どこか遠く、ピアノの音が響いてくる。
弾き方を知らない人間が戯れに鍵盤を叩いているような
不協和音。











『piano relish』




教壇に立つ数学教師が、授業を終わらせる合図のように出席簿で机を叩く数瞬前、
時貞は静かに立ち上がり教室を横断する。
一番後、窓側の席に座る時貞を止める者は無い。
職業柄、反射的に声を掛けようとした教師も緋い瞳に見据えられ言葉を失う。
大学を出たばかりの彼は、十歳以上も年下の時貞を完全に持て余していた。
特に目立って問題行動を起すわけではない。
クラスメートとも普通に接しているようだ、彼が知る限りでは。
ただ、時貞が教室にいると空気の感触が変わる。
そこにただいるだけで、目に見えぬ冷たいものが教室を微かに張り詰めさせるのだ。
時貞の姿が教室から完全に消えてしまうと、彼は思わず安堵の息を洩らしていた。


昼休み、学食に向かう生徒達とは逆の方向に時貞は歩いていた。
その姿に何人かが声を掛ける。
けれどその中の誰一人、緋い瞳を真正面から見る人間はいなかった。
適当にあしらいつつ時貞は廊下を進む。
少し俯き加減なその顔。
緋い瞳はただ自分の中で生起していく事象を観ていた。
前なんか見なくても足が行き先を覚えている。
この学校の音楽室には、いつでもギターが弾ける状態で置いてあった。
それを見つけた日から、時貞は昼休みになるといつも音楽室に行くことにしている。
そこで昼休みが終わるまでずっと弾き続けていた。
ここのところ、頭が茫としている。
何をやっても手につかずにすぐ飽きる。
ギター以外は。
学校にいる間はずっとギターを弾くことしか頭に昇ってこない。
音と韻律と指の動き。
そんなものばかりを脳味噌がしきりに追っている。
『弾く』ただそれだけの筈なのに
四肢が痺れるような欲求。
透き通るくらいに研ぎ澄まされた刃が喉元からこみ上げてくるみたいだ。
抑えこもうとしても、隙間を見つけてソレはいつでもやってくる。
いつでも。
時貞は小さく息をついて窓の外を眺めた。
七月の陽を浴び、木々の緑が気狂いめいて輝いている。
音楽室は向こうの校舎にあった。


ソレに指を触れた時、何かが身体の底で鎌首をもたげた。
あまり手入れされていない、少し傷ついたギター。
けれど、充分だ。
そっと持ち上げ音を出してみる。
誰もいない音楽室の中をそれは殷殷と響き渡る。
空気がざわつき始めた。
窓から飛びこんでくるのは昼休みの喚声。
緩やかに翻るカーテン、夏の風。
そして全てのモノは動きを止める。
時貞は瞳を閉じた。
ゆっくりと指先をギターに這わせる。
溢れ出る音が背筋を貫き駈け昇った。



その一瞬だけは
まるで空が自分みたい、なのにな



誰かの微笑を聞いた気がして、時貞は指を止めた。
この教室に入った時には気付かなかった、誰かの気配がする。
時貞はゆっくりとギターを椅子の上に置いた。
一音。
ピアノが鳴いた。
教室の奥、先程まで背を向けていたグランド・ピアノの方に時貞は歩み寄ってみた。
緩く紫煙が漂っている。
そちらに回り込むと煙草を銜えた少年が一人だらしなく椅子に凭れていた。
脚が鍵盤に乗っている。
「…いつからいた」
「おまえが来る前から」
眠そうに白い目蓋が閉じられている。
たぶん時貞と同じ一年だろう。
背格好も同じくらい、もしかしたら時貞の方が背が高いかもしれない。
けれど校内で会った記憶は無かった。
もし会っていたら忘れないだろう。
そんな気がする。
音楽室の先客はまるで昼寝をしているようだった。
ふと見ると、腕だけ通した白シャツから半分覗いている左肩に二本赤い線がついている。
たぶんシャツに隠れてもう二本くらいついてるんだろう。
時貞は少年に顔を近づけた。
「…いい匂いがする、花の匂い…」
「ウソつけ。あれくらいで香水の匂い移んねーよ」
「ふぅん?匂い移るようなコトしてたんだ」
そいつの柳眉が小さく跳ねた。
「肩、爪痕ついてる」
「…今日の最後、体育あるって言うの忘れた…」
不機嫌そうに言い、そいつは紫煙を細く吐き出す。
時貞は鍵盤の上に転がっている煙草から一本失敬すると火をつけ深く吸い込んだ。
「で、一緒にいた奴は」
「もう職員室に帰ったよ、昼休みになるといつもココに来る奴がいるって知ってたから」
「あぁ、俺」
「そ」
灰皿代りにしていた空き缶に煙草を押しつけると、そいつは初めて目を開けた。
何だか妙に冷たい色をしている眼球。
硬質の表面に歪んだ時貞が映りこむ。
「…へぇ?一年だ」
何が面白かったのか酷薄な唇はゆるりと弧を描く。
「てめぇだって一年だろーが」
「あぁ、だるぃからあんまし学校こねーけど」
ふざけた奴。
冷たく煌く双眸が時貞の顔をまじまじと眺め、緋い瞳を見据えた。
「……で、この間久し振りに顔出してみたら
昼休みにずっとギター弾いてる物好きがいるって聞いたからさ、
ソイツの顔ぐらい見てみよーかなって」
「…要はヒマなんだろ」
「まぁね」
ピアノがまた鳴り、鍵盤から脚が降ろされた。
そいつはふと口許から微笑を消して時貞を見上げる。
「なぁ、今日はもう弾かねーの?」
時貞はニ・三度瞬きした。
「……聞くの?」
そいつは小さく頷く。
その眼差しの、透き通る冷たさを
悪くないと思った。
「…わざわざそんな事のためにココに来てるなんて、おまえの方が物好きだろ」
揶揄するように言うと、そいつは鼻で笑い飛ばした。
他人に言われなくても自覚しているらしい。
冷たい瞳が今は確信のようなものを浮べ時貞を眺め
緋い双眸の奥の光に目を細めた。
時貞は唇の端を吊り上げる。
「…じゃあ、ま、煙草一本分の礼ってコトで……



その次の週、一年の定例職員会議で話題になったのは、
今まで殆ど学校に来なかった生徒が顔を見せるようになった事だった。
その時、会議に出た人間は素直にそれを良い事だと考えた。
けれどその考え方が間違っていた事に気付くために、次の定例会議を待つ必要は無く、
以降、二人の名前は職員間で禁句となった…



……
「くれ」
「あ?自分の吸えよ」
「全部吸った」
「……俺、てめぇが自分で煙草買ってるの見た事ねーかも…」
緋咲が頭を狙って投げつけてきた煙草を、上手く受けとめ時貞は笑ってみせた。

























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出会い編。
わりと初めて会った時から仲が良かったイメージがあるんです。
考え方とか好みは違うんだけど、ウマは合う。
そんな感じであって欲しい。


そろそろ戻る。