『 手繋ぎ 』
白い部屋だ。
窓から指し込む陽光の角度が部屋を神経質な白に染めている。
その白さを、緋咲は目を閉じたままぼんやりと感じていた。
半覚醒の脳味噌にそれは強過ぎて。
腕を動かして光を遮りたいのに、横たえた四肢はがらくたのよう。
緋咲はほんの少し柳眉を顰め、睫毛の影を揺らすだけだった。
暫くして、ようやく聴覚が戻り始める。
風の切れる音。
小さく窓が揺れる。
遠くからだんだん近付いてくるこれは誰かの足音。
堅い廊下がそこにある。
微かな話し声。金属が僅かに触れ合う音。
身体の中を無遠慮に通り過ぎていくそれらから、緋咲は自分が病院にいると気付いた。
無意識に身体を起こそうとする。
途端、脇腹の辺りが熱く疼き、重く鈍い痛みが広がっていった。
開いた目に白い天井が映る。
緋咲はその白を凝視しながら、自分がどうしてこんな所にいるのか考えようとした。
いくつかの記憶が水泡のように浮かんでは消えていく。
そして、B突。
昨夜の事を思い当たり、緋咲はそれ以上思い出そうとするのを止めた。
また目を閉じて怠惰な眠りに浸ろうとする。
それでも、痛みが残った。
脇腹の傷の痛みではない、それ。
胸の内に生まれた、ありもしないその痛みが、静かに血流に乗って全身へと巡る。
手や、足や、指先。眼窩や脳味噌に。
それは柔らかな腕を差し伸べ、絡め取ろうとする。
ほんの小さく緋咲は溜息をついた。
そして青白い額の奥、熱の無い夢を見る。
時貞が死んだと聞いた日の事を、緋咲はよく憶えてない。
ただ、あの日携帯で聞いた、必死に何か言おうとしているのに涙で言葉になっていない優理の声を思い出すと
今でも嫌な気分になる。
背筋が粟立つあの感覚。
それは、恐怖と良く似ていた。
しかし他の事となるとまるで曖昧だ。
物覚えは悪くない筈だが、どうやって横浜まで行ったのかも思い出せない。
漠として浮かんでくるのは、切れ切れの映像。
ヒロシとキヨシ。
泣く優理。
棺に群がる黒い群。
それは弔いの長い列だ。
聖書を読み上げる声と共に暗く淀んだ空気が震える。黒い列から生まれるざわめきは水泡が小さく弾けるようだ。
沈んだ世界の底、緋咲は一人棺を眺めながら考える。
何もかも滑稽だった。
死体は所詮、モノだ。後は腐っていくだけの死肉だ。
棺の中に横たえられているのは時貞であったモノで、時貞ではない。
時貞はもういない。
黒い列はモノを取り巻き、溜息ともつかないものを洩らしている。
モノに縋りついて、声を上げて泣き、涙を流してみせる。
滑稽だ。
そしてどうしようもなく、気持ち悪い。
緋咲は出来るだけ早くその場を立ち去りたかった。
なのに足が動かない。
足を大地に縫い付けられたまま、棺を凝視する。
そこにあるのは、ただのモノだ。時貞は死んでモノになった。
これが、終わりなのか。
知らぬ間に勝手に死んで、それで全てを終わりにされたのか。
緋咲は茫然として、いつ終わるとも知らぬ弔いを眺めていた。
その日から、緋咲の中に冷たい澱が生まれた。
普段それは深く沈んでいるが、ある時ふっと浮かび上がっては思考を切断しようとする。
それが何なのか、緋咲はよく分からなかった。
だから無視した。
時貞が死んだからといって日常の何が変わる訳でも無く、他に考えねばならない事、やるべき事があった。
視界の隅に少し目障りな奴がうろついている。
一色大珠。
チームの中の何人かが、しかも土屋と相賀がそいつと関っていたのを知ってからは、
それは目障りではなく敵意の対象になった。
敵ならば、潰さねばならない。
緋咲は大珠を探した。
そうしながら、ふと時貞の事を思う時があった。
それは何気ないものだ。
確か時貞に何か貸してた筈だけど、あいつ憶えてんのかな。さっさと返せよ。
そんな詰まらない事を考えては、すぐに時貞がもう死んでいる事を思い出す。
そしてあの澱が浮かんでくる。
身体の奥からゆっくりと浮かび上がり、胸の内に冷たいものを広げていく。
澱は緋咲の思考を止めようとし、足から力を奪おうとする。
緋咲が時貞の死に場所であるベイブリッジに行き、拓に会ったのはそんな時だった。
それから。
拓に会い、腹の底に溜めていた憤激をぶつけてから、澱は形を変えていた。
靄のようだったものは研ぎ澄ませた鋭さを持つようになり、胸の内にいつもその薄刃を潜ませるようになっていた。
灰色の亡霊が現れてからそれは益々冷たさを増し、身体は熱を失っていく。
それでも、緋咲は気付かない振りをしていた。
思考に割って入ろうとする、ある種の疑問に目を向けないようにしていた。
どうして、時貞は死んだのか。
死んで、モノになって終わりなら、結局時貞という人間は何だったのか。
何か、だったのか。
ただのモノだったのか。
時貞と交差した記憶の僅かな一点が、緋咲の中から遊離していく。
だから、緋咲は気付かない振りをしていた。
そして緋咲はB突に立っている。
明けきらぬ空は暗く、茫として渦巻いている薄雲の青が強い。
ふと視線を巡らせば、傾きかけた月が蒼白い大気に溶けかかっている。
消え入りそうな星が最後の瞬きをし、薄光の世界に微かな夜を煌かせている。
静謐とした空を、緋咲は喧騒と怒号に包まれながら眺めていた。
肉を打つ重い音、罵声或いは悲鳴、大勢の生き物が群れ集う独特の気配。
争乱の中心にいるのは、互いの存在を滅ぼそうと牙を剥く幾つかの影。
それを幾重にも取り囲み狂乱する群。
B突に満ち溢れた争乱は余程飢えているようで、収まるどころか益々大きく膨れ上がっていく。
その中心にありながら、緋咲は一人静かに立っていた。
突堤に並べられたコンテナの一つに凭れて煙草を銜え、眼前に繰り広げられている喧騒に冷やかな一瞥をくれる。
その切っ掛けを緋咲は知らない。
どうせ碌でもない理由なんだろうと思うだけだった。
緋咲にとっては所詮他人の喧嘩であり、適当に暴れる事が出来ればそれで良かった。
それにも飽きてしまえば、後はこの馬鹿騒ぎに付き合ってやる理由は無い。
これで目障りな連中が共食いでもしてくれれば有難かった。
紫煙を燻らせていると、今も混沌の中心にいる秀人と目が合う。
秀人の前には真里がいた。
「緋咲!てめぇ……」
秀人は何か叫ぼうとしたが、真里が低い体勢から跳ね上がるように一撃を放ったので後に下がった。
恐らく、何さぼってんだ、と言いたかったんだろう。
緋咲は酷薄な唇に悪意を乗せて微笑した。
その唇に乾いた血がこびりついている。
ぺろりと舐めると舌の上に馴染みのある味が広がった。
緋咲はふと視線を下し、自分の手を見た。拳の辺りを中心に赤黒く汚れている。
自分の身体から濃厚な血の匂いがすることに気付き、緋咲は顔を顰めた。
無意識に手を脇腹に当てる。
そこは鈍く熱を持ち、また血を滲ませているようだったが、不思議と痛みは感じなかった。
まだ、この身体は動く。
緋咲は顔を上げ、喧騒の最中にいる小柄な影を見据えた。
その視線を感じ取り、来栖が緋咲の方を向く。
少女のようにほっそりした首の上に行儀良く乗っている小さな顔が瞬間、怖気立たせる笑みを浮かべた。
ぎらついた瞳を見返し、緋咲も不遜に嘲笑う。
血の染着いた指で来栖の前に立ち塞がっている大きな影を差し、小首を傾げて見せた。
来栖の前にあるものは岩山を思わせた。
背は長身の緋咲よりも尚高く、体躯は遥かにがっしりしている。
それが湘南極悪蝶の二代目であり、来栖が初代だという事を緋咲は知っていた。
対峙する二つの影はあまりに大きさが違い過ぎるが、来栖は楽しそうに笑っている。
慈統を指差し、さっさと終わらせろ、と目で伝える緋咲に、
来栖は血塗れの人差し指を向け、同じように小首を傾げて見せた。
視線を絡め合い、二人微笑する。
次の瞬間、来栖は狂おしい微笑を貼りつかせたまま慈統に向かって動いていた。
そんな来栖と慈統に、緋咲は冬の湖のような瞳を向ける。
怒号が溢れるB突を、果ての無い喧騒を、その向こうに広がる茫漠とした静けさを
眺める瞳に悪意も蔑みもなく。
ただ透徹した冷たさだけを残し、緋咲はそこに立っていた。
そしてゆっくりと、あの澱が浮かび上がってくる。
音がした。
初めは微かなものだ。
天を轟かせる怒号に紛れ、聞き間違いかと思えるような。
けれど緋咲は知っていた。
だから、それに誰一人気付かぬ中、首を巡らせ、両目を大きく開いて、その訪れを待った。
黒々と群れ集った影の間を縫うようにして強烈な白光が突進してくる。
突堤に溢れた混沌を貫き通すようなヘッドライト、一切を噛み千切り咆哮する排気音。
“悪魔の鉄槌”
緋咲は拓がその単車に乗り、この混乱の中に来る事を確信していた。
悪魔の鉄槌が拓に引き継がれた事を知ってから、いつか自分の前に現れるだろうと思っていた。
だから緋咲はこの場所に立っていた筈なのに、今現実にその姿を見、その音を聞いた時、
唐突に緋咲の内側は壊れた。
凍り付いた瞳は揺らぎ、ただその影を追う。
一直線に海へと進む拓と単車は盲いたようであり、何かに導かれるようでもある。
「拓ちゃん!」
誰かが悲鳴のような声を上げた。
制止しようとする叫びが連鎖する。
皆、拓を見ていた。
緋咲は一人、その先を見ていた。
夜が明ける。
海と空が溶け合う境界が黄金の光を放つ。
そこに、死者がいた。
緋咲は目を逸らそうとした。出来なかった。そこにいる筈の無いそれに視覚の全てを支配される。
やめろ。
緋咲は否定する。声にならない叫びが胸の内を引き裂いていく。
ふざけるな。
もしも唇が動いたなら、その叫びは天を震わせただろう。
緋咲は拒絶する。
いる筈の無いそれを拒絶する。聞こえる筈の無い声を拒絶する。
その懐かしい緋色の眼差しを、心から閉め出そうとする。
それを受け入れたら、自分が脆くなってしまうから。
時貞は死んだ。
死者は、死者だ。
もう会う筈が無いのなら、会いたいと思う気持ちには意味が無い。
そうやって懸命に押えつけて、無視してきたものが冷たい薄刃を胸に差す。
緋咲を身体の奥底から揺さぶり、乱していく。
そしていつか、研ぎ澄まされた刃は胸を突き破り、溢れ出たものは優しく緋咲を抱いた。
緋咲は自分の中にいた時貞をようやく受け入れた。
明けていく光は空に、海に透き通った輝きを与えていく。
単車から降りた拓は不思議な微笑で振り返る。
「みんな……喧嘩…止めに来たよ……」
そして倒れた。
凍り付いていた時間が再び動き出す。
けたたましいサイレンと赤色灯、パトカーがB突に近付いていた。
しかしそのざわめきの中にすら、何か静かなものが横たわっていた。
「緋咲」
頭を垂れていた緋咲は顔を上げる。
いつのまにか秀人が傍に来ていた。
「死人に会ったみてぇな顔してるな」
緋咲は上手い悪態が思いつかなかった。
代わりに唇から零れたのは小さな溜息。
込上げてくるものを必死に堪えるせいで、喉の奥が詰まったように酷く痛かった。
もしも、他に誰もいなかったら、泣いていたのかもしれない。
緋咲は秀人を眺めながら、そんな事をぼんやりと考えていた。
「秀人」
しかし問い掛ける声が慟哭に震える事は無かった。
「おまえ、何か見たか」
秀人は暫く黙ったままだった。
何も言わず、緋咲の凍り付いた湖面のような瞳の底で、微かに揺れている光を眺めていた。
やがて緋咲を真っ直ぐ見据えて口を開く。
「いや、何も見てねぇよ」
「……そうか」
緋咲はほんの少しだけ笑った。
「良かった」
白い部屋だ。
目蓋越しに光を感じ、緋咲は薄く目を開けてみる。
白い天井だ。
そのまま伸びをするように背中を反らせて後を見ると、窓に四角い青空がある。
白い入道雲が緩慢に遊泳し、空を一層深い青にしていた。
カーテンの傍で赤い花が揺れている。
その甘い匂いをピアノの音が振動させていた。
拙い音だ。遥か遠い過去に聞いた曲を一本の指で思い出しながら弾くような。
腹筋を使って身体を戻すと、鍵盤に乗せた足が一音小さく鳴らせた。
「緋咲」
左にいた人間の、俯いた褐色の項と銀の髪が視界に入る。
「緋咲、起きてんだろ」
緋い瞳が振り返る。
「邪魔だから足退かせよ」
午睡から覚めたばかりの緋咲はまだ眠そうな目を時貞に向けた。
それから視線を回りに巡らせ、自分が音楽室のピアノの椅子に座っている事を知った。
座っていると言うよりは、寝ていると言った方がいい。
緋咲の足はピアノの鍵盤の上に置かれている。
時貞の右の人差し指がそのすぐ傍まで来ていた。
「……ちゃんと起きてんのか」
緋咲はぼんやりした目で、煙草を銜えている時貞を眺め、足を少し浮かせると
時貞の右手の上を通り越し、踵で鍵盤を叩いた。
「退いた」
緋咲が笑ったので、時貞も笑った。
笑ったまま緋咲の足を掴むと思い切り持ち上げた。
緋咲の口から思わず短い声が洩れる。
体勢を崩しかけた緋咲に満足し、時貞は少しその足を下げてやった。
緋咲は椅子の背に腕を回しながら恨めしげに時貞を見上げた。
「……時貞、それ以上やったらホントこけるからな。止めとけよ?つーか止めてください。格好悪いです」
観念したように早口で言う。
時貞はにっこりと笑い、緋咲の足を元に戻してやろうとした。
しかしその前に何かの拍子で緋咲の体勢が大きく崩れる。
咄嗟に時貞が手を伸ばさなかったら、今頃二人とも床に倒れていたかもしれない。
「危ねぇ……」
溜息のようなその声は、ようやく起き上がった緋咲からも、繋いだ手を引いた時貞からも洩れた。
「何してんだよ」
「バーカ、それはこっちの台詞だ」
額を突き合せて言い合う悪態は楽しげで。
二人の笑い声は空の深い青を微かに震わせ、消えていった。
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マンガの最終巻についてはいくつか思うことはあるんですが。
確かにものすごい勢いで終わらせた感はあるけれど、あれもありなんじゃないかと思ってます。
天馬飛んじゃったし。
ただそれでもね。
緋咲さんがギリギリまで出てこなかったのにはもう……今まで何やってたの! と言いたかった。
つーか叫びました。
もう帰る。