
「じゃあ、左の分は緋咲の喧嘩だから譲るとして、右のときは俺の喧嘩な? 30人は殺ってやるから」
逆に緋咲の笑みが引き攣った。
妙案に独り頷く時貞を、黙って眺める。
それから、おもむろに身体を起こすと時貞の肩に手を置いた。
「時貞、おまえって奴は……」
そして思いきり頭突きした。
「ホント馬鹿だろ!? 何で俺が右も潰すんだよッ!! 馬鹿! バカッ! ヴァーカ!!」
三度も言われた時貞は額を押さえて蹲っていた。
「アービィ、ルーファス、良く聞け。こいつが何か妙なコトしたら噛みつけよ。つーか食っちまえ」
「……俺の“兄弟”にあんまり妙なコト仕込んでんじゃねーよ」
「てめぇがあんまり阿呆なコト言うからだろ!」
「阿呆なコトを言ったつもりは無ぇよ」
すると緋咲は口を噤んだ。
冷たい色の瞳が大きく瞬きするのを、時貞は不思議に思った。
何故か緋咲は何も言わずに、じっと時貞の目を覗きこんでいた。
それから、大きく溜息をつく。
「……なんか疲れた」
「飯食いにいこーぜ。腹減った」
「ん、俺も」
「何かキッチンに用意してあったけど」
「……知らねー、誰か来たんだろ」
「いい加減な奴」
「てめぇに言われたくねーよ」
緋咲は半分まで吸ったJOKERを灰皿に押しつけた。



























「…楽しそうだな緋咲は」
「少なくとも退屈はしねーかな」
「ふぅん」
「…まぁ、でもお前は無理、族は」
「何で」
「飽きる」
「そうかな?」
「あぁ、分かるね」
「どうして」
「結局てめぇは、てめぇの音楽しか戻るトコねーだろ」

綺麗に平らげた料理の皿に目を落したまま緋咲はそう言った。






 「じゃ、もう帰るわ」

































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ボルゾイはとっても綺麗なワンコです。
そして僕の頭の中ではこの二匹、かなりの男前です。

12巻で時貞は拓相手にキレてましたが、これで相手が秀人くんだったら、どうするつもりだったんですかね?
……想像すると、怖っ!
ところで、巣が多い16歳はどうなんでしょう。何してんでしょう。
……ヒモですか?
ああ、なんだか発想の根本を間違えたような気がします。


ものすごい勢いで帰る!